引き続きですが豊山派についてですが資料が少ない



ですが話します。





延暦24年(805)空海32の歳に青龍寺の恵果和尚について胎蔵界、金剛界


、伝法阿闍梨の潅頂を受け、真言密教の秘奥を学び、遍照金剛の潅頂名を受ける。



大同元年(806)空海33歳の歳に遣唐使船に乗り九州博多に着き帰朝ご挨拶と共に


真言密教の公布の許可を求める上表文を帝に提出。



大同4年(809)空海36の歳に京都高雄山寺(神護寺)に住居。




弘仁元年(810)空海37の歳に嵯峨天皇に書を奉り「真言宗」と言う宗派を許可を得る。




弘仁7年(816)空海43の歳に紀伊の国高野山を賜る。




弘仁14年(823)空海50の歳に東寺を与えられる。勅により教王護国寺と号す。



以降より真言宗↓↓↓



真言宗はこの後は東寺と高野山の2つの寺として続いて行く。



後の空海入定後は弘法大師(以下大師と称す)



の後継者は実慧、真済などの弟子により真言教学が引き継がれる。



我が系譜では真済上人を経て源仁僧都を相承とある。



東寺及び高野山の他に2つの流派が派生する。



京都の嵯峨地方の池のほとりにある広沢の池に因み広沢流と命名。



京都の小野御陵の地方に因み小野流と命名。



豊山派は広沢流を経由して相承されている。



理由としては真言宗中興の祖である興教大師覚鑁の師匠である寛助僧正が



仁和寺の法流を相承していたからである。



故に真言宗弘法大師→真済→源仁→真言宗広沢流相承→興教大師となる。



保安2年(1121)覚鑁27の歳(大師入定286年後)仁和寺成就院において寛助より


伝法潅頂を受ける。



大治5年(1130年)覚鑁36の歳に高野山にて伝法会を復興させる。



鳥羽上皇に絶大な信頼を得た覚鑁は高野山や東寺からも目をつけられる


存在となる。



保延6年(1140年)覚鑁46の歳に僧徒と共に根来へ移住する。



康治2年(1143年)根来は鳥羽法皇の御願寺となる。




後に新義真言宗の礎となる。


多くの学僧が輩出され、頼瑜僧正などの優秀な僧侶が新義真言宗教学を


大きくする事なる。




後は戦国時代に突入する。




根来寺は多くの学僧が集まる宗徒になり、その中で根来山妙音院と号す集団が


誕生する。




元亀元年(1570年)專譽41の歳(弘法大師入定735年、興教大師入定427年)


小池坊頼玄の補佐役として根来学侶の教導にあたる。


妙音院は別名小池坊と称されていました。その命名はお堂の庭に小さい池がありそこから


とったようです。



天正7年(1579年)專譽50の歳に脇能化として小池坊で根来寺所化の教導にあたる。


天正12年(1584年)專譽55の歳、頼玄、能化職を專譽に譲る。智積院玄宥も推されて


能化となり、根来寺に両能化が併立する。


天正13年(1585年)豊臣秀吉根来寺に火を放つほとんどが焼失。


專譽、高野山に逃れる。



天正16年(1588年)大和の領主豊臣秀長の要請を受け大和の国長谷寺に


入寺し、長谷寺の興隆と同時に根来小池坊の復興に着手する。



以降、新義真言宗妙音院小池坊方の相承として受け継ぎ現在に至る。




江戸幕府平定後徳川将軍の庇護を受け隆盛する。




5代将軍綱吉公の桂昌院は小池坊方の寺院護国寺に寄与するなど



多くの皇族や権力者も関わりとてつもない強力な寺院となる。




江戸幕府滅亡大政奉還に移り、寺院と神社の分離令が発令する。



寺院格のないものは壊される。廃仏毀釈が起こる。



その為存続する為の福祉事業を確立する。その初めに高野山がいち早く動く。


やや遅れて長谷寺も動く。




明治33年 真言宗豊山派と改名する。




いくつか、調べなければならないものもありますがこの辺で





平成28年 1月15日 南無大師遍照金剛 南無興教大師 南無專譽僧正 金剛合掌