ものぐさ草紙

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世のあやしいモノについて、あれこれ。

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引き続き、三井理峯先生の政見放送を解釈していこう。

前回は伝家の宝刀「なんじゃいな」まで終わったので、その続きから。


東北の方々は親切で、気さくで、自炊は温泉ならではのこと。
地方のお話を聞くことが楽しいから行く。温情が一生残る。


ここのくだりは、この政見放送全体の中で唯一といってよい、平和な場面である。

続く後生掛温泉での体験では、先生は始終脅しに怯え、毒殺を警戒し、

あまつさえ毒を盛られて、ほうほうの体で逃げ帰ってくるのだ。


比べて、ここの穏やかさはどうだ。

先生は当初、東北地方に対してきわめて好意的な印象を持っていたのに違いない。

おそらくは、楽しみでしかたがない、という気持ちで温泉に向かっていたのではあるまいか。

ところが、現地に着いた途端に、その印象は一変する。



十和田八幡平観光温泉旅館、後生掛温泉は、自炊部事務所に入った最初から
腹の立つことばかりであった。
最高に薄汚い建物だ。手軽に長距離電話で話したことがない。


いよいよ今回の舞台、先生にとっては因縁の地である、後生掛温泉の登場である。

この後生掛温泉、いつでもお客が絶えない人気温泉地だそうである。

理峯ファンの中には、政見放送に触発されて実際に後生掛温泉まで赴いた猛者までおられるとか。

その行動力にはまったく脱帽である。


温泉は「湯治部」と「旅館部」に分かれ、長期滞在の湯治客は前者に、一般の観光客は後者に

宿泊するようだ。そして、長期の湯治客が、自ら調達した食材や器具を使って自炊できるように

設備が用意されているという。

先生が「自炊部」と呼んでいるのは、もちろん「湯治部」にあたる方だろう。


それにしても、さっきまであんなに穏やかであったのに、いきなり「腹の立つことばかり」とは

何事があったのだろう。

「薄汚い建物」とは、現在は改築されてよくなっているようだが、過去の写真では確かにすさまじい

ところだったようだ。

「手軽に」の部分は「手紙で」とも聞こえてはっきりしない。手紙や電話など、外部との連絡が

取りづらい環境だったということか。となれば、先生の不安感は一層募っていったことだろう。



ここの電灯は入口に小さい輪が一つ、消灯して中が全部真っ暗闇。
男、女、雑魚寝で、これで旅館法、風俗営業ならたちまち罰せられる。



このような何気ない淡々とした描写の中にも、何ともいえない味わいがあるのも理峯先生ならでは。


湯治部には個室の他に大部屋があり、そこはまさに男女関係なしの相部屋・雑魚寝の形式だ。

といっても、この方が湯治客同士交流できて、それもまた温泉の楽しみになっている。

ただし、改築前はまさに雑魚寝としかいいようのない部屋だったらしい。


この大部屋形式が旅館法や風俗営業法に違反するのかは分からない(おそらくしないだろうが)。

それとも、旅館なら良いが風俗営業ならアウト、ということか。

いずれにせよ、法律を持ち出すのは先生のこだわりの一つなのだ(ドイツの法律学者に並々ならぬ

執着を見せたりする)。



万事手探りで、夜2時間静かに日記を書こうと予定したけれど、
こんなことでいつまで過ごせるはずはない。


日記を2時間も書くというのもすごいが、消灯されてしまってはそれもかなわない。

不満は溜まる一方、怒りを抑えつつ一夜を過ごす先生が目に浮かぶようだ。



そんなわけで、後に起こる惨事を暗示するかのように、不穏のうちに後生掛温泉の

夜は更けていく。


続きはまた次回。



 第13段 「伝説の候補者 三井理峯(4)」 終わり





前回の更新からまた1ヶ月。ものぐさを反省しつつ、いよいよ今回から三井理峯先生の

政見放送の解釈をしていこう。


ちなみに、この1ヶ月の間に、大川総裁の『日本インディーズ候補列伝』を入手し、

理峯先生の自宅訪問記を読み、また未見の鳩ヶ谷市長選・市議選の選挙公報も

見ることができた。総裁のインディーズ候補にかける情熱に、感銘を新たにしたのだが、

それはいずれ改めて。


放送の冒頭、アナウンサーによる先生の紹介。


ものぐさ草紙-rihou_01

東京都知事候補者、無所属、三井理峯、79歳。
参議院・衆議院・市長立候補、各1回。
東京生まれ。
陸軍工場に働きつつ、専検合格。
東京女子師範、本科・専攻科卒。
都、小学校元教員。
では、三井理峯さんの政見放送です。


そして画面に理峯先生が現れ、深々と一礼。


自費出版、『我は平民』の一部分を、読ませていただきます。


そしてまた一礼。礼の仕方から、先生の品の良さや謙虚さがうかがわれる。
以下放送は、最後まで著書『我は平民』の朗読で占められる。


さて、この『我は平民』、理峯ファンなら何としても読んでみたいものだが、現在その存在は

確認されていない。大川総裁が先生のご逝去後自宅を訪問した際も、親族の方は
持っていなかったそうで、理峯ファンの先達も、国会図書館や自費出版図書館、はては
(先生が送ったという)ドイツ大使館にまで問い合せたそうだが(その行動力に拍手)、
結局詳しい事情は分からずじまいだったという。


ちなみに、この回の放送では、先生は『我は平民』の原稿のような紙の束を、かなりの
頻度でめくりながら朗読している姿が収められている。また別の政見放送から撮ったと
思われる静止画では、きちんと製本された『我は平民』を手に持つ先生の姿が確認できる。


さらに、この選挙の別バージョンの放送では、「オカモトヤ」という今も実在する印刷会社で
『我は平民』を作製してもらったことが述べられており、少なくとも、出版されたことは
確かなようだ。



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さてこのあと、いよいよ『我は平民』の朗読に入る。


国立公園は、麻薬・暴力団の隠れ蓑。


のっけからいきなり「麻薬(常習者)」「暴力団」という、読むものを一気に引き付ける言葉の

インパクト。実は、理峯先生を語る上で、この2つは重要なキーワードなのであり、今後も

しばしば登場してくる。

また、この話の舞台となる「後生掛温泉」は、「十和田八幡平国立公園」の中にある。


上野から盛岡まで3時間。支線待ち1時間、バス待ち2時間、3時間の空費。
上野盛岡3時間なんじゃいな。


これは東京(上野)から後生掛温泉までの行程だろう。上野から盛岡まで3時間とあるが、
1985年に東北新幹線が上野始発になった際の所要時間が最速2時間45分というから、この
時代のことだろう。上野始発の前は大宮始発で、乗り換えも含めて4時間近くかかっていた。
現在は最速2時間強で行ける。


そして、盛岡からは「支線」JR花輪線で鹿角花輪駅(1995年までは陸中花輪駅)まで行き、
バス(秋北バス)に乗り換え。盛岡からバスで八幡平経由で行くルートもあるようだ。


花輪線は、現在のダイヤでは1日8往復しか列車がない。バスはさらに少なく1日5往復、
しかも4月下旬から11月初めまでの季節運行だ。先生が彼の地へ赴いた当時のダイヤは
わからないが、支線待ち1時間、バス待ち2時間はさもありなんといえる。


先生は、支線とバスの待ち時間を「3時間の空費」と表現している。「空費」という言葉が

さりげなく使われているあたりに先生の知性とセンスを感じる。


が、注目すべきはもちろんこの後の、理峯先生を代表する名言、


 上野盛岡3時間なんじゃいな。


なんじゃいな。このインパクトは最凶だ。先生の放送では、冷静な文章や丁寧な話し言葉の
中に、突如江戸っ子のようなべらんめえ言葉(例:「自分の金でねえから平気で出る」
「ただで入れるはずぁねえ」「ひでぇもんでございました」「ちきしょう」)が入り込んだりして

味わい深いのだが、その真骨頂が「なんじゃいな」である。


何が「なんじゃいな」なのか。そのヒントは3時間というところにある。つまり、上野からはるばる

3時間かけて盛岡まできたと思ったら、支線とバスの待ち時間だけで、また3時間もかかって

しまったじゃないか。そんな田舎の不便さに対する先生の呆れ・嘆息が伝わってくる。


(まったくの余談だが、テレビ東京で年数回放送している「路線バス乗り継ぎの旅」は、
バスに乗るために1時間2時間、はては5時間と平気で待たせれる、まさに「空費」続きの
旅である。テレ東ならではの味わい深い旅番組だ。太川陽介・蛭子能収のキャスティング
も絶妙)


……といった具合に、たった数行の記述でも、気になることを書き連ねていくとけっこうな
分量になるので、「なんじゃいな」が出たところで一旦区切るとしよう。


続きはまた次回。



  第12段 「伝説の候補者 三井理峯(3)」終わり


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それでは、さっそく三井理峯先生の主張を読み解いていこう。
といっても、これが一筋縄ではいかない。

まず、政見放送での理峯先生は入れ歯をしていないのか、もしくはうまく噛み合って
いないのか、その発音はとにかく不明瞭だ。
最初は「フガフガフガ……」としか聞こえないだろう。

それを何回も聞いているうちにだんだんと耳が慣れてきて(理峯ファンの間では
「英語耳」ならぬ「理峯耳」が発達するというそうだ)、また動画にコメントされた
字幕の助けも借りることで、何とか言葉を認識することが可能となる。

しかし、言葉が聞き取れたとしても、内容を理解するには程遠い。
聞き取れた言葉が何を意味するのかを解釈するのが、これまた難事なのだ。

とにかく、まずは下のニコニコ動画を見ていただきたい。
91年都知事選の政見放送で、現在のところ、“動く理峯先生”を見ることができる
唯一の動画である。





この動画を見れば、理峯先生が伝説といわれたのも納得いただけると思う。
何しろ、持ち時間のすべてを自著の朗読に当てるという力技だ。

これが理峯先生の政治的主張とどう結びつくのか、判断するのは難しいが、
次回以降の更新では、この放送内容について、一字一句解釈を試みる。

 第11段 「伝説の候補者 三井理峯(2)」 おわり

選挙というと、一般の人々はなかなか興味を持てないものだろう。

しかし、選挙がおこなわれるたびに「なんで立候補してるんだ?」といいたくなる候補者が

一定数現れるものだ。

最近で言えば、マック赤坂氏や羽柴秀吉氏などがその代表格だ。


そんな中、今を去ること20数年前、参議院選挙や都知事選に数回にわたって出馬した

伝説の候補者がいる。

名を、三井理峯(みついりほう)という。



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まずは理峯先生のプロフィール。


1911年(明治44年)生まれ、2002年(平成14年)没。享年91。

東京女子師範学校(現・東京学芸大学)本科・専攻科卒。東京都の小学校教員。

選挙への立候補は以下の通り。いずれも無所属で立候補し、すべて落選、供託金没収。

1989年07月 参議院議員選挙(東京都選挙区)   2109票(43名中27位)
1990年02月 衆議院議員選挙(東京都第3区)     674票(12名中9位)
1990年09月 鳩ヶ谷市長選挙                82票(5名中5位)
1991年04月 東京都知事選挙               829票(16名中14位)
1992年07月 参議院議員選挙(東京都選挙区)   1615票(52名中35位)
1994年11月 鳩ヶ谷市議会議員選挙           35票(30名中30位)

このように、1989年から94年にわたって選挙活動をおこなっていたのだが、現在ネット上で

参照できる資料は以下の通り。

 ・91年都知事選挙の政見放送(2種類あり、1つは動画、1つは音声のみ)

 ・92年参議院選挙の政見放送(音声のみ)

 ・89年参議院選挙の選挙公報

 ・91年都知事選挙の選挙公報

 ・92年参議院選挙の選挙公報


理峯先生の何がすごいかというと、政見放送も選挙公報も、とにかく内容が支離滅裂、

意味不明なのである。単なるお年寄りの自己満足とは、明らかに一線を画しているのだ。

しかしながら、支離滅裂という言葉では収まりきらない、何とも言えない味わいがある。


そのせいだろうか、広い世間には、理峯先生をキワモノ扱いするだけでなく、その主張を

真剣に検証する理峯ファンが存在しているのだ(大川興業の大川総裁もそのひとり)。


ちなみに私自身、理峯先生の存在を知ったのは、うかつにも最近のことなのだが、

政見放送の動画に大きな衝撃を受けた。だが、繰り返し見ているうちに、すっかり先生の

とりことなってしまった。


次回以降の更新では、そんな理峯先生の主張を読み解いていきたいと思う。



  第10段 「伝説の候補者 三井理峯(1)」 おわり

前回の更新からまたも6ヶ月。

そろそろ途中だった話題を完結させようと思う。


前回は、キリスト看板の設置主が判明したところまで。

「聖書配布協力会」という、東北地方にある団体がその主であった。


この団体の所在地は、宮城県伊具郡丸森町。

「~協力会」というのは、連絡のため便宜的につけた名称らしく、

同住所には「啓明宮城小学校」という私立の小学校がある。


同小学校は、1966年に学校法人宮城明泉学園により創設。

聖書の教えを徹底的に学ばせることと、語学(日・英・中)教育にも力を

入れているという(wikipediaより)。

また系列には仙台市内に2つの幼稚園があり、仙台では有名らしい。


さて、肝心のキリスト看板との関連だが、看板はこの小学校の一角で

作成され、それを車に積んで全国を回り、看板を貼るのに適した場所を

探し、そこの家主に頼んで貼るせてもらうのだという。設置料などの金銭は

発生せず、お菓子をお礼に置いていく程度。

つまり、看板がある家は単に看板設置に協力しただけで、関係者でも信徒

でもないということだ。


一方、先の記事でも触れたプラカードによる伝道活動は、新年の神社周辺や

繁華街で行われる。そこでは小冊子や聖書の抜粋「コンサイスバイブル」が

配布される(一部で「看板伝道」と呼ばれている)。


一連の活動をするグループは、その拠点の地名をとって「丸森グループ」と

称されている。啓明小学校のメンバー以外に、会の趣旨に賛同して協力する

人も含め、全国で活動が行なわれているようだ。


それにしても、さほど大きな組織でもなさそうなのに、これまでに30万枚もの

看板を作成・設置したというから驚きだ。

この団体の代表者は元占領軍の兵士で、終戦直後に日本の子供たちの

悲惨な状況を目の当たりにして、日本でキリストの教えを広めることを

決意したのだという。とすれば、看板設置はかなり古くから(50~60年

前から?)なのだろうか。実際、張られている看板にはかなり古びた

ものもあり、字体も時代を感じさせるゴシック体や毛筆体だ。


そして、あの衝撃的(脅迫的?)な文言と目立つ色使いは、インパクトを

与えることで見る人の目を引くためにあのような形にしたのだという。


さてさて、こうした設置者の思いと労力が込められたキリスト看板であるが、

実際布教活動としての効果は上がっているといえるのか?
当然というべきか、答えは否といわざるを得ない。

インパクトは確かに抜群だが、何より脅迫まがいの恐ろしさが先に立つ。

しかも神社などの近くで「営業妨害」(故・星新一がエッセイの中でそう称して

いたらしい)のような行動をされれば、まさに「触らぬ神に祟りなし」との思いを

人々に植え付けることになるだろう。ただでさえ無宗教が圧倒的な日本人

なのだから。

事実、この団体のせいで地域のキリスト教会に苦情が寄せられて困っている

という事例もあるようだ。

結局のところ、このキリスト看板に興味を持つのは、キリスト教への関心では

なく、何やら得体のしれないものを面白がる人々(私もその一人)ということに

なると思うのだが。


これで終わりにしようと思ったのだが、まだ参考サイトの紹介が残っている。

しかしだいぶ長くなったので、それは次の更新に譲ろう。



第9段「死後さばきにあう」(3) 終わり