ユニバーサルデザイン(UD)だそうである。最近の地方自治体のHPはこれでもちき
り、という感がある(熊本県のHPがよく出来ている。)北区の講演で地元企業経営者の田辺さんからこれについて話をせよという難題を持ちかけられた。社会正義的な話をするのは体質的に苦手なのだが、長い付き合いの人からの依頼なので引き受けてしまった。
り、という感がある(熊本県のHPがよく出来ている。)北区の講演で地元企業経営者の田辺さんからこれについて話をせよという難題を持ちかけられた。社会正義的な話をするのは体質的に苦手なのだが、長い付き合いの人からの依頼なので引き受けてしまった。
最初は以下のように考えた。UDは「共用品」とイメージが強いが、それは役所も含めた「唱導者」側の発想。商品の出発点は全て「ユーザーニーズ」からでは
ないか。しかも、インフラとしてのUDと商品としてのUDは少し違うような気がする。インフラとしてのUDはユーザは選択できないからそれを使うしかな
い。障害のある人にとって便利なのだからと言われれば、社会正義上これを甘受する以外にない。
一方、商品としてのUDはユーザの自由意 志で選択されるのだから、健常者が不便さあるいは格好悪さを感じて購入しない可能性もある。消費者はUDだから買うのではない。便利だから、魅力があるか ら買う。これは健常者も障害のある人も同じだろう。個別性の原則が優先される領域だ。これは環境・リサイクル関連の商品でも同じであろう。消費者を相手に 公徳心を第一義的に求めても意味はない。
こう考えて、10月3 日、講演会場の北とぴあ地下一階に設置された常設展示場(ただし半年間)へ行った。そこの説明パネルを見て、こういう考え方をしているのは自分だけではな いことを知らされた。UDには三種類あるのだそうだ。福祉機器などに見られる個別対応型、家電製品など耐久消費財に見られるオプション型、公共施設やイン フラなどに見られる共用型(折衷型)、の三つ。
しかし、よく考えるとオプション型にせよ、共用型にせよ、元々は使う人のニーズに基づい て作られたのだから、個別対応型が全てのタイプのUDの出発点であろう。インフラとしてのUDに関しては、江戸川区の「歩道・車道の段差をブロックで平ら に」という事例がこの点を考える上で興味深い。「歩道と車道の段差をゼロに。江戸川区がそんな取り組みを続けている。横断歩道の段差は目の不自由な人たち にとっては車道と歩道の境を知らせる役割も果たすため、国は基準で段差を2センチとしているが、区は様々な立場の人の意見を取り入れ、斜めのブロックを敷 くことで事実上段差をなくした。93年度から区道に約7200カ所あった段差の解消をコツコツ続け、今年度には段差ゼロ部分が半分を超える予定 だ。」(asahi.com、2002年9月26日)
この場合、段差のあるインフラは視覚障害者のニーズ対応が出発点である。しかし、 そこに「車いすの前輪が乗り上げにくい」など、別の障害を持つ人達のニーズにも対応しなければならなくなった。そこである種の妥協案的な解決法が模索され ることになるのである。これがインフラとしてのUDの行き方なのだろう。
ここまで考えてきて、いつもの銭湯で見た印象的な出来事を思い 出した。二年ほど前の年の瀬もおしせまった頃の話。その日銭湯は「ふれあいデー」で無料だった。普段は見かけない隻脚の痩せた老人がいた。その立ち居振る 舞いが実に見事なのである。カランのところからどうやって湯船に行くかを見ていたら、桶を車椅子がわりにして手を床につけて漕いで滑らせて行く。湯船のへ りに左足を引っかけたと思ったらさっと湯に入ってしまった。風呂場を出る時は、石鹸箱やシャンプー入れをきれいに拭き、腰掛けも桶もきちっと洗って片付け てから、ドアのところまでけんけんして行く。胡座をかいて着替え、その姿勢から左足と右手でスッと立ち上がった。手伝うことは何もなかった。この銭湯はい わゆるバリアフリーではないのだが、この人にとっては風呂桶もUDなのだろう。ユーザ側からの個別対応といってもいいかもしれない。
多 品種変量生産の時代のものづくりは個別対応からだと思うが、これはUDも同じだろう。そして消費者を相手にしたUDづくりには、機械工業よりも段違いの商 品感覚が要求される。UDの思想から商品が生まれるわけではない。UDの思想から出てくるのは「志」だけであろう。のんきな自治体と都市計画屋さんはUD を旗印にしていればよいが、普通の企業はそうはいかない。
この夏、川崎市の仕事で登戸ドレメ学院の副院長、栗田佐穂子さんにヒアリング をする機会があった。長年洋裁を教えるかたわら、高齢者・障害者・治療中の人達が着脱しやすい衣服や身の回りのものについて研究・制作するグループ「糸の 詩(うた)」を主宰している方だ。たとえば「腕に点滴を受ける場合、通常のパジャマなら、腕まくりをしなくてはならない。長時間、同じ状態では、スースー する。トイレに、と立とうものなら、袖が落ちてくる。そこで、襟元からそで口までファスナーをつければ、必要な部分だけを開けて、点滴しながら寝たまま、 着替えることもできる」。こんな改造服を研究し推奨している。
子息が脚に大怪我をした時、ズボンのサイドにファスナーをつけて看護しや すくしたのが事の始まりだそうだ。その後ドレメ学院に障害を持つ人が入学希望で来訪したのがきっかけで養護学校を訪問する。その時の状況を涙ぐみながら語 る。この感動を機に本格的に介護服の分野に参入していく。おしゃれな三角巾付きブレザー、背中を割ってファスナーを付けた背広、乳癌患者用寝間着、車いす を使用する人のためのウエディングドレスなど、百点ほどの「着やすく便利な服」を考案した。実用新案でもとれそうなアイディア溢れる「ものづくり」をして いる。
「簡単に着脱できれば、本人の心身を楽にするだけでなく、看護や介護をする人の負担も減ります」「普通の服と見た目が変わらない ことが大事。お気に入りの服を改造すれば、ファスナーなどの材料費だけで済みます」と語る栗田さんには「障害を持つ人が堂々と社会参加出来ること」という 発想があるように思えた。
なにしろよくしゃべる方である。しかも情感豊かに身体全体を駆使して語る。障害のある人達や介護する人達の苦 労を自分の身体で表現できる。おそらく長い間洋裁をやってきたことで身体の動きに敏感になっているのかもしれない。だからこそ、障害のある人達がどうすれ ば楽になるかを考える時、彼らの気持ち・身体になって思いやることが出来るのではないだろうか。まさに優れた共感能力を持った方であった。
今回の結論。共感能力の豊富な熟練者が、自分の得意な分野で頭をひねる時、真のUD商品が生まれる。そして彼らに頭をひねらせる原動力は、「人間の尊厳を 大切にする心」と「志」であろう。単なるUDの専門家からは「商品としてのUD」は生まれてこないのではないだろうか。
一方、商品としてのUDはユーザの自由意 志で選択されるのだから、健常者が不便さあるいは格好悪さを感じて購入しない可能性もある。消費者はUDだから買うのではない。便利だから、魅力があるか ら買う。これは健常者も障害のある人も同じだろう。個別性の原則が優先される領域だ。これは環境・リサイクル関連の商品でも同じであろう。消費者を相手に 公徳心を第一義的に求めても意味はない。
こう考えて、10月3 日、講演会場の北とぴあ地下一階に設置された常設展示場(ただし半年間)へ行った。そこの説明パネルを見て、こういう考え方をしているのは自分だけではな いことを知らされた。UDには三種類あるのだそうだ。福祉機器などに見られる個別対応型、家電製品など耐久消費財に見られるオプション型、公共施設やイン フラなどに見られる共用型(折衷型)、の三つ。
しかし、よく考えるとオプション型にせよ、共用型にせよ、元々は使う人のニーズに基づい て作られたのだから、個別対応型が全てのタイプのUDの出発点であろう。インフラとしてのUDに関しては、江戸川区の「歩道・車道の段差をブロックで平ら に」という事例がこの点を考える上で興味深い。「歩道と車道の段差をゼロに。江戸川区がそんな取り組みを続けている。横断歩道の段差は目の不自由な人たち にとっては車道と歩道の境を知らせる役割も果たすため、国は基準で段差を2センチとしているが、区は様々な立場の人の意見を取り入れ、斜めのブロックを敷 くことで事実上段差をなくした。93年度から区道に約7200カ所あった段差の解消をコツコツ続け、今年度には段差ゼロ部分が半分を超える予定 だ。」(asahi.com、2002年9月26日)
この場合、段差のあるインフラは視覚障害者のニーズ対応が出発点である。しかし、 そこに「車いすの前輪が乗り上げにくい」など、別の障害を持つ人達のニーズにも対応しなければならなくなった。そこである種の妥協案的な解決法が模索され ることになるのである。これがインフラとしてのUDの行き方なのだろう。
ここまで考えてきて、いつもの銭湯で見た印象的な出来事を思い 出した。二年ほど前の年の瀬もおしせまった頃の話。その日銭湯は「ふれあいデー」で無料だった。普段は見かけない隻脚の痩せた老人がいた。その立ち居振る 舞いが実に見事なのである。カランのところからどうやって湯船に行くかを見ていたら、桶を車椅子がわりにして手を床につけて漕いで滑らせて行く。湯船のへ りに左足を引っかけたと思ったらさっと湯に入ってしまった。風呂場を出る時は、石鹸箱やシャンプー入れをきれいに拭き、腰掛けも桶もきちっと洗って片付け てから、ドアのところまでけんけんして行く。胡座をかいて着替え、その姿勢から左足と右手でスッと立ち上がった。手伝うことは何もなかった。この銭湯はい わゆるバリアフリーではないのだが、この人にとっては風呂桶もUDなのだろう。ユーザ側からの個別対応といってもいいかもしれない。
多 品種変量生産の時代のものづくりは個別対応からだと思うが、これはUDも同じだろう。そして消費者を相手にしたUDづくりには、機械工業よりも段違いの商 品感覚が要求される。UDの思想から商品が生まれるわけではない。UDの思想から出てくるのは「志」だけであろう。のんきな自治体と都市計画屋さんはUD を旗印にしていればよいが、普通の企業はそうはいかない。
この夏、川崎市の仕事で登戸ドレメ学院の副院長、栗田佐穂子さんにヒアリング をする機会があった。長年洋裁を教えるかたわら、高齢者・障害者・治療中の人達が着脱しやすい衣服や身の回りのものについて研究・制作するグループ「糸の 詩(うた)」を主宰している方だ。たとえば「腕に点滴を受ける場合、通常のパジャマなら、腕まくりをしなくてはならない。長時間、同じ状態では、スースー する。トイレに、と立とうものなら、袖が落ちてくる。そこで、襟元からそで口までファスナーをつければ、必要な部分だけを開けて、点滴しながら寝たまま、 着替えることもできる」。こんな改造服を研究し推奨している。
子息が脚に大怪我をした時、ズボンのサイドにファスナーをつけて看護しや すくしたのが事の始まりだそうだ。その後ドレメ学院に障害を持つ人が入学希望で来訪したのがきっかけで養護学校を訪問する。その時の状況を涙ぐみながら語 る。この感動を機に本格的に介護服の分野に参入していく。おしゃれな三角巾付きブレザー、背中を割ってファスナーを付けた背広、乳癌患者用寝間着、車いす を使用する人のためのウエディングドレスなど、百点ほどの「着やすく便利な服」を考案した。実用新案でもとれそうなアイディア溢れる「ものづくり」をして いる。
「簡単に着脱できれば、本人の心身を楽にするだけでなく、看護や介護をする人の負担も減ります」「普通の服と見た目が変わらない ことが大事。お気に入りの服を改造すれば、ファスナーなどの材料費だけで済みます」と語る栗田さんには「障害を持つ人が堂々と社会参加出来ること」という 発想があるように思えた。
なにしろよくしゃべる方である。しかも情感豊かに身体全体を駆使して語る。障害のある人達や介護する人達の苦 労を自分の身体で表現できる。おそらく長い間洋裁をやってきたことで身体の動きに敏感になっているのかもしれない。だからこそ、障害のある人達がどうすれ ば楽になるかを考える時、彼らの気持ち・身体になって思いやることが出来るのではないだろうか。まさに優れた共感能力を持った方であった。
今回の結論。共感能力の豊富な熟練者が、自分の得意な分野で頭をひねる時、真のUD商品が生まれる。そして彼らに頭をひねらせる原動力は、「人間の尊厳を 大切にする心」と「志」であろう。単なるUDの専門家からは「商品としてのUD」は生まれてこないのではないだろうか。