きのうは重たい本を読んでいた。後味が悪い、という意味ではない。

小説の舞台となっている時代を生きてきたからだ。

 

読み終わって庭におりる。

ひとが衣替えをするように、庭木もその季節だ。

脱ぎ棄てられた葉を拾う。レンギョウの木の下にスズメの死骸があった。

触れるとまだ温かい。掌にのせれば枯葉4~5枚ぶんしかない。

 

雀のお宿化した我が家の庭。年に一度は弔いをする。

その上を踏まずに埋めてやれる場所はもうない。

見つけた場所に戻し、そこに埋めてやった。

レンギョウが枯れない限り、忘れることはないと思った。

 

 

 

 

 

きのう読んでいた本

青波 杏(あおなみ あん)著 『夜が明けたら』

 

4月26日購読紙の書評欄、碇信一郎(公認会計士)評より抜粋

 

*******

2024年5月、月刊誌の編集者二階堂ルルに届いた原稿は、学生運動が過熱した

半世紀も前に12人もの犠牲者を出した「旅団事件」の関係者、一ノ瀬ジュンの

手によるものであった。

 

関係者しか知りえない詳細な記述に思われたが、そこに書かれていた犠牲者数は、

当時の報道より1人多い13人と記載されていた。

知られていない被害者がいたのだろうか?

 

中略

 

この巧みな書き手によって導かれる終幕に「ルルは私だ、ジュンは私だ」と思えたのだとしたら、読み手にとって幸せに違いない。

 

対立や混乱が続く時代に「わたしはあなたであり、あなたはわたしなのだ」と

私の背中を押してくれる。

「夜があけたら」のタイトル通り希望と祈りに満ちた作品である。

*******

 

幸海荘(さちみそう)とは一ノ瀬ジュンがいっとき身を寄せていたところ。

作者の思いが名前に込められていると思った。

わたしたちは、世の中をよくしたいと思って生きてきたのではなかったか?

自分と同じ年代のひとはこの小説をどう読むのだろう?

投票権があるのなら、本屋大賞に推したい。

 

 

 

第一部「遠くまで」の扉に書かれていた

R・M・リルケ「銀に明るい雪の夜」の一節

 

ーーーだが魂は知っている。

悲しみが自分の中から出てしまえば、星がすっかり消えることを。

 

 

P13より

 ーーートクン、トクン。

 あたしは、その音をかき消すように、先月本屋で立ち読みしてからずっと気に入っている本の一節を口にだす。

「ーーー独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」

 

 京都の立命館大学に通っていた高野悦子(たかのえつこ)さんは、二十歳で自殺して一冊の本を残した。あたしも高野さんと同じだ。弘前から東京にでてきて五年になるのに、たしかなものがなにもない。

 

ーーー高野さんには日記があったのよねえ。ジュンには、それすらないんじゃない?

 

P82~P83

 あたしは、どこか煙に巻かれたような気分でその話をきいていた。たしかにゴローさんのいうように、ひとの気持ちはよくわからないものだ。

「そのひとは引っ越しちゃったんですか?」

「死にましたよ。冬の朝に。やけに咳が多いなと思っていたら、結核だったようです」

 

 会話が途切れて、あたしは胸いっぱいに煙を吸いこんだ。小説家の話すエピソードが全部真実とは思えないけれど、どこか胸に迫るものがある。たぶん、ゴローさんはあの冷蔵庫に貼られた文言を見ながら、思い出の中のそのひとと対話をしていたんだろう。

 

 冷蔵庫の注意書きを見るのにも飽きたのか、キッチンをでていこうとしたゴローさんを後ろから呼び止める。

「ねぇーーゴローさんはだれかの思い出で胸が苦しいときどうするんですか?」

 また、あごを数回かいてからふりむきもせず、ゴローさんはぽつりといった。

 

「書くんですね。そのひとについて思いつくこと全部。書くことがなくなるころには、もうどうでもよくなってるんじゃないすか」

 ぱたんと六号室の扉が閉まっても、あたしはしばらくゴローさんがいなくなった空間を見つめていた。

 

P85~P86

 夕方に一緒に店をでて、同じ方向に向かって歩く。丘の上にある大学に夕日が沈んでいくのをなかめながら、りつ子は透き通った声で詩を詠んだ。

 あたしは、その秋の夕暮れの静寂に響くりつ子の声を、それから何度も思いだした。肝心の詩のほうは、たった一節しか覚えていない。

 

ーー風が時間を知らせて歩く 方々に

立原道造(たちはらみちぞう)の詩だという。

 

「道造が好きなんてプチブルっぽいよね」とりつ子は頬を赤らめる。

「そんなことないよ!詩のない運動なんて悲惨でしょ」

 あたしはちょっと格好をつけてそういった。りつ子が文芸サークルの機関誌に、

夕凪(ゆうなぎ)というペンネームでこっそりと詩を寄稿していることをコーヘイからきいていた。感傷的な詩や、りつ子が好きだった六〇年安保闘争の挫折(ざせつ)を描く文学が敗北主義的だとして先鋭化する運動のなかで否定されていくのはまだ少し先の話だ。

 

P99

「でも、あたしが小学生のとき、もう鉄拳制裁なんて完全にNGでしたよ」

 おいしそうにキャスターを一服して本郷はルルの目を見る。

 

「まったく同じとはいわねえよ。おれもルルちゃんの世代には、あんな事件をおこさないでほしいって思ってはいるよ。でも、ほんとうに違うのかい?ネットリンチで死ぬやつはいねえのか?あいつはまちがっているってなったら、全力で石をぶっつける感性はどこで育まれるんだ?」

 

「教育が悪いってことですか?それとも人間の本性とか・・・」

 

「そんなこと言ったら思考停止だろ。同じような事件は永遠に起こり続けるさ。おれがいいたいのはこういうことだよ。おれたちの社会には、明らかに欠陥がある。学校や、社会や、地域のコミュニティ、どこでもいい、生まれて育ってくる過程で人間が粗末にされすぎなんだよ。いまの時代は違うなんていうのは簡単だろう。でもな、おれには、あの事件のあとにほんとうはもっと向き合って変えなきゃいけなかったものが、そのまま残ってしまったみてえな、逆にそっちから目を逸らそう逸らそうとした結果がいまの時代だって感じすらするんだよ」

 

P282

 一呼吸おいてからジュンは口を開く。

「あの作品をしっかり読んでくれてありがとう。ルルさんの言葉で、あたしもまた出会いなおすんだって思った。でもね、ちょっと物語を意味で読みすぎているのかも・・・。ルルさんは文学部出身?」

 

ルルがうなずくと、ジュンは、まああたしもなんだけど、と微笑む。

「テクストはいつでも自由な解釈に開かれている、っていうのが大学のときに好きだった先生の口癖だった。でも、その先生がやっぱりいっていたんだけど、人がなにかを書きはじめるきっかけは、だいたい素朴なものだって。たとえば、秘密の告白、懺悔(ざんげ)、失恋、ノスタルジーーーなんだっていい。ひとつだけ秘密を打ち明けるとね、実際の出来事を書いたっていうのは嘘じゃないの」

 

 

 

こんな歌が流れていた時代だった

 

覗いて下さってありがとうございます。

誰にとっても、明日が好き日でありますように。<(_ _)>

 

昨夜は12時間近く寝た。

 

おとといは手紙を1通書き、

きのうは盛りを過ぎたモッコウバラの剪定をした。

一日に一つのこと、

たったそれだけのことで疲れるのだ。

トシヨ!トシ!!と自分でツッコンデ笑う。

 

今日は仙台市の青葉祭り(本祭り)。

二日とも快晴なのは久しぶりのような気がする。

混むのだろうな・・・と独り言。

 

出掛ける元気もなく庭を見る。

アネモネが綿毛になっていた。

タンポポの綿毛もよいけれど、

アネモネも悪くない。

 

好きなものが目の前にある。

土と太陽と花に感謝する一日。

thank you~♪

 

 

アネモネなんて珍しくもないと思います。

でも、蕾から綿毛になるまでを

ずっと見ている人はあまりいないと思います。

写真で綴るアネモネの一生です。

 

 

ツボミ

 

わたし・・内気なんです ww

 

 

直射日光はあんがい苦手

 

雨の日は好きかも・・・♪

 

 

 

咲き終わった後、綿毛になる前

 

白髪になって・・・ww

 

綿毛がこの種を運ぶんですネ

 

上から見たところ、頭頂部が・・・^^

 

 

風さんと、吹き抜ける庭にも・・・thank you♪

 

今朝の綿毛さんです。~(*^-^*)~

 

私がアネモネさんの一生を見るように、

アネモネさんも私を見ていてくれるのかも・・・

だったらよいな。~♪

 

覗いて下さってありがとうございます。

誰にとっても、明日も好き日でありますように。

<(_ _)>

 

 

延ばし延ばしにしていた手紙を一通書いた。

書き終わって思う。

どうしてこんな簡単なことが苦手なのだろう?と。

 

投函しに行き、スーパーで食材を買って帰宅。

夕刊を開くと「直木賞作家、佐藤愛子さん死去、102歳」とあった。

テレビではまだ報じていない。

時代なんだ・・・。

そのことを、さみしいと思った。

 

 

 

 

きょうも覗いて下さって有難うございます。

令和の明日が誰にとっても好き日でありますように。<(_ _)>

 

 

 

 

***今日の気持ちの補完として***

下記、ネット(newsポストセブン)の記事から一部お借りしました。

**************************************

 

 一途に文筆業と向き合い、今年4月に文藝春秋から刊行された『ぼけていく私』は、佐藤さんが著者としてクレジットされた最後の1冊となった(娘の杉山響子さん、

孫の杉山桃子さんと3代での共著)。同書の中で、佐藤さんは"死"への思いを明かしていた。

〈私はまだ考えたことがないけれど、眠っていくときの感じじゃないですか。(中略)でも、どんな死に方が来たってしょうがないですよ、来たと思うしか。今眠っていくぞと思って眠るって、あんまりないじゃない。そんなもんじゃないですか〉

 

 佐藤さんの座右の銘は、社会実業家の澤田美喜による言葉「人生は美しいことだけ憶えていればいい」だった。102歳の生涯を力強く生き抜き、美しい記憶を胸に旅立ったのだろう。

 

**************************************

 

少し前、『白珠を我は知りしか』という本が紹介されていた。

そのタイトルは万葉集からとったとのこと。

で、元歌を知りたいと思った。

 

白珠は人に知らえず 知らずともよし

知らずとも我し知れらば知らずともよし

(詠み人、元興寺の僧とある。)

 

白珠は人に知られない。

しかし、知られずともよい。

たとえ人がしらなくても、

自分自身が知っているのなら、

人が知らなくてもよい。

 

そのように説明されていた。(万葉百科、奈良県立万葉文化館)

 

だから何?なのだけれど、ちょうど庭の手入れをしていて、

ドウダンツツジの白い花が、緑の苔の上に散っていて、

そのコントラストが美しく、白珠に見えなくもない。

 

矛盾しているのだけれど、誰かに知って欲しくて書いてみた。

綺麗だと思ってくれる人はいるだろうか・・・。

 

いま庭仕事が忙しく、地面ばかり見ているうちに5月も半ばです。

もっとゆったりと暮らしたいのですが、難しいです。😢

みなさんはどうなのでしょう?

 

覗いて下さってありがとうございます。

5月病となんか無縁で、元気で過ごされて下さい。(*- -)(*_ _)ペコリ

 

 

 

***きょうのオマケ***

知らない繋がりで、昨日読み終わった本

 

井上隆史著『三島由紀夫を誰も知らない』

 

興味深く読んだけれど、いまの自分では十分に消化できそうもない。

 

著者のブタペストでの公演からの抜粋(P346~P347)

ちょっと長くなるけれど、タイムリーな話。

**************************************

前略

三島由紀夫が生きていたら何を語るか

 

 このように考えるとき、もし、三島由紀夫がこんにちの世界を目にしたとしたら、何を語るだろうかという問いに答えるための糸口が見えてくるようにも思います。地球上ではいま至るところに戦乱、または戦乱の種があり、目を覆いたくなる惨事が毎日報じられている。この現実に対して、三島はどのような言葉を投げかけるか。

 

 三島はあるところで、「肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか」と問うています。これは、人間にとって大切な現実とは、いまここにしかないということです。しかし、このことに気づくためには、一方で、いまここを超える視点を持っていなければなりません。『豊穣の海』における歴史と仏教は、そのような視点を与えてくれます。

 

 ここで重要なのは、私たちは、いまここを超える視点を学び、これに耳を傾け、それを鏡にして、自らの生を律しなければならないということですが、同時に忘れてはならないのは、日々を生きている私たちは肉体の外には1ミリも出ることができないという事実です。精神はしばしばこのことを忘れて暴走する。テクノロジーの進歩、特にAIと結びつけられた兵器は、この錯覚をますます助長します。肉体を忘れた精神の暴走は、精神の進化ではなく退化にほかならない。

 

 この時、私たちは、超越的な視点から現在を律するのではなく、自分自身があたかも超越者であるかのように振る舞ってしまう。しかも、なんらその責任を負おうとしない。こんにちの世界の混乱は、まさにこのような人間の傲慢さに由来しているのではないか。三島はこう警告するに違いありません。

 私の話は以上となります。有難うございました。

**************************************

 

ドウダンツツジの花 この白い花が ほろほろと散ります。~♪

 

 

 

橋を渡っていたら残雪の山が見えた

車を停めるわけにはいかない

 

カメラを取に戻り

歩いて橋の中央に立ち

山を撮った

 

こんなに山が近いのだもの

クマが傍にいても不思議じゃない・・よね?

 

 

 

覗いて下さって有難うございます。

ブログの更新をしようと思ったら

インターネットが繋がりません。

あれやこれやと頑張って、やっと今の更新です。

 

 

令和8年5月10日(母の日)の、仙台市街地からの眺めです。

風は強いけれど、生きていると感じられる日でした。

誰にとっても、明日が好き日でありますように。

<(_ _)>

 

 

同じ橋の上から。ネッ!・・山が近いでしょ!?

 

すこし前のこと、いつか生まれ変わったら一緒に虹を見ましょうと誘われた。

正確に言えば、性別を変え、自分のカラダで虹をつくり、それを見る。

という話なのだけれど・・・

 

そんなことがあったからか、タンポポの綿毛(冠毛)の写真を撮っていて思った。

あっ! 生まれ変われるなら、タンポポも悪くないかも・・・

 

咲いて、綿毛(冠毛)になり、そのあとは風にゆだねる。

辿り着いた地で、再び花を咲かせるもよし、咲かずとも好し。

誰の手も煩わせることなく、ただ風に頼ればよい。

理想がここに在ると、綿毛を見ながら思った。

 

 

 

今日も、意味不明のブログを覗いて下さって、有難うございます。

春を惜しむゆとりもなく、夏に身構える自分です。😢

季節の変化がこんなにも心身に堪えるとは思ってもいませんでした。

どなた様も、御身お大切になさってください。<(_ _)>

 

 

***今日のオマケ***

 

連休中に読んでいた本

高野和明著『犯人と二人きり』

 

七つの短編集

「ゼロ、跫音(あしおと)、死人に口あり、二つの銃口、

ハードボイルドな小学生、天城の山荘、三人目の男」

 

「ゼロ」P17より

 

*****

「自分が何者かを知りたい」

 

「そんなことをする必要はないわ。あなたは今、幸せなのよ。わかるでしょ。

ここにはあなたの味方しかいない。

生活の不安もなければ、家庭が壊れた苦い思い出もない。

あなたは温かい環境にいるのよ」

 

「それは自然なことじゃないと私は思う」

自分の意見を表明するのは、ここに来てから初めてだ。

だから私は今まで好かれていたのか。

「おそらく純粋な人間というのは、純粋じゃない人間のことだ」

 

「どういうこと?」

 

「人間らしい人間は、誰かに傷つけられたり、誰かを傷つけたりする。欲に駆られて失敗もする。そんな苦い思い出を引きずりながら生きているのが、人間じゃないのか」

 

「そうかもしれないわね」と、心理学者のリンが言う。

「だから私の働く場所があるのよ」

*****

 

本を読むだけなら、誰も傷つけず、誰からも傷つけられません。

自分はそう思って本に頼っています。


 

 

画像も文章も AI が作成してくれる時代
 
「みどりの日」に相応しい写真をと命じたら
どんな画を提示してくれるのだろう
 
風が強く吹いている今日
庭仕事はやめて写真を撮る
 
アングルはここしかない
(笑)
 
 
 
庭のスズランが咲きはじめました。令和8年5月4日みどりの日📸
覗いて下さって有難うございます。
連休を愉しまれていますか?
目にも心にも優しい毎日でありますように。
<(_ _)>
 
 
***今日のオマケ***
わが家の庭を散歩コースにしているキジバト。まだ幼鳥のようです。
 
画面左上の黄色の点々はレンギョウの花びら。
少し前までは地面が黄色に染まって綺麗でした。
 
アングルをちょっと変えて・・・ww
 
5月は雨で始まった
月初めはできるだけ明るく!と思っているけれど
雨だから、まっ、いいか、と思う
 
きのう、藤の花を撮りに行ったけれど
ことしは縁がなかった
代わり、惹かれる景色があった
 
チューリップ
マスゲームに興じていないチューリップ
少し前に読んだ俳句を思い出した
 
チューリップかなしきまでに晴れし日を
三島由紀夫(1925~1970)
 
この句の初出は「山梔」
昭和16年5月号、平岡青城(俳号)名義とある
 
十六歳とか十七歳とかだろうか・・・
かなしきまでに晴れた、その日を想う
 
きのうは曇りだった
それでよいのだと思いながらカメラを向けた
 
16~17歳の三島由紀夫が見たチューリップは
一輪か二輪か どんな色だったろう
空はどれだけ青かったのだろう
これからチューリップを見る度に想うだろう
 
 
覗いてくださって有難うございます。
5月病になんかに罹らないで下さいネ。
誰にとっても穏やかな皐月でありますように。
<(_ _)>
 
 
***きょうのオマケ***
令和8年4月30日くもりの日 仙台市農業園芸センターにて 
 
 
※※※
三島由紀夫の俳句は、河北新報4月25日の〈秀句の泉〉で紹介されていたものです。
また、この記事に特に思惟的なものはありません。念の為・・・。

 

きのう27日は雨降りでした

あそこにも、あそこにも、あそこにも、

降り続けばよいなと思いながら

本を読んでいました

 

 

 

きのう読んでいた本

町田そのこ著 『蛍たちの祈り』
 
その33~34頁
自分の死期を悟った祖母が
たった一人の孫娘に話して聞かせたこと
 
***
世界にはたくさんの綺麗な景色がある。
でもね、自分のすぐ傍にも、世界中に誇れるほどの綺麗な景色があるの。
そのことを知らないひとは一生見られない。
知っていても、季節がずれたり天気が邪魔をしたらやっぱり見られない。
そして、行こうと自分の意思で歩かない限り、見られない。
しあわせってのも、そうよ。
覚えておいてね。
***
 
 
この本は去年の9月28日に図書館に予約し
先日やっと順番が巡ってきました
7か月待っていました。
 
昨年9月28日付新聞書評欄
北村浩子氏(ライター)の評より抜粋
 
*****
生まれたことに感謝、とか、生きているだけで丸もうけといった
「生を賛美する言葉」を聞くとつい懐疑的になってしまう。
そんな、少しばかり曲がった気持ちを肯定してくれる
懐の深い小説だ。
 
中略
 
やがて見えてくるのは、
幸恵や隆之ら登場人物たちは、
自分の力ではどうにもできないものと
闘っているということ。
 
どんな親の元に生まれ、どんな環境で育つか。
選べないだけでなく修正もできない
「血」や「性分」と闘う人たちの姿を
この作品は描いているのだ
 
中略
 
自嘲しながらも
どうしたって自分は自分から逃れられない。
その残酷さが時を進めながら徹底的に掘り下げられてゆくので、
読んでいて苦しさを感じずにはいられない。
 
中略
 
幸恵が味わってきた悲しみが、
最終章では思いがけない光に変化している。
ほのかで優しいその色をぜひ読んで体感してほしい。
****
 
 
明日からGWですネ。って、私は365日連続の休日です。😊
雨が恵みの雨となるよう願います。
行楽地には🌞太陽を!
 
覗いてくださって有難うございます。
<(_ _)>
 
 
 
今日の写真は、記事と関係がありませんが、庭のドウダンツツジとハナカイドウです。

 

 

日本列島、いたるところで、ゆれている

 

「特別な備え」

なんて言われなくとも、いつも身構えている

だから落ち着かない

 

そんな昨日、読んでいた本

鈴木創(すずき・はじめ)

『たまさかの古本屋・シマウマ書房の日々』

 

そのエッセイの、「揺れる日々」の中で

平田俊子さんの

「二十四月七日」という詩が紹介されていた

 

***

「この先、ゆれますのでご注意ください」

のどかな声がバスのなかを泳ぐ

それは困ります、運転手さん

わたしは洗面器を抱えています

洗面器のなかには金魚が一匹

***

 

著者はこのあと、こんなふうに文章を続けている

 

***

このバスの乗客はひとりではないだろう。

他の人たちもまた、

それぞれに自分にとっての大切なもの、

喜びや悲しみを抱えながら揺れに耐えている。

 

私たちの暮らすこの町、

あるいはこの国が、

いま、

ぐらぐらと揺れているのかもしれない。

***

 

こんな本があるから

洗面器の水をギリギリのところで溢さずにいられる

ありがたいと思った。

 

 

鈴木創著『たまさかやの古本屋・スマウマ書房の日々』

 

 

庭の利休梅と濃紫モミジ 令和8年4月21日📷

 

 

きょう図書館に行き、本を2冊返却し3冊借りてきました。

本は私にとって免震装置みたいなものです。(笑)

 

覗いて下さってありがとうございます。

皆様の洗面器の金魚が無事でありますように。

明日が好い日でありますように。

<(_ _)>

 

 

***今日のオマケ***

↓ 一週間ほど前の濃紫モミジ