今日は憧れの泉岳寺講談会に行ってきました。他の講談会とことなり、曜日関係なしの毎月14日開催ですので、ほぼ平日のお昼からという開催で行くことが出来なかったのですが、先月末の告知でお盆休み中だということを知り、気合を入れて申し込みをしました。10時から受付でしたので、10時までに必要な項目は入力して、時報を確認したら送信ボタンをおして申し込み。無事、当選することが出来ました。

今回は台風7号の接近もあり、開催と交通機関の混乱などのが心配されましたが、なんとか関西の方向にずれることで、開催されました。

とはいえ、品川駅から山kるころには豪雨が。駅の高い天井が雨音でゴーっと響いているくらいです。のちに知りましたが、講談師の神田鯉花さんも、ホームに降りた瞬間に横殴りの豪雨で全身びしょ濡れになったそうです。

 

豪雨の中、徒歩で泉岳寺に向かいました。雨は強くなったり弱くなったりを繰り返しています。講談会はお昼から開場ですので、その前に47士のお墓をお参りすることに。お供えの線香を購入して、墓前に供えていくのですが、傘を差しながら火の点いた線香を持って、お供えしていくのは思いのほか大変です。

 

なんとかすべての墓前にお供えできましたので、次は赤穂義士記念館へ。これは赤穂浪士たちが残した遺品などが大切に保管されている小さな博物館で、伯山さんのYoutubeでも紹介されていた首の預かり証文も展示されています。講談では浪士は揃いの段だら染めの衣装で討ち入りしたとされていますが、実際には衣装を揃える金銭的な余裕はなく、それぞれができる範囲内で武装していたことがわかります。

また四十七士の人形が展示されている人形館も訪れました。これは50センチ程の四十七士の人形が展示されているのですが、意外だったのはそれぞれの浪士についての説s護班等の役割分担があり、多くの浪士が外からの攻撃に備えて、警護に当たっていたaことです。神崎与五郎も赤垣源蔵も屋外警護班でした。剣の達人の堀部安兵衛は討ち入きり班でしたね。

さてお昼になりまして会場となる講堂の入り口近くで待っておりますと、なにやら派手な上着を着たおじさんが…切腹最中で有名な新正堂の渡辺社長で声をかけてみました。今日はガイアの夜明けのロケで連れてこられたそう。明るくて笑顔の絶えない渡辺社長でした。



講談会のチケットもぎりは一龍齋の貞治さんを中心に若手前座さんが手際よく運営されていました。

開場になり、一番前の中央席に陣取って、お土産に手ぬぐいなどを購入して準備万端。

最初に宝井琴調先生からクラウドファンディングのお願いと、先ほどの渡辺社長からの寄付金の贈与式が行われました。

前講は「問わず語り」でも愛されている神田青之丞さんと一龍齋貞太さん。青之丞さんは「彼が有名な「はちのへ」の帯を締めたんだなぁ」とニヤニヤしながら聞いていriました。神田伯山さんのお弟子さんらしく、神田派らしい張扇も勇ましく一生懸命な高座でした。

そして高座には二つ目に昇進した神田鯉花さん。Youtube映像では眼鏡をかけて、おとなしく優しいイメージでしたが、講座では目を見開いて汗だくで大きな身振り手振りの「扇の的」を演じられ、持っていた勝手なイメージが覆されました。旧ツイッターでは電車の乗り間違えをするポンコツぶりですが、高座ではまさしく全力投球という感じでした。うまさというよりは真剣という姿勢が好感が持てました。

次は神田阿久鯉先生。伯山さんの姉弟子らしく「今日は明るい話と怪談とどっちがいい?」と尋ねられ、村井長安の「吉原の裏田んぼ」を演じられました。やっぱり阿久鯉先生の「焦ったおじさん」のキャラクターは最高ですね。

次は一龍齋貞弥先生。写真や真打昇進の映像よりも細い方で、しかしやはり聴きやすい声で、「鼓滝」をストレートに演じられました。

そしてトリは一龍齋貞心先生の「倉橋伝助」。赤穂浪士の話の中では討ち入りよりずっと前、浅野家仕える前のお話ですが、武家の次男坊であったが、身を持ち崩して勘当され町人として生活している中で、お世話になった老夫婦の信頼を得、また婿養子になってほしい、という頼みに自分の出自を白状するというお話なのですが、老夫婦のおじいさんの一人語りの形で話が構成されていて、これが役柄が貞心先生と完全に一致してしまうかのような語り、細かい所作や声掛けを多く入れることで、より実際に目の前にいるかのようなリアリティがありました。婿養子になれないことを告げられると、伝助の将来を案じ、江戸に出て士官できるように話をつないでやることで、伝助が浅野家につかえるという人情味の要素が強い一席ですが、とにかく貞心先生の丁寧な心情表現がものすごくて、過去に聴いた講談の中で一番の感動の一席でした。

神田とも宝井とも違う、一龍齋ここにあり、という一席でした

泉岳寺講談会の終了後には天気もよくなっていましたので、もう一度時間をかけて四十七士の墓前をお参りしてから、泉岳寺を後にしました。