おはようございます。



この所はよく人と話す事が日課になってます。



朝起きれば犬と一緒に散歩に出かけます。



夕方近くの時間も散歩に出かけます。



その中で一人の老人に会いました。



自分が亡くなった時にどこか良い寺へお世話になりたいと言う事です。



人は誰しも孤独な生活ほど怖いものはない。



私のお寺も身寄りのない方のお骨を預かっています。



今はそう言う社会もめずらしい事でもありません。



今回のテーマは自分探しの旅について話して行きましょう。



元の仏教の話から始めます。



王様だった釈迦族の王子様まだ仏さまになる前の頃。



自分の恵まれた環境に満足出来なかった。



ある所に行けば病床で倒れている人に会い。



ある所に行けば人を罰して痛めつける人がいる。



例え、自分が政治を治めたとして果たしてその人を救う事が出来るだろうか?



そこから始まる原点から仏教の教えが始まるのです。



まず、出家し乞食のような貧しい服装、自分を極限に虐める。



その中で自分虐めても何も変わらないのに気がつくんです。



人は誰しも救いを求めている。それは他の人もそうだが自分も求めている事だと



言う事です。求道いわゆる自分探し。



倒れた人に対してやさしく介抱できる人もいれば見捨てる人だっている。



その違いはなんだ。疑問が残る。



瞑想を続けます。ところどころで文化や教えも違う。



なぜ、争いが起こるのか?



その時に一つの結論が起こる。



助け合う事。足りないものを補うそういう心のものが必要だと言う事。



ダーナ。漢訳で布施と訳します。



仏教では布施行を強く勧めるようになります。



それと同時に僧侶は無一文として3つ衣と鉢しか持ってはない決まりも出来ました。



要するに何かを求めるならば何かを捨てなければならない。



空などの言葉があります。



澱みのないきれいな眼ですべてを見通す必要もあります。



仏教者は一切のテレビやラジオ、雑誌、新聞と言った情報通を断ち



根本の教えのみ聞きます。



私も修行時は仏教に帰依しいろいろ学んでいますし今も勉強に専念してます。



意外に続けられます。



若い頃の18の時に分からなかった事も今では少しづつ分かって来ました。



小さな積み重ねを通して続ける事なのでしょう。



原点とは自分の幼い頃に描いていた夢も関係します。



今一度、初心に戻り自分を見つめ返す時かもしれません。




平成28年 1月17日 阪神、淡路大震災の日 南無大師遍照金剛 合掌




供養法



『維摩経』より


(病める菩薩にいかに対するか)


文殊はさらに訊ねる。「菩薩はまさに、いかにして有疾の菩薩を慰喩すべきや。」


菩薩が、病気の菩薩をなぐさめるには、どう言ったらよいか。すると維摩がこう言う。



身の無常なることを説いて、身を厭離することを説かざれ。



人間の体は無常である。変り易いものであると説いてもよいけれど、その


体を厭い離れるべきであるなどと説いたりしてはならぬ。



身の苦あることを説いて、涅槃を楽うことを説かざれ。



人間が生きていることは苦であり、体も苦であるということは説いてもよい。


しかし、苦しみのない安らかな世界に入ることを願いなさいなどということは説いては


ならぬ。これはふつうの人間に言うのではない。菩薩に言うことばである。



南無大師遍照金剛  南無興教大師 南無專譽僧正 金剛合掌