2005-7-31
小生は31歳まで大学院にいた。その前年、1979年の年初から父親がやっていた工場の経営が大きく傾きだした。年が明けて1980年になると工場閉鎖 は時間の問題であった。大学院と二股をかけていた小生もさすがに安穏としてはいられなくなった。大学教員の口もないので、当時興隆し始めたシンクタンクの 募集を探した。一足先に中堅シンクタンクに就職した大学院仲間から原稿書きの仕事などを回してもらっていたので、とりあえず自分の身についているのは原稿 書きや資料調査などだろうと思ったわけである。この歳で初心者としてサラリーマン社会に入るわけにはいかないので、身につけたもので勝負するしかないと考 えた次第だ。
小生は31歳まで大学院にいた。その前年、1979年の年初から父親がやっていた工場の経営が大きく傾きだした。年が明けて1980年になると工場閉鎖 は時間の問題であった。大学院と二股をかけていた小生もさすがに安穏としてはいられなくなった。大学教員の口もないので、当時興隆し始めたシンクタンクの 募集を探した。一足先に中堅シンクタンクに就職した大学院仲間から原稿書きの仕事などを回してもらっていたので、とりあえず自分の身についているのは原稿 書きや資料調査などだろうと思ったわけである。この歳で初心者としてサラリーマン社会に入るわけにはいかないので、身につけたもので勝負するしかないと考 えた次第だ。
大手は新卒中心の採用なので、中途募集のあった
(株)SK研究所という社員20名の会社に応募してみることにした。企業案内によれば、国土庁、地域振興整備公団、NIRAなどから受注しているシンクタ
ンクの草分けらしい。社長は財界で活躍し、所長は建築界で活躍する人物で、大手ゼネコンなどから集めた資本金は3億円もある。場所も東宮御所のすぐ近く
で、いかにもシンクタンクという店構えだ。
2月頃、なごやかに部長面接を終え、無事採用の運びとなった。9月までは試用期間で、時給 800円、残業代は月20時間までつく、というバイト待遇だ。こうして80年4月1日から小生のサラリーマン生活が始まった。会社はとても華やかで自由な 雰囲気であった。社長も所長も別に本業を持っている人達なので、社内でお会いしたことは一度もなかった。会社の業務内容は三つに分かれており、一つは会員 企業に資料提供、講演会などのサービスを提供する事業。年末には東京アメリカンセンターで派手なパーティーを開催していた。ここの担当者は一人だけで、着 実な収益を上げていたようだ。もう一つは、著名な学者達が出入りしていた豪華な部屋での事業。普段は秘書が一人いるだけで、ここの収益構造は今もって不明 である。
小生が配属されたのは、三つ目の調査研究事業部門である。部長は小生より10歳くらい年上の学者タイプだ。彼以外の直属の上司 は3人で、計量分析の虫と地域開発の職人と工学の専門家がいた。年齢は小生より一つか二つだけ上だが、会社をいくつか渡り歩いてきたプロばかりであった。 しかし、ここは労働集約的で、しかも官公庁からの受注が主体だったので収益性はよくなかった。
部長は出勤時にいつもガムを噛んでいた。 こめかみを刺激して脳の働きがよくなるらしい。非常に議論好きの人で、その後何冊も著書を出したりしていた。計量分析の虫は徹夜も休日出勤も大好きで、口 髭まで円形脱毛症になるほどに仕事をしていた。地域開発の職人は、都市計画図等と現地を見て推理するのが得意で、テニスで鍛えた身体でどんな僻地でも喜ん で出かけていた。工学の専門家はアイディアを出すことを得意とし、がむしゃらに働く二人を横目に、マイペースで淡々とコンサルティングなどをやっていた。 これら3人は部長とはあまり仲がよくなかったようだが、他人に干渉するタイプの人達ではなかったので仕事はやりやすかった。
小生は主に 地域開発の職人と組んで仕事をしたが、この分野は現場をどれだけ踏むかが重要で、何度も地方に実態調査に行かされたことが、その後の進路を決める重要な経 験となった。また、この上司はクライアントに対するプレゼンテーション能力(パワーポイントなどのない時代の本来の説得力)にも優れていたので、これを横 目で見ていたことも次の職場に移った時に非常に役立った。
ワープロもなかった当時の原稿書きは、小さな方眼のマス目が薄く入ったB4用 紙に鉛筆で書き込み、これをさらに字の上手な女性達が清書して、コピーをして報告書にするというスタイルであった。マス目に字を埋める際、結構力を入れて しまうのでシャープペンの芯がしょっちゅう四方に飛んでいた。ミスノン(白い字消し)・ピット糊・はさみ・定規というコピー切り貼りセットと消しゴム、そ して関数電卓が卓上常備品であった。
インターネットがなかった当時の資料調べは、会社の資料室、国会図書館、大学や業界の図書館、神田 古書店街などに足を運んで行った。アンケート発送の際は、何百通のアンケート票を手押し台車に載せて青山郵便局まで運んだ。解析は、渋谷にあった計算セン ターの計算機を借りて行っていた。地方財政モデルの分析ではパンチカードを自転車に乗せてこのセンターを往復した。当時はフォートランでプログラムを書い てこれを計算センターでパンチカードに打ってもらってバグを修正しながら計算機を回してもらっていたのである。
一番印象に残っている仕 事は、「地域紛争」という名のプロジェクトで、高速道路、新幹線、送電線などを建設する際に反対運動がどのように発生してどのように終息していったかを調 べる調査であった。大手企業があるものを建設する際の参考にするための委託調査なので、理屈をこねくり回すよりも、過去の事例を調べてそこから実際に役に 立つ結論を出すというやり方が要求された。
その調査では、1月末に行った東北出張が今も記憶に残る。日本海側のある都市で起きた紛争の 反対派リーダーの農家にインタビューに行ったのだが、地吹雪の吹き荒れる中、そこにたどり着くまでが大変だった。話を聞き終えた時、吹雪はさらに勢いを増 していた。市の古い図書館の屋根裏でだるまストーブに当たりながら、当時の新聞を調べ、コピーしたりもした。この仕事では北関東のとある山麓にビデオ機材 を背負子に載せて撮影出張にも出かけた。
こうして土日も仕事、年末年始も自宅持ち帰り仕事で、1年間はあっという間に過ぎて行った。生 活体力と行動体力が何よりも要求される世界であった。その代わりこの業界の基本的な仕事が身につくのも速かったような気がする。ある意味、IT化の言葉す らなかったこの時代のシンクタンクは小生にとって優位性を発揮しやすい場だったのかもしれない。
この会社の唯一の欠点は給料がとても安 い、ということだった。1年目の年収は税込みで180万円だった。上司のプロ達が400万円。部長が800万円で、当時の大手シンクタンクの35歳並みの 金額である。入社1年が過ぎた頃から、これではいけないと思い、6月に辞表を出した。早速、次の職を探して、同規模の技術翻訳会社の社長面接にまでこぎつ けたが、その時、業界2位の(株)M研究所で中途採用があるという話が舞い込んだ。
7月末頃に面接があり、その後同僚となる人達が出てきて人物評定をしてくれたが、前の会社が地域開発などの分野でかなり知られていたのが幸いして、かなり過大評価をしてもらった。おかげで9月入社の運びとなり、シンクタンク生活の第二ラウンドが始まったわけである。
この(株)SK研究所は、その後次第に経営が悪化して某広告代理店の資本が入り会社の様相が一変してしまった。職人も専門家も転職し、残った計量分析の虫 が、その誠実な人柄を買われて、社長を押し付けられていたが、結局、2003年に解散し、33年の歴史に幕を下ろした。これは奇しくも小生の父がやってい たメッキ工場と同じ寿命であった。他の資本を入れることなく銀行借り入れだけで何とかしのいでいた従業員30名のメッキ業と大手資本を大量に導入しながら これを食潰していった華やかなシンクタンクの寿命が同じというのもなかなか示唆するところ大である。
2月頃、なごやかに部長面接を終え、無事採用の運びとなった。9月までは試用期間で、時給 800円、残業代は月20時間までつく、というバイト待遇だ。こうして80年4月1日から小生のサラリーマン生活が始まった。会社はとても華やかで自由な 雰囲気であった。社長も所長も別に本業を持っている人達なので、社内でお会いしたことは一度もなかった。会社の業務内容は三つに分かれており、一つは会員 企業に資料提供、講演会などのサービスを提供する事業。年末には東京アメリカンセンターで派手なパーティーを開催していた。ここの担当者は一人だけで、着 実な収益を上げていたようだ。もう一つは、著名な学者達が出入りしていた豪華な部屋での事業。普段は秘書が一人いるだけで、ここの収益構造は今もって不明 である。
小生が配属されたのは、三つ目の調査研究事業部門である。部長は小生より10歳くらい年上の学者タイプだ。彼以外の直属の上司 は3人で、計量分析の虫と地域開発の職人と工学の専門家がいた。年齢は小生より一つか二つだけ上だが、会社をいくつか渡り歩いてきたプロばかりであった。 しかし、ここは労働集約的で、しかも官公庁からの受注が主体だったので収益性はよくなかった。
部長は出勤時にいつもガムを噛んでいた。 こめかみを刺激して脳の働きがよくなるらしい。非常に議論好きの人で、その後何冊も著書を出したりしていた。計量分析の虫は徹夜も休日出勤も大好きで、口 髭まで円形脱毛症になるほどに仕事をしていた。地域開発の職人は、都市計画図等と現地を見て推理するのが得意で、テニスで鍛えた身体でどんな僻地でも喜ん で出かけていた。工学の専門家はアイディアを出すことを得意とし、がむしゃらに働く二人を横目に、マイペースで淡々とコンサルティングなどをやっていた。 これら3人は部長とはあまり仲がよくなかったようだが、他人に干渉するタイプの人達ではなかったので仕事はやりやすかった。
小生は主に 地域開発の職人と組んで仕事をしたが、この分野は現場をどれだけ踏むかが重要で、何度も地方に実態調査に行かされたことが、その後の進路を決める重要な経 験となった。また、この上司はクライアントに対するプレゼンテーション能力(パワーポイントなどのない時代の本来の説得力)にも優れていたので、これを横 目で見ていたことも次の職場に移った時に非常に役立った。
ワープロもなかった当時の原稿書きは、小さな方眼のマス目が薄く入ったB4用 紙に鉛筆で書き込み、これをさらに字の上手な女性達が清書して、コピーをして報告書にするというスタイルであった。マス目に字を埋める際、結構力を入れて しまうのでシャープペンの芯がしょっちゅう四方に飛んでいた。ミスノン(白い字消し)・ピット糊・はさみ・定規というコピー切り貼りセットと消しゴム、そ して関数電卓が卓上常備品であった。
インターネットがなかった当時の資料調べは、会社の資料室、国会図書館、大学や業界の図書館、神田 古書店街などに足を運んで行った。アンケート発送の際は、何百通のアンケート票を手押し台車に載せて青山郵便局まで運んだ。解析は、渋谷にあった計算セン ターの計算機を借りて行っていた。地方財政モデルの分析ではパンチカードを自転車に乗せてこのセンターを往復した。当時はフォートランでプログラムを書い てこれを計算センターでパンチカードに打ってもらってバグを修正しながら計算機を回してもらっていたのである。
一番印象に残っている仕 事は、「地域紛争」という名のプロジェクトで、高速道路、新幹線、送電線などを建設する際に反対運動がどのように発生してどのように終息していったかを調 べる調査であった。大手企業があるものを建設する際の参考にするための委託調査なので、理屈をこねくり回すよりも、過去の事例を調べてそこから実際に役に 立つ結論を出すというやり方が要求された。
その調査では、1月末に行った東北出張が今も記憶に残る。日本海側のある都市で起きた紛争の 反対派リーダーの農家にインタビューに行ったのだが、地吹雪の吹き荒れる中、そこにたどり着くまでが大変だった。話を聞き終えた時、吹雪はさらに勢いを増 していた。市の古い図書館の屋根裏でだるまストーブに当たりながら、当時の新聞を調べ、コピーしたりもした。この仕事では北関東のとある山麓にビデオ機材 を背負子に載せて撮影出張にも出かけた。
こうして土日も仕事、年末年始も自宅持ち帰り仕事で、1年間はあっという間に過ぎて行った。生 活体力と行動体力が何よりも要求される世界であった。その代わりこの業界の基本的な仕事が身につくのも速かったような気がする。ある意味、IT化の言葉す らなかったこの時代のシンクタンクは小生にとって優位性を発揮しやすい場だったのかもしれない。
この会社の唯一の欠点は給料がとても安 い、ということだった。1年目の年収は税込みで180万円だった。上司のプロ達が400万円。部長が800万円で、当時の大手シンクタンクの35歳並みの 金額である。入社1年が過ぎた頃から、これではいけないと思い、6月に辞表を出した。早速、次の職を探して、同規模の技術翻訳会社の社長面接にまでこぎつ けたが、その時、業界2位の(株)M研究所で中途採用があるという話が舞い込んだ。
7月末頃に面接があり、その後同僚となる人達が出てきて人物評定をしてくれたが、前の会社が地域開発などの分野でかなり知られていたのが幸いして、かなり過大評価をしてもらった。おかげで9月入社の運びとなり、シンクタンク生活の第二ラウンドが始まったわけである。
この(株)SK研究所は、その後次第に経営が悪化して某広告代理店の資本が入り会社の様相が一変してしまった。職人も専門家も転職し、残った計量分析の虫 が、その誠実な人柄を買われて、社長を押し付けられていたが、結局、2003年に解散し、33年の歴史に幕を下ろした。これは奇しくも小生の父がやってい たメッキ工場と同じ寿命であった。他の資本を入れることなく銀行借り入れだけで何とかしのいでいた従業員30名のメッキ業と大手資本を大量に導入しながら これを食潰していった華やかなシンクタンクの寿命が同じというのもなかなか示唆するところ大である。