2008-8-31

2007年10月から、学部ゼミ生とスワンベーカリー十条店・赤羽店のパンを学内で毎週1回お昼休み時に販売している。この2店は随想録(62)で書いた(有)ヴイ王子が運営している。パンの製造・販売などを通じて障害者の雇用促進と自立支援をしている企業だ。創業者の小島靖子さんは十条店から程近い東京都立王子特別支援学校の先生だった。定年退職後、卒業生たちの雇用の場を確保するために、ヤマト財団が作ったFC、スワンベーカリーの第1号店となった。製造工場、販売店および喫茶店で障害者達が元気に働いている。彼らが遠くまで出かけて、官公庁、企業、幼稚園、養護ホームなどに直接宅配するところに特徴があるが、小島先生は「ユーザに届けるのはパンだけではなく、暖かさも届けています」と言われた。

 この時、先生から障害者の自立を描いたビデオを紹介していただき、中小企業論の講義で学生たちに見せている。東映が制作した『「障害者」それぞれの暮らしそれぞれの自立』というこの作品の中で十条店の事例も紹介されている。小さな企業は経営者と僅かな従業員が持つ身体化された知識を駆使して付加価値を生み出すことで生きている。障害のある人たちも例外ではない。このビデオを繰り返し見ていると、生きるワザの極限値を教えられる。

 2007年1月の北区企業表彰式で受賞した(株)赤羽金属製作所の野本社長は受賞挨拶の中で「小島先生の熱い思いを受けとめて雇用してみたが、彼らが非常に素晴らしい働きをしていることに感動して多くの障害者に働いてもらうことになった」と述べられた(随想録(74)参照)。この表彰式の数ヵ月後、十条店を再訪した。その時小島先生は「障害者に対する差別を解消するには子供の頃からの教育が大事だが、それだけでなくこれから社会に出る直前の学生達に彼らを知ってもらうことが一番の近道だ。彼らが何が出来て何が出来ないかを身近で体感してもらいたい」と言われた。

 話はここから展開していった。まず大学の総務課に相談して生協の協力を得ることにした。学内で弁当などを販売するには水回りなどの施設が整っていなければならない。地元商店街の人達が構内で弁当を販売して好評だったが保健所関係で中断したばかりだ。そこで生協の売店がある建物内で、生協の弁当販売の横で売らせていただくことになった。パンを入れたカゴを乗せるワゴン台車も生協が貸して下さった。

 販売は11時半頃から13時まで行っている。11時に赤羽店から小さな車でスワンの人たち3名がパンを運んでくる。中には、調理パンと菓子パンが合計200個から300個ほど、現金を入れる手提げ金庫、スワンベーカリーの幟、販売するときにパンを載せるカゴとその下に敷くビニールシートなどが入っていて、これらを大学の北門近くに駐車してから台車で運んでくる。スワンのメンバーは2007年度はYさん、Kさん、Oさん。2008年度はOさんに代ってMさんが入った。Yさんは2007年3月に大学を卒業してヴィ王子に入社し赤羽店で働いている。車の運転も彼女が行う。われわれは、11時15分前に集合して、別棟の生協事務所に置いてある販売用のワゴン台車3台などを運んでくる。授業中なので多少気を使いながら構内をガラガラと音を立てて運んでくるうちに結構汗をかく。さらに別棟の商学部事務所に預けてある宣伝用チラシや販売用の前掛けなども取ってくる。

 用具の準備が整ったら、ワゴンの上にシートをかけ、カゴを載せて、パンを置いていく。パンを置いたらそこに価格表示の札を置く。このあたりはきちんと手順どおりにしないと、Kさんにきっちり叱られる。この合間に買っていただいたパンを入れる袋の中に宣伝用のチラシを折って入れる。これを150袋くらい用意しておく。そうこうしている内にお客さんが来る。11時半頃から12時頃までは職員の人たちが多い。12時を過ぎる頃には講義が終わった学生でホールが溢れかえる。ここから12時半頃までが一番忙しい。生協の弁当販売が終了するのが12時半頃なので、そこから13時までの間にも客が結構来る。ゼミ生たちとスワンの人たちが協力して、パンを袋に入れる、代金をいただく、お釣を渡す、などの作業を行う。手が空いているゼミ生は外で呼び込みなどもする。店を開けていればまだ売れるのだが、13時から講義が始まるので、われわれも閉店する。片づけをし終わると大体13時15分頃になる。これが「スワン ベーカリーパン販売のお昼」の光景である。

 パン販売日には、小生も必ず顔を出しているが、初年度はゼミ生たちの自主性に任せる部分が多かった。別の大学のボランティアサークルで同じ経験をした学生がいたので彼とボランティア意識の高い学生1名とが中心になって運営してくれた。販売当初は彼ら以外のゼミ生も多数参加して客の呼び込みなども担当してくれた。しかしながら、初期のお祭り騒ぎが収束していくと、この販売に参加するゼミ生はコアメンバーに限られてきた。それ以外の学生たちも、声を出して販売する能力はある、障害者に対する気持ちもある。しかし、自主性だけに任せていると、ボランティアを目的に集まった集団ではないので、確実に、機能的に、連携的に動くことが出来ない。最も基本的なこと、すなわち、販売日に必ず来る、時間通りに来る、という点で絶えず不安がつきまとう。むろん、学期始めの科目登録の時点でこのパン販売日を予告していなかったため、講義のある学生もおり、止むを得ない点もあるが。このため、小生 が11時前に顔を出して、学生がいない場合はワゴン台車の搬入などを行うことにしているが、スワンの人たちが到着して学生が一人も現場にいなかったときの彼らの気持を察すると申し訳ない気持がする。

 2008年度からは販売体制をゼミ3年生(16名)主体のフォーメーションに変更した。このゼミ生たちはゼミ生選考面接の際に、あらかじめパン販売に協力してもらうことを告げておいたので覚悟が出来ている。授業開始と同時に3名ずつ当番日を割り当てて販売や準備の手順も明確にし、毎回問題点や課題を全員が共有するようにした。このためこの春学期は11時頃の現場に誰もいなくて呆然とするという事態は一度もなかった。学生もスワンの人たちとの連携を考えながら働くようになった。とりわけ今年のゼミ生は、サービス業のバイトを経験している人間が多く、臆せず愛想よく販売出来る。無断欠席する人間もいない。

 おかげでパンの売上も安定してきた。スワンからは毎回200個以上持ってくるが売れ残りもそれほどではない。売上金額は2万5千円から3万5千円ほどだ。スワンのパンは、提携しているタカギベーカーリー(アンデルセン)から1回目の発酵が終わっているパン生地を買い、各店舗でその生地を成形した上で再発酵さて焼いている。このため品質がよく味も安定しているので早稲田での評判もい。とりわけ職員の人たちに固定客が増えている。協力していただいている生協の方たちもご贔屓にしてくれる。一番人気はイチジクパンだ。これは早稲田だけの現象のようで原因はよくわからないが、確かに美味しく食べやすい。

 嬉しいのは隣の生協の弁当がよく売れる日はパンもよく売れるというプラスサムの関係があることだ。生協の方たちには「少し暑くなってきたらサンドイッチが売れるわよ」とか「雨の日にはホールに学生が溜まるのでよく売れるから仕入れを多くした方がいいよ」などというアドバイスを頂き、実際にそうなった。また、スワンの人の体調が悪かったときには椅子まで用意して下さるなど、弁当販売で忙しい中、きめ細かな心遣いをいただいている。

 1年近く続ける中で、スワンの人たちとゼミ生とのチームワークもとれてきた。小島先生が言われた「障害者たちに出来ることと出来ないことがある」のと同じように、支援する学生たちにも「出来ること出来ないこと」がある。このことをお互いが認識できるようになってきたように思う。一番嬉しかったのは、「雨の日は売れる」という話を学生にした次のパン販売日直後のYさんからのメールだ。「今週も販売のご協力ありがとうございました。今回は33,090円の売り上げとなりました。帰りの車の中で、Kちゃんがどこで話を聞いたのか「やっぱり雨の日の方が売れるんだ」と言って いました。また、ゼミの学生さんたちが、お客様とのやりとりをスムーズにするために工夫して下さったり、何よりKちゃんやMちゃんと上手く付き合って下さっていて、嬉しく思いました。来週もよろしくお願い致します」。小生の側から見れば、障害者の人たちも学生たちと上手く付き合ってくれるようになってきたと感じる。チームワークはこうして育っていくのかもしれない。

 むろん、課題もある。作業上の当面の課題は「お釣を間違えないこと」である。お釣の計算はゼミ生たちの方が得意だろうと思っていたが、結構間違えることがあって、販売金額と金庫内の現金が合わないことがある。人のことは言えないが、今の若い人は暗算が苦手なのかもしれない。無理な暗算をするよりも電卓を使うよう指示しているところだ。また、小麦粉などの原材料価格高騰による値上げも頭が痛い。仕入れ先が値上げをかなり抑制してくれているようだが、それでも今期は値上げをせざるを得なかった。現在のところ売り上げ減少にはなっていないのが幸いだが。また、品揃えをスワン側で決められないのも販売戦略上つらいところである。早稲田で人気のイチジクパンもなぜか生産停止になり、秋からは販売出来ない。

 まだまだやらなければいけないことはあるが、10年は続けようと思う。われわれはパン販売を「身体化された知識で勝負しようにもハンディのある人たちを応援しよう」という主旨で始めた。しかし、大事なことは、経験や修練の長さだけではない、技能水準の高さだけでもない、ということを教えられている。われわれは身体を使ってしか生きていくことは出来ない。「生きること」「生活すること」が「知識の身体化」の原点だ。原点からどの方向にどれだけ進むかはそれぞれの個性だろう。

 「生きることとは自分に責任を持つこと」(先のビデオにおける詩人の村山美和さんの言葉)。
2008-7-31

 某携帯電話会社のCMで、「シャベルですから」と言うのがある。「あれは、スコップでしょう。意味が判らないよねえ。」「えっ、あれはシャベルだろ。」「いや、ショベル。」「え、なになに、移植ごてのこと?」「移植ごて??」・・・爆笑・・・その場では、どうも関東圏では、小さな手に持って砂を掘るやつをシャベル、大きな柄がついて、足でざっくっと掘るやつがスコップと呼んでいるのではないかなあ、んでもって、関西圏ではそれが逆なような感じがするなあ・・・ということになったのですが、みなさん、いかがですか?
というのも、8月16日放送予定の『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)の中で、堺市の浅香工業の工場見学をやります。えっと、シャベル、いやスコップ・・・・あの柄がついて大きくて足でザッてやるほうです。ちなみに、工場で伺うと中近東向けのはなぜか金色に塗装するように注文がするそうです。お盆の最中の放送ですので、ご家族みなさんでご覧下さい。

担当は、中村智彦です。



 パネル・ベイってどこ? ~ やっと風が吹いてきた?

 ここのところ、ろくな話が無かった関西の経済界。そんな関西に、ちょっと元気になるニュースが出てきています。

 まず、尼崎の松下電器産業のプラズマ工場。すでに二つの工場が稼動中。さらに約2800億円を投じて第3工場も建設中で、三工場がフル稼働すると、なんと世界のプラズマ需要の約60%をまかなうことができるようになるという。さらに、松下などの合弁によるIPSアルファテクノロジは姫路市にも液晶パネルの新工場建設だ。投資総額は三千億円に上る。臨海部に二つの工場を集積し、第三工場もいま建設中で、来年五月に稼働する。三つがフル稼働すれば、世界のプラズマ需要の六割を担うことになる。
 そして、堺市にはシャープが3800億円を投資して、液晶工場と太陽電池パネル工場を建設中だ。
 さらに7月30日に発表されたのが、松下電器産業グループのリチウムイオン(Li)電池工場の新設。大阪市住之江区の関西電力大阪発電所跡地に、約1000億円を投資し、2010年4月に生産開始予定。フル稼働時には世界最大級の月産5000万個の生産能力となる予定だとか。これら以外にも、三洋は淡路島に工場建設を計画中だし、住友金属工業が和歌山市に新高炉を建設中だ。
 こうした大阪湾岸への投資額は、総額1兆円を超すとも言われ、さらに関連産業などの投資を勘案すると2兆円程度まで膨れ上がるのではないかと予想されている。経済波及効果も期待されており、こうした大阪湾岸への工場集積が生み出す経済波及効果は、2兆円を超すと試算されている。(関西社会経済研究所による。)

 パネル・ベイという呼び名は、シャープと日経新聞がそれぞれ使い始めたのだと主張しているが、いずれにしても日本でも、世界的に見ても、ここまで液晶、プラズマ、太陽電池パネルと、パネルと付けられる物が製造される工場が集積しているのは珍しいだろう。

 関西にしてみると、このところ、首都圏には水を開けられ、さらに自動車産業で好調な東海地方を横目に見ながら、あまりぱっとしなかっただけに、今回の巨大投資の連続は関西復権の期待が高まる。事実、大きな投資による建設需要、さらに今後、雇用の増大や生産額の上昇はほぼ確実となっている。

 しかし、一方で従来のような大手企業の工場進出と状況が違うと指摘する声も多い。まず、製品が非常に高度化しているため、以前の家電製品のように広く薄く中小企業に仕事が廻るということが期待できない点。さらに、部品点数が減少している点。そして、技術の高度化に伴いブラックボックス化している部分が多く、大企業が内製化を進めたり、守秘義務など厳しい条件をクリアした企業しか参加できない点などである。

 シャープは、新設する堺市の工場敷地に隣接する形で、関連産業の進出を呼びかけ、コンビナートを形成する計画である。すでに関連するインフラ設備や部材・装置メーカーの工場が進出を決めている。ただ、これらのコンビナートに進出できているのは、国内でも名だたる企業ばかりである。

 地元の中小企業への波及効果はどうなのか。残念ながら、上に書いたように以前のような多くの企業に好影響が出るとは言い難い。しかし、生産設備などの装置産業が活性化することは期待されるし、今後、各工場の生産が本格化するまでに商談会も繰り返し行われる。すでに一部の中小企業では、各社との取引増加を期待している。
 いずれにしても、今までのような下請け振興といった形での期待はしない方がいいだろう。残念だが、技術力や開発力などを備えていない中小企業には、好影響は出ないだろう。もし、パネル・ベイの好影響を、地域経済、特に中小企業へ繋げていくのだと考えるのであれば、技術力、開発力をつけた中小企業がいかに沢山、創生されるかにかかっている。

 テレビ放送のデジタル化は、日本だけではなく世界的な流れとなっている。今後、ブラウン管に変わって、液晶、プラズマテレビへの買い替え需要が広まっていくことは、ほぼ確実である。一方、環境問題や原油価格の高騰から、太陽電池あるいはリチウム電池への需要も拡大しつつある。そう考えると、次世代に向けて日本がお金を稼げる期待の産業である。関西が、大阪がという範囲の問題ではなく、こうした産業が成長していけるのかどうなのかは、実は日本の将来を占う上で非常に重要な課題になっている。

 産業構造が変化しつつある中で、ここしばらくのパネル・ベイの動きは注目に値すると考えるのです。

 ちょっと景気の良い話を書きましたが、全体的には厳しい状況ですよね。こういう時には、いろいろ美味しい話を持ってくる人たちが増加するようです。「こういう不安な時代だからこそ」とか、中には「一緒にこの世界を変えていきましょう」とか、ま、いろいろ立派なこと言っても「儲かりまっせ」ということなんです。でも、そうそう楽して儲かる話はころがっていません。1)その場で判断せず、信用がおける人に相談してみる。2)ネットで検索してみる。3)「論理的に説明できないが」と、いやに難しくしようとしたら警戒する。4)不安になったら躊躇せず地域の消費者センターや警察に相談する。これらが大切です。自分だけではなく、廻りの特に高齢者の方たちも注意してあげてください。景気が悪くなって、不安に思う時こそ、騙そうとする人たちのねらい目ですから。ちょっと廻りで気になることがあって書いて見ました。
2008-7-31

 いつの間にか今年も半年を過ぎてしまった。この6ヶ月間に初めて訪ねた町工場のいくつか紹介してよう。1月には、川崎市の久下精機(株)(くげせいき)を地元の工業高校の先生達と訪問した。高津区宇奈根にあるこの会社は、光導波路自動調芯装置(単一の光ファイバーを分岐する接続部で適切な位置で光の軸を合わせ接合させる装置、国内シェアの3割を占める)という製品で第2回川崎ものづくりブランドに認定されている。機械加工から製品開発へ移行してきた会社で、創業場所は目黒区中延。現在は創業者の長男(62歳)が会長、次男(54歳)が社長を務めている。

 従業者数は12名ほどで、主力は30から40歳代の開発技術者達だ。主な開発製品は光ファイバーを接続するときに芯を合わせて接着する自動機械や携帯カメラのレンズの調芯・検査の自動機械などであるが、この会社が元々は高度な機械加工技術を売り物にしていたことをうかがわせる別工場が近くにある。ここでは60歳代後半の熟練工2名がフライス系の汎用機を駆使している。ステンレス鋼やモリブデン鋼などの難削材の加工ノウハウをかなり持っているようだ。事業の主力は製品開発に移ってもこういった熟練工を大切にしている点にこの会社のものづくり意識の高さを感じた。
 3月は、たくさんの工場を訪問する機会に恵まれた。その一つは、大田区の下丸子駅の近くにある赤塚刻印製作所。夫婦2人のこの町工場は、企業のロゴマークなどに利用される刻印母型を作っている。ご主人の赤塚さん(57歳、2代目)は高度な手彫り彫刻の技能を評価されて平成16年度東京都優秀技能者(東京マイスター)選ばれている。特殊な手彫り彫刻ができるのは区内では同社だけらしい。

 住まいの1階部分が工場で、NC彫刻機2台と手動彫刻機が4台ほどある。手動機は皆同じタイプだが治具の工夫でそれぞれの用途別になっている。仕事は大手自動車メーカーなどの製造番号などを打つための刻印などが多い。大手電機メーカーのも全てやっている。指輪の内側にネームを彫るための刻印も作っていたが、虫眼鏡でなければ見ることが出来ないような細かい刻印を作る。それも母型なので凸型に彫らなくてはならない。刃物も小さなグラインダーを駆使して自作する。NC機は荒削りまでで、細かい加工は手動機で行う。

 そして最後の仕上げは工場内の一段高いところにある「仕上げ座敷」で赤塚さんが胡坐をかいてやる。NC機は奥さんに任せて、彼はほとんどここで作業している。仕上げは木の枠に挟み細いタガネを使って行う。時々砥石で研ぎながら。研ぐ時もタガネの先端に微妙なアールを作らないと真っ直ぐにタガネが動かないそうだ。物静かな彼もこの辺りのノウハウを語る時、とても熱弁になる。彼の指はしっかりしていて長く、細いタガネと一体化したような形状だ。このような作業をする一方で、彼の技術とネットワークを活用して福祉機器の製作にも取り組んでいる。60歳になったら、儲けを度外視してこちらの仕事に専念したいという志の高い人物だ。

 この工場からしばらく歩いたところに東急アーバンテック矢口という民間の工場アパートがある。この中にあるJPN(株)も興味深かった。経営者の日沖さん(60歳くらい)は1977年に板橋区で創業し空気圧機器を中心とした各種流体機器などの設計・製作を開始した。ほどなくして大田区矢口に移転し、仕事内容も空圧機器から小型のミニ油圧機器へと移行した。医療機器などで使うものが多いようだ。1987年に現在の工場アパートに移転した。小型油圧機器部門(FA事業部といっている)における生産は外注中心で、社内は設計がコア技術となっている。油圧機器を開発・設計して部品を外注で作り、これをパート主体で組み立てる。工場内には汎用機が何台もあるが、これは試作や修理用で、年配の職人が使っていた。埼玉にも工場があり、総勢55名(パート含む)、うち矢口に30名ほどいる。

 同社は、2006年に区内にあった東洋ゲージ(株)という挟みゲージなどを作る中小企業をM&Aした。この会社が廃業するという情報を聞いて、そこの設備を買い取り、社員の大部分も引き取ってゲージ事業部を工場アパート内の別室に立ち上げた。こちらでは14名ほどが働いている。この部門の設備には各種研削盤やラッピングの道具などが揃っていて、ミクロン、サブミクロン加工技術がコアだ。

 同社は、この工場アパートの3階部分に事務所と設計部門を保有し(分譲)、2階にも5室ほど借りている。小さいながらもアパートの中に拡張余地があったのでこのようなかたちでのM&Aも可能だったのかもしれない。設備買取りなどに資金を投下したが、このような事例は中小企業同士のM&Aのモデルの一つとなるかもしれない。

 3月は山形県長井市にも出かけた。同市寺泉にある(有)山形工房では、日本けん玉協会公認の競技用けん玉や各種けん玉、こま、黒獅子等の民芸品を製作、販売している。経営者の鈴木さん(70代前半くらい)は、この道40年ほどで、それ以前は農業を営むかたわら木工の民芸品などを作っていた。けん玉協会のけん玉を作ることからこの道に入り、全国的にも高いシェアを持っている。けん玉は、山桜やエンジュなどの原木を使い、原木から角材、角材から丸材、皿・剣・玉の加工、玉の塗装、玉の穴加工、組み立てなどの工程を経て完成する。

 原木は10年近く枯らす。見た目も触感もかなりの質感がある。剣の加工は、汎用旋盤のような木工機械に倣いの型をつけてなぞって作る。皿や玉も同じようにして作るようだが、工具と治具にかなりの工夫があるようだ。同社で使う工具や治具は、県内の中小企業が作ったものを使っているらしい。この会社は、高度な精密加工に不可欠の切削工具を作ることで有名な企業だ。高度技術で超微細なバネ(半導体検査器具向けでは直径0.03ミリのスプリングを外径0.138ミリに巻くというものもある)を作る大田区の小松ばね工業(株)もこの会社のドリルを使っていると聞く。優れた技能・技術を誇る企業は優れた工具を使うということなのだろうが、長井市の中小企業と大田区の中小企業が同じ中小企業を介して高度技術を発揮しているというのも面白い。

 同社のもう一つのコア技術はけん玉の玉の塗装だ。けん玉協会で認定されるには1万回やっても傷が出来ないものでないといけない。ここは機密事項のようで中は見せてもらえなかった。7回位塗るらしいが、塗料に混ぜるものがみそのようだ。また、社長はかなりの熟練者であると同時にアイデアマンでもあり、彼が考案した「四つ玉のけん玉」というのもあった。

 同市芦沢にある東北金属金型工業(株)も都市型タイプのいき方をする企業として興味深かった。創業者は熊谷社長(70歳代、今も現場で働いている)で、元々はハッピーミシンの下請として金型加工とプレスをやっていたが、バブルの前あたりから生産の海外移転で仕事がなくなり板金加工に転向した。当初はアマダのタレットパンチプレスとベンディングマシンで始めたが、その後レーザーカットマシンを導入し、さらに最近は16ミリの厚さを加工できるレーザー機も入れてて精密板金加工に対応している。めっきの外注もしているので、RoHS(ローズ、電子・電気機器における特定有害物質の使用制限についての欧州連合(EU)による指令)にもしっかり対応している。

 量産対応のプレス加工から多品種少量の板金加工へ転換し、高度設備主体のいき方で多様かつ高度な技術を保有する、という戦略をリードしているのは長男の副社長(40代前半)だ。サラリーマンを経て30歳くらいでここに戻ってきたが、大田区や川崎市にもこのような事業展開を図っている元気な企業は多い。訪問時点ではまだ工場内は雑然としていて空間の無駄遣いが多かったが、整頓すればかなりの拡張余地もあり、従業者数14名のこの企業の方が大都市の中小企業よりも有利となる局面も生まれてくるのではないかと思う。

 5月は墨田区向島の(株)川合染工場(せんこうじょう)を訪問した。従業員数は26名、平均年齢は50代の会社だ。経営者(58歳)は2代目。染工場に務めていた父親が戦後独立創業した。当初は糸を染めていたが、沖縄返還後、製品を染める仕事に転向。現経営者は大手化学メーカに勤務して修業した後に入社した。取引先メーカーに値決めをされる業界の価格決定プロセスに疑問を持ち、多品種少量短納期時代に対応するためのいき方として、デザイナーと共同で色を決めてから受注するやり方に変えた。布を染めるだけの仕事だが、それまではキロ当たりいくらの仕事をしていた。これを
1枚いくらの仕事に切り替え、単価も高く設定している。染工場の数は激減しているが、それでもメーカーは値切ってくる。これに対しては、高いと思ったら別の所に行ってください、と言う。これが出来るのは同社ではデザイナーの考えている色が出せるから、という。

 装置型の工場には全自動の機械が2台あり、社長が図面を引いて作った装置もある。従業員は皆熟練工でかなりのノウハウがありそうだ。仕事は三宅一生などのデザイナーズブランドものが多く、一品短納期試作が中心なのでここに立地する意味がある。ある程度量産の仕事をやっていた時代には長野県諏訪市に工場を持ち一貫生産をしていた。人件費の安さで勝負するなら中国に行けば良い、こちらは装置と技術で多品種少量生産に対応した付加価値の高い仕事をやる、という。同社は草木染めで特許も持ち、コーヒー滓やお茶のカテキンなどを使っての染めも試みている。技術/マーケティング志向が強く、多品種少量で生きるためには「いかにして価格決定権を握るか」が重要であるということを身をもって示してくれる企業だ。

 この半年を振り返って印象に残った6社をこうして整理してみると、皆、多品種少量の時代を、身体化された知識をコアに、設備を導入したり新たな開発や工夫を凝らして、意欲的に前向きに生き抜いているところばかりだった。