『昭和22年の暮、中野駅の西に工場を借りて、ニッケルメッキの事業を始めた。その頃は電力事情が悪く、予告なしに停電が繰り返され、電力が送られるの
を待って夜中でも待機しなければならなかった。12月も中旬に入って、朝、品物をニッケルメッキ槽に投入した。時間が来て引き上げると鱗片状にこまかい剥
離を生じて、全部不良であった。昨日までは全く異常がなかったので、原因をつかみかねて頭を抱えたが、落ち着いて考えると、襲来した寒波のためにメッキ浴
の温度が下がったのが原因と思われた。
対策はもちろん浴を暖めることだが、当時の事情では、どうして暖めるかの方策が考えられない。しかも当時のメッキ槽は木製アスファルトライニングで、浴温を上げることは難しいことであった。
とっさに思いついたことは、電球で暖められないか、ということであった。百ワットの電球を口金の3センチ下くらいまでニッケル浴に沈めてスイッチを入れ た。ほどなく電球の回りから水蒸気が景気よく立ち昇り始めた。待ちきれずに品物を入れてみたら水面の波動で、頼みの電球はパチンと割れてしまった。妙案も 形無しだった。
即席の方法はないと悟り、ちょうど手許にあった、溶解炉用のパイロメータの石英保護管を利用することを思いついた。その 頃最大の必需品のニクロム線は容易に手に入ったので、この管の中に仕込んでヒータを作りこれで浴を暖めることにした。このヒータのおかげで、我が工場の ニッケルはビリを起こさない程度に暖められた。今でも12月に入り木枯らしを聴くとニッケル浴中で割れた電球を思い出す。』
これは私の 父がメッキ業界の機関誌に書き続けていた「思いつくまま」という連載記事の一文要約である。技術と技能を身につけた人間には、困難な状況の中でも「何とか してみよう・つくってみよう」と立ち向かう精神が刷り込まれているような気がする。読みかえすごとに文科系の怠惰な自分とつい比較してしまう。
私は北区滝野川の町工場の二階で生まれた。父は早稲田大学理工学部を卒業し、戦争中は陸軍の技術将校であった。陸軍という巨大な企業がなくなり、家族を抱 えた父は、自分の技術を生かして会社を興した。中野で始めた工場は程なく滝野川に移り、昭和30年頃に新宿区早稲田鶴巻町に移転する。今では考えられない 都心方向への移転であるが、当時は神田川沿いに染め物や印刷業(今でも多い)が集積し、工場の前は養鶏屋や板金屋、隣と裏には製本屋があった。台風が来る と工場の前が川になるような低地の立地環境という点では今の産業集積とあまり変わりない。会社の規模は最大時で40名を越えていたと記憶している。
従業員の多くは、昭和20~30年代に集団就職で地方(新潟、長野、福島、宮城など信越・東北地方が多かった)の農家などから来た人達であった。当初は中 卒の人が多かった。メッキ技術や前工程のバフ研磨などは父が教えていた。父は技術者であったが、手先がとても器用で、バフ研磨などは熟練職人並みであっ た。創業後、10年くらいは現場作業を一緒にやっていた。若い従業員達は父の技術・技能を急速に吸収していったようだ。
彼らのほとんど は中学まで実家で農作業などを手伝っており、体は小柄だが、過酷な肉体労働に適した頑健な筋金入りの身体をしていた。昼休みの彼らの過ごしかたも、野球を やったり、相撲をとったり、金属材料を持ち上げて力比べをしたりして、絶えず身体を動かしていたように記憶している。一度彼らの一人が近くの不良と喧嘩を する場面を見たことがあるが、一瞬のうちに相手を殴り倒してしまった。普段はやさしい小柄なバフ研磨工がこれである。
また、メッキ作業 で使う青酸カリを素手で掴んだり、メッキ液の中に平気で手を突っ込んでいる豪傑もいた。彼らは「私の親指大の小指」を持っており、まさに働き者の手をして いた。頑健なだけでなく手先も器用で、何でも自分で拵えてしまう人が多かった。メッキ工程の段取りとしてワークを「引っかけ」という治具に取り付ける作業 があるが、これをいかに速く付けることができるかでいつも競争になる。私も大学生の頃、これを手伝っていたが、彼らには一度も勝てなかった。
大学を卒業して大学院に進む頃、会社を継ぐかどうかを真剣に考えたが、私にとっては二つの大きな問題点があるように思えた。一つは、父のように理工系の学 校を出ていないこと。工業技術に関する知識は皆無であり、しかも当時はあまり関心もなかった。もう一つは、私が子供の頃から工場にいる人達を引っ張って行 けるかどうか全く自信がなかった、ということ。従業員の人達は皆私を可愛がってくれたが、彼らと一緒に仕事をしてその労働能力を目の当りにするほどに、自 分が「依頼心の強い軟弱なおぼっちゃん」にしか見えなかった。彼らほどの技能も身に付けられず、父のようなエンジニアにもなれずにどうして会社を継ぐこと ができようか。
その後、昭和50年代になってわが社は経営不振になり、55年8月に解散したが、その時の心身の労苦がもとで父は4年後 に他界することになる。中小企業の研究をするようになってこのかた、「なぜ継がなかったか」「なぜ解散せざるをえなかったか」という問いが工場の情景とと もに心の隅に座っている。
とっさに思いついたことは、電球で暖められないか、ということであった。百ワットの電球を口金の3センチ下くらいまでニッケル浴に沈めてスイッチを入れ た。ほどなく電球の回りから水蒸気が景気よく立ち昇り始めた。待ちきれずに品物を入れてみたら水面の波動で、頼みの電球はパチンと割れてしまった。妙案も 形無しだった。
即席の方法はないと悟り、ちょうど手許にあった、溶解炉用のパイロメータの石英保護管を利用することを思いついた。その 頃最大の必需品のニクロム線は容易に手に入ったので、この管の中に仕込んでヒータを作りこれで浴を暖めることにした。このヒータのおかげで、我が工場の ニッケルはビリを起こさない程度に暖められた。今でも12月に入り木枯らしを聴くとニッケル浴中で割れた電球を思い出す。』
これは私の 父がメッキ業界の機関誌に書き続けていた「思いつくまま」という連載記事の一文要約である。技術と技能を身につけた人間には、困難な状況の中でも「何とか してみよう・つくってみよう」と立ち向かう精神が刷り込まれているような気がする。読みかえすごとに文科系の怠惰な自分とつい比較してしまう。
私は北区滝野川の町工場の二階で生まれた。父は早稲田大学理工学部を卒業し、戦争中は陸軍の技術将校であった。陸軍という巨大な企業がなくなり、家族を抱 えた父は、自分の技術を生かして会社を興した。中野で始めた工場は程なく滝野川に移り、昭和30年頃に新宿区早稲田鶴巻町に移転する。今では考えられない 都心方向への移転であるが、当時は神田川沿いに染め物や印刷業(今でも多い)が集積し、工場の前は養鶏屋や板金屋、隣と裏には製本屋があった。台風が来る と工場の前が川になるような低地の立地環境という点では今の産業集積とあまり変わりない。会社の規模は最大時で40名を越えていたと記憶している。
従業員の多くは、昭和20~30年代に集団就職で地方(新潟、長野、福島、宮城など信越・東北地方が多かった)の農家などから来た人達であった。当初は中 卒の人が多かった。メッキ技術や前工程のバフ研磨などは父が教えていた。父は技術者であったが、手先がとても器用で、バフ研磨などは熟練職人並みであっ た。創業後、10年くらいは現場作業を一緒にやっていた。若い従業員達は父の技術・技能を急速に吸収していったようだ。
彼らのほとんど は中学まで実家で農作業などを手伝っており、体は小柄だが、過酷な肉体労働に適した頑健な筋金入りの身体をしていた。昼休みの彼らの過ごしかたも、野球を やったり、相撲をとったり、金属材料を持ち上げて力比べをしたりして、絶えず身体を動かしていたように記憶している。一度彼らの一人が近くの不良と喧嘩を する場面を見たことがあるが、一瞬のうちに相手を殴り倒してしまった。普段はやさしい小柄なバフ研磨工がこれである。
また、メッキ作業 で使う青酸カリを素手で掴んだり、メッキ液の中に平気で手を突っ込んでいる豪傑もいた。彼らは「私の親指大の小指」を持っており、まさに働き者の手をして いた。頑健なだけでなく手先も器用で、何でも自分で拵えてしまう人が多かった。メッキ工程の段取りとしてワークを「引っかけ」という治具に取り付ける作業 があるが、これをいかに速く付けることができるかでいつも競争になる。私も大学生の頃、これを手伝っていたが、彼らには一度も勝てなかった。
大学を卒業して大学院に進む頃、会社を継ぐかどうかを真剣に考えたが、私にとっては二つの大きな問題点があるように思えた。一つは、父のように理工系の学 校を出ていないこと。工業技術に関する知識は皆無であり、しかも当時はあまり関心もなかった。もう一つは、私が子供の頃から工場にいる人達を引っ張って行 けるかどうか全く自信がなかった、ということ。従業員の人達は皆私を可愛がってくれたが、彼らと一緒に仕事をしてその労働能力を目の当りにするほどに、自 分が「依頼心の強い軟弱なおぼっちゃん」にしか見えなかった。彼らほどの技能も身に付けられず、父のようなエンジニアにもなれずにどうして会社を継ぐこと ができようか。
その後、昭和50年代になってわが社は経営不振になり、55年8月に解散したが、その時の心身の労苦がもとで父は4年後 に他界することになる。中小企業の研究をするようになってこのかた、「なぜ継がなかったか」「なぜ解散せざるをえなかったか」という問いが工場の情景とと もに心の隅に座っている。