

レンジファインダーで35ミリフルサイズ。シャッタースピードも500分の1まで切れる。ただ、AE機能の調子が不安定でAE撮影は出来なかった。いうならば完全マニュアルカメラ。レンズは45ミリf1.8。ファインダーが曇っていてピントを合わせにくいのが難点。いろいろ不満はあるがこれまでのトイ・カメラと比べれば雲泥の差。
初めての被写体は1976年夏の国体の際、ご来県された当時の皇太子殿下・妃殿下がお乗りになる唐津線のディーゼルカー。臨時ではなく定期列車のキハ10・20系の中に1両キロを挟んだ編成だった。撮影場所はその年、貨物ヤードが完成した鍋島駅。
しかし警備が厳しく、なかなか近づけない。おまけにピント・露出ともだめで全く見られない写真になってしまった。もっとカメラのことを勉強しなくてはと痛感した。
その後はおもに電化されたばかりの長崎線を中心に撮影を行なった。電化当時はまだまだ電車の絶対数が足りず特急「かもめ・みどり」と一部の快速電車を除いてディーゼルばかり。「みずほ」もなぜかいつもDD51の重連。急行「出島・弓張」も長大編成を従えて活況を呈していた。
そうしているうちに高校生へ。とりあえず地元では進学校といわれているところに入学したため、「鉄」どころではなくなってきた。成績もさっぱりだめ。細々と「鉄」を続けてきたが、しばらく断念せざる得ない状況になってきた。
中断前、最後の遠征は関門地区。その年の秋にEF65PからPFに交替したブルトレ群と関門名物のステンレス機関車、そして58を始めとする直流電気機関車が被写体。早朝4時前に佐賀を出る422列車に乗り下関へ。初めてみる新製間もない65PFが輝いて見えた。58も荷物列車の先頭に立って盛んにSGから蒸気を吹き上げている。普段は九州の赤い交流電気機関車ばかり目にしているので直流電機のブルーがとても新鮮に見えた。思う存分「鉄」して、小倉から「かもめ」に乗って帰りの途につく。これからしばらくは「鉄」なしの生活。
現役の時は大学受験全滅。そりゃそうだろう。周遊券使って関西地区、東京地区を受験の前日まで「乗り鉄」しているようじゃ。
想定内の浪人生活。予備校に行くのもかったるいので自宅でまじめにお勉強。秋からは福岡まで予備校の講習会や模擬試験なんか受けに行ったので、その時の「鉄」がいい気分転換になった。
どうにか浪人生活も1年で終了し東京へ。久しぶりにカメラを手にする。これからは思う存分「鉄」が出来るという開放感がたまらない。
大学のサークルは、「鉄」ではなく山登り。私の通っていた大学はK大と双璧をなす鉄道研究会があったのだがそこには入らなかった。何せカメラがぼろいミノルタでは・・・・と引け目を感じていたし、なにより群れて写真を撮るのがあまり好きではなかったのだ。
特に山登りに関心があったわけではないが、語学のクラスの友人に誘われてそのまま入ってしまった。せっかくだからこれまで経験したことのないようなことをしてみたいという好奇心もあった。
「鉄」は相変わらず独りで結構まめにやっていた。ちょうど東北・上越新幹線の大宮暫定開業で上野口の特急列車が廃止になる時。上野での駅撮りや赤羽、尾久辺りでの撮影が多かった。東京に来て最初の遠征は上越線の水上。最後まで残った181系「とき」がいよいよ廃止になるというので風景のいい諏訪峡辺りに目をつけ早朝の普通電車に乗車した。このとき初めてリバーサルフィルムを使用。
その後は奥多摩のED16詣でをしたり、西武の古典電機、帰省にあわせてセノハチで59や58、九州一周周遊券使って廃止前の鹿児島交通や各線の「乗り鉄」とこのカメラひとつで各地を回った。
カメラは相変わらずミノルタ。旅行会社で正社員並みにアルバイトをやっていたので買い替えもやろうと思えば出来たが、生活の中心はサークルとアルバイト。そこまで考えることもなかった。
3年生の終わる頃、サークル活動も実質引退となる。このとき初めて買い替えを真剣に考え、ようやく一眼レフを手にした。普通なら4年生は就職活動だろうが、どうにかなるさで全く真剣さというか危機感なし。それどころか、一眼レフを手にして一段と「鉄」にはまり込んでいくことになる。
この後の顛末は次回で。
なお、このカメラからは撮影したネガも全て持っているので、スキャナーがあれば再現できる。ただ、かなり長い間そのままの状態なので劣化がどこまで進んでいるか不安ではあるが。