こんばんは。


宝を失えば、生きる望みを


失うで有ろう。


強くたくましく生きなければ


ならない。


三宝、仏→信仰の対象。(先祖など)


法→生きる為の教え。(教科書)


僧→教えを学ぶ仲間の存在。(友達)


日本は、三宝が整っている国で


ある。宗教に拘らず、基本的な


概念は押さえてある。


強く信仰を促す必要では無い。


信仰を強く促した事で離れた人。


宗教に限らず、束縛された人。


この時代は、自由な社会であって


昔の教えを忠実に実践すべきと


想うのは、今に叶ったものでは


無い。ただ、昔の教えの中でも


善き導きの法は、そのまま利用して


も善い。そのように欠けたカケラを


少しずつ調整して自分に合った


ものの精神を磨く。


精神とは、如何なるものか?


神が創生した社会の中で私たちは


暮らしている。もっと善き社会を


作る為には、他人の倍に励む事で


あろうか?特に慈悲の心を持つ事


が一番大切ではないだろうか?


困っている人を助ける。


他人の役に立つ事や導くような


影響を与える。


指導する者。働く者たちへの


助けとなり、より仕事が効率良く


励む事が出来る。


働く喜び、社会に貢献したと言う


評価が人に受け入れたカタチである。


仲間や友達を作る。


仲間外れになる事無く社会が


うまく稼働して行く事が我々の


望むところである。


間違えた方向性を修正する為に


我々が努め、世の人に平和とは


何かを考えて見る。


世界を見渡すとこんな事が分かる。


戦争とは、何故起こるのか?


武器を必要とする人間がいる限り


戦争は終わらない。


武器を買う人間が居なくなれば


戦争はしない。武器を売る人間は


罪に問われると考える。


武器を使わなければ人を殺める事


は無い。当たり前の話だけれども


人を殺める事の重大な罪を感じる


事が無いから平気に人を殺す事が


出来る。日本の喧嘩両成敗の教え


を今一度学ぶべきである。


江戸時代の昔は、武士社会であり


喧嘩になれば斬られる事は多々ある。


斬られた本人に家族が入れば


その家族がお家の為に敵討ちを考える。


敵討ちをすると敵の相手に家族が入れば


また斬られた対象が自分に降りかかる。


すなわち、斬れば恨みは自分に向く。


その恨みは家族の悲しみである。


喧嘩両成敗とは、両者の喧嘩を止める


為に役人が中立の立場になって


成敗される事が故事となっている。


故に喧嘩はするべきでは無い。


したならば、どちらもお互いに


謝る事が必要である。若しくは


中立の立場の第三者がなだめる。


喧嘩するなら死んだ方がましなんだ。


喧嘩両成敗を思い出して


喧嘩して善い事がありますか?


仲良くして居た方が善いでしょう。


悪い事を悪いと想うけれど


人が許す許さない事はたくさんある。


悪いと思ったならば


どうしたら他人が許して貰えるか?


工夫もさる事ながら、自分に合う


方法を探りながら他人に寄り添う。


その意味でも精神を磨く事である。


名を汚される事。家を失う事もある。


まごころがあるかないか?


真面目か不謹慎か?


兎に角、磨く事が必要だ。


キレイに磨いた部屋を


他人はどう思ってくれるか?


言葉遣いを少し変えただけで


人は好印象を受ける。


努力の賜物とは、こういう事の


繰り返しかも知れない。


人に気に入られる。友達になって


欲しいと誰かに声をかけられる。


三宝をもう一度思い出して欲しい。


大切なのは、信仰と教えと仲間で


ある事をしっかりと身につけ


行動しよう。


令和6年 7月8日 南無大師遍照金剛 合掌