私は今、古典の1つである「平家物語」を学んでいるところである。


平氏と源氏と合戦を描いたものである。


筆者は信濃前司行長と言われてはいるが、定かではない。

当時の筆者は、合戦の様子をまるで第3者のような視点から描いている。

だが、実際それはどうであったのか。
当時の筆者も、一見、物語の様子を描いているようには見える。
しかし、当事者が必ずしも描いている側ではとは限らない。本人も実際は描かれている側なのだ。

本人は描いていると思っていても、実際は自分も描かれているのだ。

こんなことはよくあるものだ。

教科書、あるいはドリルやテキストに使われる例文などでもそうだ。

みな、自分の意見を文学的に述べているが、いつもその裏には、自分は他とは違う。自分は異質な存在なのだ。というメッセージが見て取れる。

結局のところ、自分は優れている。というのを前提に置いて話を進めている。自分を盲点に置いているのだ。

実際、私が今これを書いているということもそれと同じことなのかもしれない。 自分は意見を述べているだけと言っていても、またそれは1種のナルシズムとして、他人に捉えられるということだ。

実際、私が批評分をそう見ているということが、それの証明となっている。

他者は私を見て、結局は自分もそうではないか。とか、自分も同じことをしている。という指摘があるかもしれない。

まぁその通りである。

だがどうだ。それは今の時代に生きる若者と同じことではないのであろうか。



みな、友達や家族と楽しい会話をしていたりする中で、どこか心の奥で「自分はこの人達とは違う」といい、見下しているのだ。それは本人の自覚していない所でも起こりうることである。


街中を歩いていて、こう心の中で思った事はないだろうか。


例えば前から少し豪勢な格好をした老人が歩いてきたとする。

「身の丈に合わない格好をしているな」

「少しださい」

と。

だが、それはあちらも同じことを考えているかもしれない。

たとえば、あなたの身長が少し小さかったとする。

「ちっちゃいなぁ、この子」

また、少しふくよかであったりすると、

「太っているな」

と。

互いに思うところがあるかもしれないが、そういう思考を持ちあわせてしまったということが、結局は他者の批評へ繋がる。その時点で無意識での他者との存在を格付けしてしまっているわけである。

だがそれは悪いことではない。そう思うことはもはや今の時代として必須事項なのである。

人はそうやって優越感を得る。

人はそれ無しでは生きていくとことができない。

他者との劣等感を感じた時点で、負けなのである。

つまりその気持ちを持ち続けるということが、自分という存在を再確認し、前へと進む1歩となるのだ。










結論︰ふみやインポ。