サンミュージックとはこういうものらしい。 | 快児オフィシャルブログ「快児ワードファクトリー」Powered by Ameba

サンミュージックとはこういうものらしい。

 昨年11月、「サンミュージックグループ創立50周年記念式展」が行われた。2代目・相澤正久社長を中心に森田健作(現・千葉県知事)ら総勢160人のタレントが集合した。おなじみの顔が一堂に会したが、大半はお笑いタレントの面々。ダンディ坂野、スギちゃんと、「一発屋」と呼ばれる人が目立ち、取材も彼らに集中。翌日の報道も「一発屋」の文字が大きく載った。招待客からは「これも時代の流れ」と感慨深げな声もあった。

 1968年、横須賀でバンドマンをしていた故・相澤秀禎が西郷輝彦をスカウトしたのをきっかけに設立。「既成の歌手よりも新人を育てたい」と歌手の発掘に力を注ぎ、社長自らスカウトした所属第1号が森田だった。音楽プロにこだわる意味を込めて社名を「サンミュージック」とした。有言実行。女性アイドルを次々に発掘。桜田淳子松田聖子早見優とアイドルを育てた。演歌の都はるみも一時、在籍。社名通り音楽色の強い事務所として認知され、80年代には「渡辺プロ」「ホリプロ」と並ぶ大手芸能プロに成長していった。

 当時の事務所は車も人の行き来も多い新宿通り沿いにあった。ビルの外塀にあった大きな看板には「四谷四丁目サンミュージック」の文字。芸能プロがこれほど大きな看板を掲げるのは珍しかったが、通る人の目に必ず入る。「ここが聖子のいる事務所か」と看板効果はてきめん。事務所名と場所を世間に浸透させた。

■アイドルに代わりお笑いタレントが支える

 相澤前社長のメディアとの接触法も独特だった。本来「マネジャーは黒子」というのが業界の常識。メディアとオープンで会うのは「広報担当」で、社長ら幹部が会うことは少なかったが、相澤氏は分け隔てなくメディアに対応。雑談でも社長室に招き入れて応じた。話し好きな面もあったが、メディアを通じて業界情報を仕入れる目的もあったと思う。

 絶えることなくタレントをつくり続け順調に伸びていった事務所を不幸が襲う。岡田有希子の自殺。酒井法子の覚醒剤逮捕。ベッキーの不倫スキャンダル。手塩にかけて育てたアイドルが起こした不祥事。3人ともアイドルだっただけに衝撃は強く、酒井もベッキーもいまだに尾を引いている。特にベッキーの不倫対応は後手になる空回り。事務所の危機対応能力を問う声もあった。代わって事務所を支えたのがお笑いタレントだった。フジテレビ系「オレたちひょうきん族」をきっかけに始まったお笑いブームにサンミュージックも乗って、2000年ごろから芸人の育成も手掛けていた。

「吉本興業が本格的に大阪から東京進出を始めた頃で、東京の事務所が対抗する機運をつくったが、吉本のように漫才師や芸人を育てるノウハウはない。結果、生まれたのが、小島よしおらピン芸人。現在、東京にお笑いの事務所が誕生する下地をつくった」(テレビ関係者)

 お笑いブームに乗り一時はテレビ界を席巻したが、文字通りの一発芸。飽きも早く、次々と一線から消え「一発屋芸人」と呼ばれたが、同じ事務所から何人も一発屋が出たことで学ぶこともある。一発芸の再生である。

「そんなの関係ねえー」と海パンで踊る小島の一発芸も時を経て蘇る。芸は変わらずともファンは新陳代謝する。初めて見る人にとっては新鮮。小島は児童を相手にして活躍の場を広げた。ダンディ坂野の「ゲッツ」がCMで蘇ったこともあった。タレント本人よりも一発芸の再生である。一発屋芸人のネガティブなイメージも一掃して迎えた50周年。集まった芸人の顔は太陽(サン)のように輝いていたが、社名通り再び音楽界でも蘇ることはできるのか――。






めっさ詳しい!これさえ読めばサンミュージックコンプリートですな。

あ、さんみゅ〜のことが載ってない!