大学3年もんのライフログ@14卒就活

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もんが就活したり人生を考えたりする毎日のログ

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前回に引き続き、天国へ行く方法について。

いい生き方をする(=いい死を得る)ことについて近頃考えています。

 

 

 

☆人間が幸福になれていない原因を特定する

 

 

 幸福な死を迎えるのに必要なのは、幸福に生きていく事だ。では、自分にとっての本当の「幸福」とは何か。受験や就職や結婚、人生で大きな選択をする際には必ず考えなければならない、一生の問題だ。でも、自分の「幸福」像を正確に把握するのはとても困難である。試験が終わって自分へのご褒美にケーキを食べて、いい学校に受かって、幸せなはずなのに、なんとなく満たされないフラストレーションのようなものを日々感じることはないだろうか。


 

 そこで、今回は「幸福」について掘り下げて考える。人間の幸福には二種類ある。


 第一に、肉体の幸福(物質的幸福)だ。これは例えば、食欲や睡眠欲等、自分の肉体が求める欲求が満たされる幸福である。第二に、精神の幸福(非物質的幸福)である。これは、人から愛されたいとか、認められたいといった、自分の精神が求める欲求が満たされる幸福である。


 人間は他の動物と異なり高度な社会性や理性を持っており、特に後者の精神の幸福に重きが置かれた動物である。つまり、肉体の幸福が満たされる事よりも、精神の幸福が満たされている状態の方に幸福を感じるのだ。だから、人は信念のために切腹をし、信教のために断食をしてきた。重罪人には切腹が許されず、死刑執行人による死罪であったように、人は他人に強要される肉体の犠牲はもちろん最悪だと考えていたが、自己の意思での選択であればその自由を誇りに思い、そのような行動をとる事ができることに満たされていた。

 

 一方現代人は精神よりも肉体ばかりを優先し、その結果慢性的に正体不明の不幸に捕われて自殺を選ぶ者も増加した。この慢性的な正体不明の不幸とは、精神に従って肉体を動かすのではなく、肉体に従って精神を動かす苦しみである。


 こうなった原因は主に二つある。一つ目に、社会がモノにあふれたということである。つまり、肉体の欲求を満たすことが精神の欲求を満たすこととは比べ物にならない程楽になってしまったため、人は肉体の欲求を満たすことばかりに固執するようになってしまったのだ。


 二つ目に、肉体的な死が過去に比べて身近ではなくなったということである。現代社会において人が肉体的死に触れる機会は減少し、そうして自分の肉体的な死についてもリアルに想像することは難しくなった。


 しかし、人間とは精神と肉体という全く異なる二者が同居している者であり、片方を優先して考えるとすると、もう一方をどれだけ犠牲にするか、という問題に直面する機会は発生する。(精神の幸福と肉体の幸福の間には相関関係があるため必ずしも常に相反するという訳ないが、今回その点は省く)そのため、精神に最も忠実な選択をするならば、肉体保守的思考から脱するために、その犠牲の延長上にある肉体的死を(実行の問題ではなく)選択肢の可能性としてリアルに考える能力を持っている必要がある。つまり、精神のためには肉体を犠牲にする選択をもできるという覚悟が必要なのだ。


 その覚悟を失った結果、人は精神の生を失いかけている。

 

以上のように、人が真に幸福になれない原因とは、第一に多くのモノに囲まれすぎている事、第二に死への想像力が衰えた事だ。だがこのような環境下でも真に幸福に生を全うし、よい死を得て天国に昇る者はいる。重要なのは、肉体よりも精神を大切にする事で幸福に近づけるという事を再認識することではないだろうか。

 

 

 

またなんだかよく意味が分からなくなってきた。

 

つづく

最近よく「人事担当者と一緒に自分のルーツを探ろう!」みたいな自己分析講座のお知らせが来るのですが、私はあまり参加する気になれません。

私は就職活動における「自己分析」には全く違う二種類の作業があると思います。①自分自身の価値観を理解するための自己探求、②自分を他人に説明するための自己整理です。

私は、①は基本的に一人で行うべきものだと考えています。理由は二つあります。一つ目に、正確な自己探求というのは主観においてのみ行われるものだからです。ある体験が自身の価値観にとって大きな転機であったとして、その出来事の重要性を本当の意味で理解できるのは自分自身のみです。二つ目に、人生の転機となるような出来事には、人に立ち入られたくない種類の体験が多いからです。両親の離婚や近しい人の死、いじめ等が人生最大の転機になった人も少なくありません。このような体験は本人にとってかなり重要であるにもかかわらず、人事担当やOBとの自己分析講座ではまず振り返ることができません。

対して、②は誰かと行うことがとても効果的です。自分についてより客観的に整理する事ができるからです。また、定番の「ストーリーの型」等を情報交換すれば整理し易くなるかもしれません。

以上のように、「①(ルーツ探り系)」を「誰か(特に学生がどうしても相手の立場を気にして素顔を晒しにくい、人事担当者の方)」と行う事はまず不可能であり、また万が一所々誤魔化しながら行ったとしても、結局なんだかよく分からなくなってしまうだけだと私は思うのです。

手伝っていただく方なのに我儘を言っていて申し訳ないのですが、もし人事担当者の方やOBOGの方が学生の自己分析に時間を割いてくださるのならば、②を手伝っていただけるととってもありがたい、と私は思います。「人事担当者と一所に自分を整理しよう!」なら、すごく魅力的です。

天国へ行くのに必要なものはカブト虫ではない気がしたので、少し考えてみた。(嘘

率直に言えばいい生き方をする(=いい死を得る)ことについて近頃考えています。



☆受験・就活・結婚、人生の岐路に立つとき、するべき本当の準備とは



重要な決断の前には、自分の中で一貫した論理性を持つことが欠かせない。例えば、ある貧しいテニス選手がおり、母の命を救う手術に必要な賞金のために試合に出場するとする。彼がただひたすら自分を鍛錬し、当日正々堂々真っ向勝負にかけるのはもちろん正義だし、でも一方で事前に対戦相手を調べて、人脈や技術を駆使して相手に不利な状況を作ってでも当日確実に勝って母の命を救う、それだってある視点から見れば正義だ。

つまり、価値観や視点を変えればなんだって、たいてい「正義」になりうるのだ。

だから、最も避けるべきは思考不充分のままに重要な結論を出し続け、「正義」をぶれさせつづけていることだ。こうしていると、結局最後はいつだって、結果や他人の理屈のみに「正義」を決められてしまうことになる。

そうなったら最後、そこにあるのは適当に出た結果だけに対する、感情に基づいた「喜び」や「後悔」だけで、それはプロセスを注視した理性的な「反省」ではなく、「成長」も生まれない。

更なる発展や幸福を望み続けるのであれば、重要な決断の前には自分の中で一貫した「正義」を構築し、いつでも自分で自分にぶれない決断の説明ができるようにして記憶しておかなければならないのだ。

そして、そうやって決断したことについては、結果的に失敗しようが誰かの信頼を失おうが自然に自分で責任を取らなければいけない。自分の中にはっきりとそこに行きついた道があるのだから、他の何物のせいにもできない。逃げられない。でもその過程こそ無思考な成功で終了するよりもずっと重要で、ずっと幸福なことだ。

このことこそ、入試でも就活でも恋愛でも、人生で大きな決断を下す前に最も重要な準備だ。

今まで私は、一貫性や納得といった「正しさ」という価値観を定義しておくことは、集団での決断の中で重要なものだと考えていた。でも最近、それは個人の決断の中でも同じようにとても重要であるということが分かったのだ。

もちろん人間は、いつでも完全に論理的で、すべての行動に意味がある、なんていうわけにはいかないし、現実的にそれは無理なのかもしれない。けれど、完全にそうすることは無理だとわかっていて尚、一生をかけてそこを目指し続けることこそ、人間のあるべき、最も美しい姿なのではないかと思う。そしてそのような最高の生の先にあるものこそ、最高に誇りある、天国へ行ける死なのではないかな。結局何が正しいかなんて、いつだって最終的には自分が決めるべきだし、あとは基本的にはそれに則って生きていくべきなのだ。本当の意味で、最も重要な不変の真実は自分の中にしかないようだ。



なんだかよく意味が分からなくなってきた。

つづく(かも)