私がなりふり構わず美術室へたどり着き、いつもの定位置についた時。

美術室への扉とは黒板を中心として、対称側についている準備室のドアが開き、

中から美術教師の谷川が出てきた。

ギリギリセーフ。

息をしている肩を落ち着けないと。ゼーハーいわせているのはみっともない。

いやもう既に、必死の形相で教室に転がり込んできた時点でアレなのだが。


美術とか、主要科目以外の授業ってのは、比較的ゆるい。

授業の雰囲気もそうだし、教師も気楽なもんだ。

いくつかのカリキュラムを1年かけてこなせばいいだけ。

各課題の最初にちょいちょい説明して、あとはひたすら製作に打ち込む、と。

同じ選択科目でも、音楽やら書道はどうなのかはしらない。

まぁ、でも似たようなものだろうな。


そういえば、今週から新しい課題に入る。先週の授業の最後に谷川が「油彩」をやるとか言っていた。

「油彩」。テーマを決めておきなさい、そう言われた気がする。

なんでもいいらしいけど、やっぱりなんでもいいと言われても困る。

とりあえずまぁ無難に静物画でいーかな、くらい。

風景なんて、面倒だし。人物画はもっと面倒くさい。

自画像なんてこっ恥ずかしい、誰かを描くにしろ、そこまで私は上手くはない。

ふと毬栗が頭をよぎる。あの顔、あの頭…描きやすそうだな。

しかもあの性格だしな、下手でも文句は言うまい。

ああ、ごめんよ。田中君。けして馬鹿にした訳じゃないんだ。

ただ、君の頭部はあまりにも丸くて。

・・・。

さぁ、下らないコトを考えるのはやめて真面目にテーマを決めなければ。

幸いな事に、決めかねている連中はまだ何人かいた。

毎年、様々なクラスでそういう状況に陥るのかは知らないが、

谷川はきちんと予防線を張っていた。

「まだテーマを決めていない人は、自分が色々用意してきたのでその中から選ぶよーに。」

後ろの方の空いた長机の上には、各種資料・書物・写真集やら野菜・果物、花瓶・壷・石膏などが

ごちゃごちゃと積み重ねられている。

「静物でも人物でも風景でも抽象でもなんでもいい。」

でも、テーマを決めて期限内にちゃっちゃと仕上げないと評価できないからね、ということだ。

至れり尽くせりというか。まぁ、いいですけどね。

特に描きたい、なんてものもないし。無難に果物でも描いておけばいいか。

花瓶なんかと一緒に並べて、自然物と人工物。

椅子なりテーブルなりに置いて描けば、奥行きなんかも表現できるはず。

うむ、評価される要素は盛り込めるな。これなら・・・あとは自分の画力次第か。

そこが一番重要であり、問題なんだけれど。

適当に題材を見繕うために、教室後方の宝の山へと向う。

大人気のリンゴは、あっという間に姿を消していた。静物と言えば、リンゴだ。

仕方ないのでオレンジとレモンと薄青色の花瓶を調達した。

なんだか今ひとつまとまらない配色だけど、描いてしまえばどうにかなるものだ。
統一感のないブツを腕に抱え、自分の席へ戻る。

吉田と沢森は一緒になって資料集をペラペラめくって、お喋りして、笑っている。

美術の資料で笑えたりするものだっけ?

福田は既にスケッチブックを開き、なにやら描いている。構図でも練っているのか。

横に置いてある八つ切りの写真は、自分で持ち込んだものらしい。

さて、私も取りかからなきゃ、と机にオレンジとレモンと花瓶を適当に配置してみる。

オレンジを手前に・・・花瓶はやっぱり(?)奥・・・うーむ。

何度か試行錯誤してみるが、どうにもしっくりこない。

いつまでも悩んでいても仕方ないので、それとなく、「美術」っぽい配置になった所で諦める。

私もスケッチブックを開き、下絵を描く。まずは構図だ。

・・・。

何度か形を捉えようとするが、どうもしっくりこない。

そこへ谷川が見回りに来る。

「中西さん、下になんか敷いたら?ハンカチとかテーブルクロスとか・・・。」

「はぁ。」

気の無い返事をする。これ以上要素を盛り込むのはイヤだなぁ。

「あ。」

今更気づいたかのように、私の顔を覗きこむ谷川。

「そうか、中西さんは怪我をしてたんだっけ。」

見れば分かるでしょう。それがなんだってのよ。

「その調子だと、下描きはできないよね。片目塞がってると遠近感掴めないから。」

いやぁ、左目あってもそんなに大差はないと思いますけど、とはとても言えない。

だが、そうか…こんな所でも隻眼が仇になってくるのね。

どうもこの視界に慣れてきてしまっているらしい。

「他にやってもらう課題もなくはないんだけど。」

んー・・・と唸っている谷川。いい、別に他の事なんていいから、思いつかなくて。

「とりあえず、教室で資料集でも眺めて大人しくしてるか、退屈なら図書室だな。」

それはとてもいい提案です、先生。

「図書室いってきます。」

即答。迷うまでも無い。テーマも決めたし、今更資料をひっくり返した所で、

偉大なる芸術家の魂が降りてくる訳でもあるまい。

ならば、図書室で読み物でもしていた方がよほど有意義だ。昼寝なんてしたらもっと有意義。

「5分前には戻ってきてね。」

鋭意製作中の刹那的芸術家たちの奮闘に、

多少後ろめたさを覚えつつも無視を決め込み、私はさっさと美術室をあとにした。