どうも変わらなければいけないらしい。日本も、会社も、自分も。しかしそう簡単に変わることが出来るのだろうか?われわれはこれまでに「変わった」自分
を経験したことがあるだろうか?自己を振り返ってみよう。スポーツばかりやっていた大学時代から大学院に進んだ時。長い大学院生活に終止符をうって31歳
で中小企業の新入社員になった時。業界大手に転職した時。そして大学に戻った時。確かにその都度少しは苦労もして変わっていったのかもしれない。しかしよ
く考えると、それは変化した環境の中から自分に与えられる課題が出てきて、それに対応することにより受動的に自己変革しただけのような気がする。
でも今は少し違うようだ。確かに環境は10年前、20年前と比べて激変した。しかし転職して新しい組織に入った時のように「対応すべき課題」がはっきり 見えてこないのである。これは多くの中小企業経営者達も同じではないだろうか。短期的に解決すべき課題は日々目の前に現れてくる。しかも「今の苦しさの先 には何もない」とおどされて変革を要求される。にもかかわらず対応すべき課題は見えてこない。世間的には色々メニューが示されているがどれが自分にとって 意味のある課題かはわからない。あるいは全部意味のないものかもしれない。能動的に自分を変えていくことはとても難しい。
ITブームの時もそうだったが、「これからはナノだ」「何といってもゲノムだ」「ロボットも面白い」「何が何でも中国だ」と周りが騒いでも、これに対応すべき自分の課題やわが社の課題はなかなか見つからない。あるいはそんなものは存在しないのかもしれない。
話は極端に古くなるが、モーセが奴隷に身をやつしていたユダヤの民を率いてエジプトを脱出した時、民の数は壮年男子だけでも60万人いたという。彼らは困 難に直面するにつけ「こんなことだったらエジプトで奴隷をやっていた方がずっとましだった」と不平を言う。モーセは彼らに、海を割って追っ手を退け、水を 湧き出させて渇きを癒し、マナを降らせて飢えを充たすなどの奇跡を見せつける。勝ち戦も経験させる。しかし民の意識はなかなか変わらない。さまざまな規則 を作りこれを遵守させようとしてもなかなか守らない。千人単位の粛清をしても民の自己変革はなかなか難しい。結局、約束の地を目前に40年待機して奴隷世 代の交代を待った。
「出エジプト」の含意の解釈は様々だと思うが、これを読んだ当初は、人間一人を変革していくことも難しいが、大きな 組織を率いてこれを変革していくことは更に難しいということを言っているのかなと感じた。人が人を変革することは簡単には出来ない。まして人が組織を変革 することは一層容易ではないということか、と。しかし、何度も読んでいるうちに、組織を変革しようとして悪戦苦闘する中で一番自己変革を遂げたのはモーセ 自身ではなかったのだろうかと思うようになった。
ではモーセはなぜ自己変革できたのだろうか?「出エジプト」を読んでいると、彼はたえ ず神に呼び出されて対話している。というか神は基本的に彼を通じてしか表舞台に登場しない。しかもこの神はかなり自己主張の強い「ねたむ神」なので、彼と の対話はモーセの自己否定なくしては出来ない。自己変革もある種の自己否定を必要条件とする。モーセの自己変革は神との対話を通じて出来上がっていったの ではないだろうか。その意味では「変革するは我(=神)にあり」であろう(ローマ書12:19「復讐するは我にあり」のもじりです。原文の意味は「復讐は わたし(=神)のすること、わたしが報復する」)。
有無を言わせずに変化していく環境の中で、組織を率いて物事を成し遂げようと努力す る。社員達を飴と鞭、信賞必罰で叱咤激励する。にもかかわらず社員は思ったように動かない。なかなか成長しない。でもあきらめずに手を変え品を変え、祈る ような気持ちで指揮していく。そうこうしているうちに今までとは少し違った自分に気がつく。「変革」は気がついた時にまず自己の内に成っている。組織の変 革はここから始まるのかもしれない。部下は経営者の後ろ姿しか見ない。経営者が「何を言ったか」ではなく「何をしているか」を見ている。
こう考えると、最初に述べた対応すべき課題が見つからないというのは、自己否定をしていない証拠なのかもしれない。むしろ自己否定を通じてしか課題は見つ からない、と言ってもいいだろう。そして、率いていくべき人達が誰か、あるいはどれだけいるかによって自己否定の内容も異なり、したがって課題も異なって くる。自分一人か。家族か。5名の従業員か。100名の従業員か。率いていくべき人達がいる経営者は幸いであろう。これが誰であるかが確定すれば、約束の 地も定まるのではないだろうか。
でも今は少し違うようだ。確かに環境は10年前、20年前と比べて激変した。しかし転職して新しい組織に入った時のように「対応すべき課題」がはっきり 見えてこないのである。これは多くの中小企業経営者達も同じではないだろうか。短期的に解決すべき課題は日々目の前に現れてくる。しかも「今の苦しさの先 には何もない」とおどされて変革を要求される。にもかかわらず対応すべき課題は見えてこない。世間的には色々メニューが示されているがどれが自分にとって 意味のある課題かはわからない。あるいは全部意味のないものかもしれない。能動的に自分を変えていくことはとても難しい。
ITブームの時もそうだったが、「これからはナノだ」「何といってもゲノムだ」「ロボットも面白い」「何が何でも中国だ」と周りが騒いでも、これに対応すべき自分の課題やわが社の課題はなかなか見つからない。あるいはそんなものは存在しないのかもしれない。
話は極端に古くなるが、モーセが奴隷に身をやつしていたユダヤの民を率いてエジプトを脱出した時、民の数は壮年男子だけでも60万人いたという。彼らは困 難に直面するにつけ「こんなことだったらエジプトで奴隷をやっていた方がずっとましだった」と不平を言う。モーセは彼らに、海を割って追っ手を退け、水を 湧き出させて渇きを癒し、マナを降らせて飢えを充たすなどの奇跡を見せつける。勝ち戦も経験させる。しかし民の意識はなかなか変わらない。さまざまな規則 を作りこれを遵守させようとしてもなかなか守らない。千人単位の粛清をしても民の自己変革はなかなか難しい。結局、約束の地を目前に40年待機して奴隷世 代の交代を待った。
「出エジプト」の含意の解釈は様々だと思うが、これを読んだ当初は、人間一人を変革していくことも難しいが、大きな 組織を率いてこれを変革していくことは更に難しいということを言っているのかなと感じた。人が人を変革することは簡単には出来ない。まして人が組織を変革 することは一層容易ではないということか、と。しかし、何度も読んでいるうちに、組織を変革しようとして悪戦苦闘する中で一番自己変革を遂げたのはモーセ 自身ではなかったのだろうかと思うようになった。
ではモーセはなぜ自己変革できたのだろうか?「出エジプト」を読んでいると、彼はたえ ず神に呼び出されて対話している。というか神は基本的に彼を通じてしか表舞台に登場しない。しかもこの神はかなり自己主張の強い「ねたむ神」なので、彼と の対話はモーセの自己否定なくしては出来ない。自己変革もある種の自己否定を必要条件とする。モーセの自己変革は神との対話を通じて出来上がっていったの ではないだろうか。その意味では「変革するは我(=神)にあり」であろう(ローマ書12:19「復讐するは我にあり」のもじりです。原文の意味は「復讐は わたし(=神)のすること、わたしが報復する」)。
有無を言わせずに変化していく環境の中で、組織を率いて物事を成し遂げようと努力す る。社員達を飴と鞭、信賞必罰で叱咤激励する。にもかかわらず社員は思ったように動かない。なかなか成長しない。でもあきらめずに手を変え品を変え、祈る ような気持ちで指揮していく。そうこうしているうちに今までとは少し違った自分に気がつく。「変革」は気がついた時にまず自己の内に成っている。組織の変 革はここから始まるのかもしれない。部下は経営者の後ろ姿しか見ない。経営者が「何を言ったか」ではなく「何をしているか」を見ている。
こう考えると、最初に述べた対応すべき課題が見つからないというのは、自己否定をしていない証拠なのかもしれない。むしろ自己否定を通じてしか課題は見つ からない、と言ってもいいだろう。そして、率いていくべき人達が誰か、あるいはどれだけいるかによって自己否定の内容も異なり、したがって課題も異なって くる。自分一人か。家族か。5名の従業員か。100名の従業員か。率いていくべき人達がいる経営者は幸いであろう。これが誰であるかが確定すれば、約束の 地も定まるのではないだろうか。