最初は絵本で読んだのではなかった。

『ごんぎつね』新美南吉

うちにあった「少年少女世界の童話全集」（全18冊）の中の「日本文芸童話集」という巻に入っていた。

初めて読んだのは小学1年の時だった。読み終わって、私はぱたりと本を閉じて、以来10年以上『ごんぎつね』を読むことができなかった。

ごんは、殺されても仕方ないほど悪いきつねなのか。

兵十は、ごんを殺したから悪い人間なのか。

私には、どっちもそれほど「悪い」とは思えなかった。

小学1年のとき「もう二度と読み返せない」（結局その後何度も読むことになったけれど）と思った、あの痛いような気持を、当時の私は表現する語彙を持ち合わせていなかった。

誰も悪いひとはいないのに、悲しいことは起きる。

それを「理不尽」ということだと思ったのは、ほとんど大人になってからのことだ。

読み返せなくても『ごんぎつね』はずっと胸の奥底にあった。

日本文芸童話集に収められているほかの話を読みたくなると、私は『ごんぎつね』のページが開かないように（真ん中辺だった）そのあたりの何枚かをつかんで見えないようにして本を読んだ。

この本は、長姉が大学生のとき、何かに使うからと持って行って、それきり戻って来ない。（この姉に貸した本が帰って来なかったことはほかにもある）

高校三年のときだったと思う。10年たって（思い切って）『ごんぎつね』を読んだ。もう一度読んだ。何度も、何度も読んだ。

南吉がこれを書いたのは18歳のときだった。高校三年の私とさほどかわらない年齢の南吉が、この物語を書いたのはなぜだったのだろう。なぜ、こんな理不尽をさらりとうつくしく書くことができたのだろう。

その後、黒井健さんの絵で『ごんぎつね』の絵本が出たとき、もう、ごんぎつねはこれしかない、これが最高の絵本だ、と思った。

これも繰り返し読み、何人かの知人へのプレゼントにもした。

南吉生誕100年の年、知多半島の新美南吉記念館へ行った。芝土のきつね穴のような不思議な建物。学生時代暮らした東京の下宿屋が再現されていた。その窓は、実際に下宿屋が取り壊されるとき記念館の人が譲り受けてきたのだそうだ。南吉が開け、閉め、そこから外を見た窓だった。

南吉の生家にも行った。受付も係の人もなく（当時は）自由にはいれた。

斜面に建つ不思議な造りの家で、父親が畳屋を、継母が下駄屋を営んでいた表側から見ると平屋だけれど、土間から梯子のような階段を降りて、裏は二階になっている。

実母は早くに亡くなり、母方の叔父もまた病気で若くして亡くなっていた。

　　　　我が母も我が叔父もまた夭死せし我また三十をこえじと思ふよ

南吉がこの短歌を詠んだのは17歳、『ごんぎつね』の少し前だっただろう。南吉は29歳で生涯を終え、ごんも大人のきつねにはなれなかった。

南吉の日記の中に、父と継母の喧嘩が聞こえるという場面があった。

家が貧しい、金がない、という喧嘩の中で

「金もないのに中学へなんぞやるからだ」と継母が言う。

「そんなら、今すぐやめさせろ」と父が言う。

そんな声を聞きながら勉強する南吉は、帳面の上を這っている小さな虫をぷつっと潰す。

（記憶にたよって書いているので、原文のままではありません）

南吉の住んでいた村で、中学にまで進むのは医者や金持ちの息子だけだった。畳屋の息子が中学へ行くなんて、ありえないことだったのだ。

南吉の通った中学は愛知県立半田高校となり、校庭の片隅に南吉の日記の一部を彫った碑と、少年と狐の像がある。

南吉の故郷を訪ねた帰り、東京で新美南吉生誕100年の企画に参加した。前日行ったばかりの記念館の学芸員さんのお話と、黒井健さんのお話も聞けたのだ。

黒井健さんは『ごんぎつね』の表紙の絵を描き上げたとき、ご自分でも「できた」と思って、一晩絵を抱いて添い寝したのだそうだ。やはり、これしかない、最高の絵本だと思ったことに間違いなかった。

『ごんぎつね』は4年生の国語教科書に載っている。「償いと心の交流」がテーマなのだそうだ。

そうなのか。（なんだかな）

どんな読み方をしてもいいのが物語だけれど、物語は楽しんでほしいと思う。（悲しい話でも）

教科書に載っても、物語は教科書じゃない。

学校で教わったことの多くは忘れてしまったけれど、小学1年生のときから、私の胸の奥には横たわったきつねがいる。

#何度も読んだ絵本