monologerのブログ

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バイアスを持たずに素直に読めばいい談話だと思うんだけどな…
村山談話にかけていた部分が多く盛り込まれていた。

「どうして日本は軍国主義に走っていったのか」「戦争により何がもたらさせたのか」「同じ轍をふまないためにどうするのか」をより具体的に、冷静に分析している。(直接的ではないにしろ、慰安婦問題にも言及している。いろいろ言われているが、これは韓国に対する大きな譲歩だと思う。)
更には、中国残留孤児を育てた中国人や旧敵国の赦しに対する「感謝の表明」というのは、今までの談話に無かった視点ではないか。村山談話でも戦後の支援に対する感謝はさらりと述べられていたが、個人レベルの怨念の克服、赦しという観点にまで踏み込んだ表現を日本の指導者がするというのはあまり前例がなかったのではないか。中韓政府に対する当て付け、後の「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」に繋がる前振りとも取れるが、だとしても、相手の赦しに感謝するという視点は大切だ。逆に日本人だって、今そこにある問題に対し硬直した姿勢で臨むのではなく、相手を赦す心を持って平和的な解決策を常に模索する姿勢が必要なのだ。
これに比べると、村山談話は「私は悪いことしました。すみませんでした。」という、非常に素っ気なく事務的なものに見えてしまう。もちろん当時としては日本の首相の歴史認識の表明として画期的だったわけだし、村山談話でもいろいろな綱引きの上での政治的な妥結があったおかもしれない。だが、私個人の見方としては、安倍談話は村山談話よりそれ相応の深化を見せていると思う。もちろん裏には政治的な意図がきっとあるのだろうが、結果として出てきた談話を読む限りそう思う。

そしてこの談話は、世界に向けたメッセージであると同時に、日本人に向けたメッセージという側面も強く感じる。特に「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」という下り。中でも重要なのは「あの戦争には何ら関わりのない」という箇所だ。
今の日本は、例えて言えば、「大日本帝国」という「犯罪者」(少なくとも世界の大半はそう見ているだろう)の子供だ。例えば親が殺人を犯したとして、その子供に親の罪を謝罪したり償ったりする責任はあるのか?
道義的には謝罪はすべきだろう。「親のやったことで私は関係ない」という態度は、理屈はそうだが被害者を中心に心情的には受け入れられないだろう。また、犯罪者の子供というケースとは違い、日本国は大日本帝国の継承国なのであり、戦争被害者に対して日本が一定の補償を行わなければ誰も補償してくれなかっただろう。(もちろん、個別の事案についてはどこまで補償すべきか協議すべきであり、要求されたからといって無条件に補償しなければならないというものではない。)
しかし、逆に周りの人々や社会全体で「あいつは犯罪者の子供。あいつ自身も犯罪者と同じだ!」というような扱いをする世の中というのもどうだろう?そんな世の中に生きたいと思うだろうか?そのような世の中で、犯罪者の子供達は屈託なく育つことができるだろうか?
戦争責任の議論において、こういった視点をあまり見ない。不思議なことに、日本人自身にもこのような視点が欠けているように思う。だからあの戦争を客観視できず、戦争を無理に正当化しようとしたり、逆に無条件に謝罪すべきというような主張をしたりする者が居るのではないだろうか。先ず日本人自身が戦前と戦後の日本を客観的に認識し、位置付けることができなければ、他国の深い理解・共感・赦しを得るのは難しいのではないか。

ただ残念なのは、安倍首相自身が直接謝罪していないと言って中国等から批判を受けている点。謝罪と補償は別ものであり、謝るだけならタダなのだから、いくらでも謝罪すればよいのではないか。ただこの時、「親に代わって被害者の皆さんに謝罪します」という心持ちで謝罪すればよいのだ。
冷静に「謝罪は相手が必要と思うだけする」、「個別の事実認識・補償は案件毎に客観的に話合いを続ける」、「現在の日本は帝国とは(継承国ではあるが)生まれ変わった別な国であり、民主主義の平和国家である」というスタンスを続けていけばよいと、私は思っている。