おはようございます。


7月11日。芦野温泉に行く日


と言う事で栃木県那須市へ


行く道中で書いています。


皆さんは、やりたい事を


やっていますか?


やりたい事がいっぱいあるんだけど


今、一番にやりたい事がイマイチ


分からない事があります。


大抵、あきらめて寝ようとする人


いると思いますが、今はちょっと


頭を働かせて、自分のやらなければ


ならない事を始める。


忘れない内に計画を練り練りしましょう。


令和6年 7月11日 南無大師遍照金剛 合掌

こんばんは。


宝を失えば、生きる望みを


失うで有ろう。


強くたくましく生きなければ


ならない。


三宝、仏→信仰の対象。(先祖など)


法→生きる為の教え。(教科書)


僧→教えを学ぶ仲間の存在。(友達)


日本は、三宝が整っている国で


ある。宗教に拘らず、基本的な


概念は押さえてある。


強く信仰を促す必要では無い。


信仰を強く促した事で離れた人。


宗教に限らず、束縛された人。


この時代は、自由な社会であって


昔の教えを忠実に実践すべきと


想うのは、今に叶ったものでは


無い。ただ、昔の教えの中でも


善き導きの法は、そのまま利用して


も善い。そのように欠けたカケラを


少しずつ調整して自分に合った


ものの精神を磨く。


精神とは、如何なるものか?


神が創生した社会の中で私たちは


暮らしている。もっと善き社会を


作る為には、他人の倍に励む事で


あろうか?特に慈悲の心を持つ事


が一番大切ではないだろうか?


困っている人を助ける。


他人の役に立つ事や導くような


影響を与える。


指導する者。働く者たちへの


助けとなり、より仕事が効率良く


励む事が出来る。


働く喜び、社会に貢献したと言う


評価が人に受け入れたカタチである。


仲間や友達を作る。


仲間外れになる事無く社会が


うまく稼働して行く事が我々の


望むところである。


間違えた方向性を修正する為に


我々が努め、世の人に平和とは


何かを考えて見る。


世界を見渡すとこんな事が分かる。


戦争とは、何故起こるのか?


武器を必要とする人間がいる限り


戦争は終わらない。


武器を買う人間が居なくなれば


戦争はしない。武器を売る人間は


罪に問われると考える。


武器を使わなければ人を殺める事


は無い。当たり前の話だけれども


人を殺める事の重大な罪を感じる


事が無いから平気に人を殺す事が


出来る。日本の喧嘩両成敗の教え


を今一度学ぶべきである。


江戸時代の昔は、武士社会であり


喧嘩になれば斬られる事は多々ある。


斬られた本人に家族が入れば


その家族がお家の為に敵討ちを考える。


敵討ちをすると敵の相手に家族が入れば


また斬られた対象が自分に降りかかる。


すなわち、斬れば恨みは自分に向く。


その恨みは家族の悲しみである。


喧嘩両成敗とは、両者の喧嘩を止める


為に役人が中立の立場になって


成敗される事が故事となっている。


故に喧嘩はするべきでは無い。


したならば、どちらもお互いに


謝る事が必要である。若しくは


中立の立場の第三者がなだめる。


喧嘩するなら死んだ方がましなんだ。


喧嘩両成敗を思い出して


喧嘩して善い事がありますか?


仲良くして居た方が善いでしょう。


悪い事を悪いと想うけれど


人が許す許さない事はたくさんある。


悪いと思ったならば


どうしたら他人が許して貰えるか?


工夫もさる事ながら、自分に合う


方法を探りながら他人に寄り添う。


その意味でも精神を磨く事である。


名を汚される事。家を失う事もある。


まごころがあるかないか?


真面目か不謹慎か?


兎に角、磨く事が必要だ。


キレイに磨いた部屋を


他人はどう思ってくれるか?


言葉遣いを少し変えただけで


人は好印象を受ける。


努力の賜物とは、こういう事の


繰り返しかも知れない。


人に気に入られる。友達になって


欲しいと誰かに声をかけられる。


三宝をもう一度思い出して欲しい。


大切なのは、信仰と教えと仲間で


ある事をしっかりと身につけ


行動しよう。


令和6年 7月8日 南無大師遍照金剛 合掌


こんにちは。


真言宗の教義において


何を目的にするべきなのか?


常に考えることであります。


法を絶やすこと無く


すべての人たちへの安寧を


願う事である。


宗教や仏教が信仰されなくなる。


無宗教理論が確立される社会は


大きく関わる事である。


近世史から読み解きながら


過去の100年、200年、それ以上


では、仏教は寄り添いながら


助け合いながら保って来たと言える。


その中で戦争で愛する人を失った


悲しみや恨みによって、宗教家は


慰め、時に励ます事で人の心の和が


あったのである。


現代において、恵まれた時間を持って


も満たされない事があるようだ。


多様性の時代。男も女も関係無く


自由に自分のやりたい事が出来る。


100年前ならば、男性は仕事に


女性は家事に専念する事になって


居た社会も男女平等になっている。


ソレに伴って、多くの課題が山と


なり、秩序を守らなければならない


風潮も出て来れば、保護するべき


事であるケアーが必要である事が


重要になって来る。


人それぞれが尊重され生かされる


事が一番にならなければならない。


しかし、ここで注目されるのは


多様性である。人の優れた才能と


劣った才能が出てしまう事がある。


一つ誤解にならぬ事であるが


劣る才能とは、自ら生まれ育った


環境の悪さでは無く、単に才能の


開花が遅い又は、縁が無かった事


で必要とする才能が開花しなかった


だけの事である。


才能有る無しで人の幸福は変わる


訳では無い。何に向き合って生きる


かで人の幸せは変わる。


僧侶の観念から言えば。


生きている人は様々な願いがある。


それぞれに縛りがあるとしても


皆さん、望む事があるから


今がある。失う事があっても


強く逞しく生きる。


そのたくましい生き方こそ


私たちが命を懸けて生きて


いる想いではないかと思います。


人の弱い強いは二つに分かれる。


一つは、臆病な人。


二つは、慢心な人。


臆病な人は、常に恐怖心を持ち


他人に心を開かない者たちの類である。


病に罹っている訳である。


苦を取り除く事が無いから


心が楽にはならないので


孤独になる事は変わらない。


ここで問題になるのは、他人を


必要としない事である。


人は、連携を取って支えがある


から負担の軽減で気持ちが楽となる。


故に他人を信用出来るか出来ないか


判断される可能性は高い。


思い通りにならない事が蓄積される


事によって病となり、永久に気持ち


が楽に成ら無い。


慢心な人とは、常に気持ちは好調と


して、自分の得意分野を活かせる。


本来、真言宗の僧侶のあるべき姿で


はある。得意分野を活かせる事は


他人に感動や影響を与えて、勇気を


貰える事に繋がる。


しかし、慢心な人が注意すべき事は


自分勝手な行動を慎み、他人の尊重


な意見に耳を傾ける事である。


慢心に浮かれない事が鍵である。


勝れた事は一番の評価ではある。


しかし、勝れていない者にとって


見れば、妬みや怒りを持つ人が現れ


社会的に悪い影響に成りかねない。


もちろん、本ブログの目的こそ


菩薩の勝れた慧ぐまれし者を重要


こそする。連携を取る。


ここに重点を入れる。


我々に足りないものがあるとしたら


ケアーでは無いか?


病に打ち勝ち、人に喜ばれ


円満な社会こそが理想とする。


不幸な人生を断ち切る。


心から喜びが生まれて


後悔も無く幸せに生きる。


真言宗の葬儀の中で


この文言を入れているのに


訳もある。菩薩勝慧者よ


多くの人を救う為には


行動をする事も大切だが


何よりも自分が一番に


大切にするべきである。


自分が中心的な存在である。


しかし、まわりに他人の


存在があるからこそ


平和な社会があり、秩序が保たれ


ている事を忘れてはならない。


小さな積み重ねで一人一人が


何かを積み上げて、協力し合って


社会が生まれている。


大変な世の中である。


歳を取れば身体も弱って来る。


80歳が大半を占める時代が来る。


誰もが皆んな幸せになる為に


考える事は、たくさんあって。


どうでも良いと考える人も


迷っている人も手を合わせて


考えて行きたいものである。


恵まれている事の大切さ


誰かにお裾分けする大切さ


真言宗とは、そこまで考えて


います。実践する勇気には


一つ、病に罹る者が居ると言う


現状と支えを必要とする概念は


失いつつある事、世界が混乱して


いる事など多様性に特化している。


育てる分野が欠けている。


教育こそ。推進すれば善い。


遊ぶ事も大切だけれども


教える。学ぶ。生きて行く為の


方法を養う事が一番かも知れません。


幾つか、ブログで書いた記事にも


見本となる者。


それは、人々に勇気を与える。


又は、コレがあるべき姿である事を


世の人に知らす為である。


見本者や模範者を真似する者が現れて


社会が大きく進歩すれば目的に叶う。


学ぶは、真似る事。


本来、真似るのは、盗む事に


通ずる事であるが世の中を明るく


する為に誰かの人助けとなるには


盗む事も必要である。


自己私欲で無ければ大丈夫である。


勝れた経験を生かす教えを


披露する事も重要である。


生かす為には、どうしたら善いか?


コレを常々想っている。


独り善がりにならない事から


未熟な自分を含めて、これから


何を始めるべきか?


一つ課題が生まれて、また生まれる。


永遠に尽きないが、ソレは社会を


善くする為に我々が望んでいる。


問題が解決しない限り、課題は


生まれ続ける。そして、生き続ける


理由となる。ガンバレ私たち。


もっと、善い社会になる為には


考え方がより純粋で生き生きして


いなければならない。


そのような事を望みながら


国民に強く願うだけでなく


私の考え方に共感出来る方を


増やして行き。


自信を持って努める事を勧めたい。


令和6年 7月8日 南無大師遍照金剛 合掌