最愛の猫を亡くして3年が過ぎた。
特にそればかりを気にしていたと言うわけでもなかったのだが、位牌の裏を見ると既に3年の月日が経っていた。
そしてその姉妹猫も1年後に他界。
実家に居た猫達も相次いで他界した。
気付けば3年の間に私は4匹の猫を失っていた。
どの猫も個性的でとても賢い猫達だった。
外は珍しく雪が降っている。
最愛の猫を亡くした日も雪が舞っていた。
久しぶりに自分のブログの存在を思い出して書き始めた。
昨年の今頃、私はロサンゼルスから帰ったばかり。
当時、私はペットの収容施設について学んでいた。
その余韻に浸る暇も無く、私はニュージーランドへ旅立った。
そこでは家畜と深く関わりつつ、自然体で過ごす人々の生活について考えさせられた。
そして3月。
帰国する前夜、私は飛行機を乗換えるため空港で時間待ちしていた。
その時に飛び込んできたのが他でもない、震災のニュースだった。
当時の報道では「東北で地震、死者22名。」
そのような見出しだった。
翌朝、空港に着いた私は大きなモニターで見た光景を一生忘れないだろう。
一人の初老の男性が水際をトボトボと歩いていた。
周囲には何も無かった。
後で知ったが、それは家々が津波で流された後の光景だった。
時期を同じくしてクライストチャーチの震災があった為、到着した空港では被災した邦人とその家族を待つ報道陣達で混雑していた。
私は情報が錯綜する中、バスに飛び乗った。
そして長野でも早朝、地震が起きたと知る。
新幹線は名古屋から東側の路線が止まっていた。
駅の窓口は払い戻しや情報を得る為の人だかりでごったがえしてた。
長い行列に1時以上並んで松本までのチケットを買った。
私は帰国したその足で新しい物件を探しに不動産屋へ向うこととなる。
奇しくも阪神の震災を、私は凡そ100キロ離れている街で体感した。
アパートの壁には亀裂が入り、建物の軋む音が続いた。
たまたま当時在籍した会社が運送業であった為、ブルーシートを何度か神戸へ運んだ。
あの当時も情報が乏しかったのを私は思い出す。
17年前、ヘリコプターから映し出された映像に私は息を呑んだ。
「ここは私の知っている、あの神戸なのか?」
燃える神戸の街も、全てを浚われた東北沿岸の町も、それを見て言葉を失ったのは私だけでは無かっただろう。
私は昨年、転職、離婚、被災、退職、婚約、再就職、転居、再婚、洗礼・・・と、挙げ連ねれば一人の人間が一生をかけてするかしないかの出来事が起きた。
私を可愛がってくれていた二人の大叔母達が他界したのも昨年だった。
それらの出来事がどのように私の心に作用したのか。
正直なところ実感は薄い。
ただただ多忙で気付けば今日を迎えていた。
そんな感じである。
私は過去、似たような経験をした事がある。
もう10年、いや15年も昔の話だ。
今の私を作る出来事が多く起こった。
私の人生観が180度変わったと言っても過言ではないだろう。
そして再び私は岐路に立っているのだと思う。
私はオーストラリアと日本を行き来することになった。
年が明けた今、漸くそれらの変更手続きに奔走している。
それはまだ霧の中に居て、どちらへ一歩踏み出そうかと言った感覚に近い。
以前の私なら地べたを手探りで探して道を探し出し、例えそれが行き止まりの道であっても進んでいるだろう。
今の私は霧が晴れるのをじっと座って待っている。
私は日が射したとき、その方角へ歩き始めるだろう。
それが果たして最善か?と問われても私には分からない。
しかし私が歩いたとき、新たに道はできる。
亡くした猫達のことを私は夫に話した。
その猫達は私の心の支えの全てだった。
私は彼女達の最後に納得していなかった。
もっと最善の処置があったのではないか?
私はその思いに取り付かれていた。
クリスチャンである彼は言った。
「良い人と良い動物達の魂は死後、居心地の良い所に居る。」
それまで私は死ぬ間際まで苦しんでいた彼女たちの残像を何度も繰り返し思い出していた。
既に亡骸も無く、荼毘に伏した後なのに。
良く使われる表現に、「亡くなったペット達は虹の橋を渡って飼い主を待っている。」と言うのがある。
私も確信は無かったが、時折そう願って書いた。
しかし納得していたかと言われれば、何所かで否定する自分が居た。
何も信じられない心を持つと人は苦しむ。
私もその一人だった。
過去に鬱を患い、人に会うのが苦痛だった。
それを何所かで引きずって来ていたことを気付かされた昨今。
私は今、漸く確かな信じられる存在と出逢い、以前の私と少し変わった自分が居る。
私は転機を迎えた。
感謝である。
琴乃、サリー、しろ、テンに寄す。
