所帯を持って5年間ほど新宿区若松町に住んでいた。小さな商店街のある街で、いくつかの店とも親しくなった。魚屋、寿司屋、豆腐屋、床屋、イタメシ屋な どの生業である。このうち魚屋、豆腐屋と床屋は地元の人達であり、寿司屋とイタメシ屋は小生が移り住む頃に創業した店だ。寿司屋の常連だった魚屋さんに誘 われて御神輿も担ぐようになった。それを機に芋蔓式にこの界隈の人達と知り合いになり、いまだに付き合いのある人もいる。現在、魚屋と床屋は代替わりして 子息が頑張っている。白身魚のネタを熱心に研究していた寿司屋は高級店に変身し、付加価値の高い仕事をしているようだ。夫婦で頑張るイタメシ屋は料理を必 死で研究し、創業当初とは味もレパートリーも進化して週刊誌などに取り上げられるまでになった。
 その後、牛込に引っ越してから御神輿はやめたが、銭湯通いは一層頻繁になった。当時、この界隈にはまだ3軒銭湯があったが、今は1軒になってしまった。 そのおかげといっては妙だが、町内の人は皆この銭湯に集約されるようになり、色々な人達と付き合いが広がってきた。銭湯仲間とは年に数回、地元の焼鳥屋な どで飲み会も催している。ペンキ屋、元鳶職、特養職員、水商売経営者、肉屋、サラリーマン、設備工事屋、印刷屋、隠居、など職業も様々だがやはり生業の人 が多い。地域社会の中で動き回っていると必然的に生業の人達との付き合いが多くなるようだ。

  小生が地域社会での付き合いを重視するようになったのは子供の頃の反動であるような気がする。鍍金屋の二階に住んでいたにも関わらず、高学歴の両親があま り近所付き合いを好まなかった影響で、子供の頃は地元での付き合いにあまり深入りできなかった。お祭りでも山車を引いた記憶はあるが御神輿を担いだ思い出 はない。当時はバラックや長屋が建ち並び貧しい町だった早稲田界隈には生業も多く、今となってみれば惜しいことをしたな、という感がある。

  昭和22年に創業した父の会社が早稲田に移転してきた20年代後半頃、うちの工場の前は鳥屋(鶏をたくさん飼っていた)と鉄工所、隣は製本屋とラーメン 屋、裏は印刷屋だった。いずれも家族だけでやっている生業である。この中で一番最初に姿を消したのは鳥屋で、30年代後半のことだったと思う。事業主は区 議会議員に転身し区画整理を契機に小さなマンションを建築した。現在は次男がそこで暮らしているようだ。次に消えたのがわが鍍金工場で、55年の夏であっ た。その頑丈な鉄筋コンクリート3階建てには製版工場が入って今も操業している。鉄工所も平成になって消えたようだ。現在もなお頑張っているのは隣の製本 屋とラーメン屋、そして裏の印刷屋である。中でもラーメン屋は小生より2歳下の子息に代替わりし、今はそのまた子息が調理場を仕切り、親父は大学への出前 配達に忙しい。

 父の会社は鍍金技術に関してはかなりの高水準で、経営者自身も技術士を兼務して全国の鍍金屋を指導して歩いていた。従業 員規模も最盛期には40名ほどになった。この時点では早稲田界隈で最も成功した中小企業であったと言っても過言ではない。父の月収が通常のサラリーマンの 年収に近かった時期もあったようだ。しかし50年以上経った今日、早稲田の街には生業ばかりが生き残った。

 地域社会の中から生まれてく る中小企業は当初は皆生業である。この内のいくつかは次第に従業員規模を拡大していく。とりわけ一国あるいはその地域の経済全体が成長軌道にある時はそれ ほどの努力もなしに大きくなっていくこともある。従業員規模が大きくなってくると経理と組織管理の問題が生ずる。経営の近代化というやつである。経営者が 陣頭指揮・率先垂範するだけでなく権限を部下に委譲してある種のディレクトリーを形成するのである。これはこれで成功することも多い。とりわけ成長軌道に ある場合は、である。

 問題は成長軌道から外れた時である。リストラで従業員数を減らしていく時、別の意味での組織管理の問題が生ずる。 経営の「再」生業化である。それまで管理する側に、あるいは資本家的立場にあった経営者が再び汗にまみれて手を汚して現場作業に立つにはかなりの勇気がい る。プライドも捨てなければならない。まして新たな事業を展開しようとするならばなおさらである。しかし、ここをクリア出来れば、企業として生き長らえる ことが出来るかもしれない。

 このように伸縮自在であるところが生業的な中小企業の強みでもある。その意味では事業規模を拡大していく段 階においても、いつでも生業に戻れるような組織体制にしておく必要がある。経営者とその家族が資本家然としてはいけないのである。あくまでも地域社会の人 でなければならない。捲土重来の基盤は地域社会にある。

 では、規模を小さいままにしていれば企業を継続出来るのかと言うとそうではな い。早稲田の生業の人達も戦後60年の間に何の経営努力もしてこなかったわけではない。生業は生業なりの新規事業戦略や事業転換を人知れず行っていること も多い。ちなみに近所にあった和菓子屋はフランス料理屋に転身して頑張っている。また、地下鉄駅近くにあった評判の肉屋は子息の代になって蕎麦屋に転身 し、家族総出で美味い蕎麦を食べさせてくれる。事業転換の際には親子共々色々なところで修業したと聞く。生業には生業ならではの事業転換力がある。そのコ アは言うまでもなく経営者の身心にある。

 小生の父はある意味で地域社会の人となることを拒否した経営者であった。当初は工場の中に住ん でいたが、従業員規模の拡大とともに、少し離れた別の地域に居を構えるようになった。工場の立地する地域社会には溶け込もうとはしなかった。地域の冠婚葬 祭とも全く無縁の生活であった。地域社会においては絶えずエトランジェであった。当時で言う都会的生活であったのかもしれない。全国各地を指導して歩く技 術コンサルタント兼務の経営者としてのプライドが高かったのかもしれない。彼は昭和30年代に米国自動車産業の視察にも長期間出かけたりしていたので、グ ローバルな技術と経営手法に関心が強かった。本棚には当時売り出し中のドラッカーの本がいくつもあった。こうした研究を元に、家族ぐるみのどんぶり勘定的 な鍍金屋の親父さん達に「近代的な組織管理をせよ」と口を酸っぱくして説いていたのだから、今更生業に帰って身の丈の経営に戻るわけにはいかなかったのか もしれない。

 小さな中小企業が新事業展開や事業再生を行う時、その基軸は経営者である。再建過程では長年培ってきた名誉や資産を失うこ とも多い。その際、身の置き所、心の拠り所となるのは、家庭であり家族であり、そして生活の母体となる地域社会であろう。経営者としての発想には、集積の 思想にとらわれない、ユニークな、あるいはグローバルなものが求められるが、生活者としてはあくまでも地域社会の人であることを忘れてはなるまい。