33とはとてつもない数字だが…やっぱり稀勢が好きなようだ | 酋長のブログ

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日々のあれこれ思うことをつづります。

千秋楽が終わっての回顧もできていなかったので、
初場所の記事を締めくくるという意味でもいろいろ書いておきたいと思う。

白鵬、前人未到33回目の優勝

ただただ凄いとしか言いようがない。
つい最近までは、他の力士たちの不甲斐なさを感じていたが、
そうではなく、白鵬が「勝負に徹して」強すぎるだけのように感じる。

ここまで取りこぼしのない、取りこぼしても優勝は逃さない横綱はいないのではないか。
とにかくケガをしないことが最大の強さ。
そして不利な体勢になった時の対応力の早さは他の力士の比ではない。
土俵上での心技体すべて、白鵬が強すぎるのである。

ただし、白鵬は勝負に徹している。
受けて立つ相撲ではない。それが、私の中では不満である。
貴乃花のような強さは感じない。
その意味では、貴乃花の方が強い。
ただ、勝負に徹すると、白鵬が強い。
これは、今の大相撲のスタイルが、昔の大相撲のスタイルと異なってきていることを意味するような気がする。

これは、一昔前のプロレスか総合格闘技か、というと大げさだが、
それに似ているような気がする。
総合格闘技がモンゴル勢、プロレスが日本人力士に見立てられる。
勝てばよい、という風潮が昔より強い。あくまで「昔より」という比較。
そうなると、ルールさえ守れば、となると、
勝ちに徹する力士の方が、内容を重視する力士に勝ってしまう。

この風潮が、多かれ少なかれあるから、
というか、勝てばよいわけではないということを環境が教えられないから、
今の土俵では、変化や張り差しが横行しがちであるとも言えるような気がする。

最近のブログでは、私は、「大相撲は勝てばいいというものではない」
という個人的な見解をよく書いているような気がするが、
何か風潮が、力士を取り巻く環境が、昔に比べて変わっているのは確かだと思う。

もちろん観客の多くは日本人、
さらに判官びいきの気質もある日本、
そうなると、勝てない日本人力士に肩入れするということも確かにある。
ただ、単に日本人力士だからというだけで稀勢の里の応援が多いわけではないような気がする。
そこには、昔の大相撲のように、
変に勝ちにこだわる相撲を一番も取らない愚直な稀勢の里だからこそ、
応援してしまうものがあるのではないだろうか。

「変化で勝って優勝しても意味がない、そんな優勝ならしない方がいい」
と数日前のブログで、稀勢の里に関して書いた。
今の愚直なスタイルを、守るのではなく磨いて、
それでの優勝を個人的には望むと。

こう書いていると、
やはり自分は、昔の大相撲が好きなことを認識する。
そう、今の大相撲は、昔の大相撲に比べると、魅力があるかと言われると、
個人的には否定せざるを得ない。
でも、今の大相撲は相対的でなく、絶対的に好きである。

もちろんモンゴル出身力士も自分の型をもち、
勝負ではあっても内容が伴う相撲も取る。それは当然である。
でも、ここぞというときに、勝負に徹した動きを見せることがあるのが残念になる。

いつぞやの優勝決定戦で、白鵬が朝青龍に立ち合いの変化で勝って優勝したことがあった。
あれで白鵬ファンは本当に喜んだのだろうか。
当時は朝青龍の方が上だったから、まだ許される状況であるが。
仮に、今後稀勢の里が決定戦に臨んだとき、
そんな相撲を取られたら、それこそ長年の応援への裏切りである。

今話題となっている十三日目の白鵬-稀勢の里戦でも、
取り直しの一番は、白鵬はまともに受けているだろうか。
そうでなく、立ち合い当たったあととはいえ、左に動いている。
単純に、稀勢の里と組みたくなかったのだろう。

なぜ取り直しなのだという感情の中で、
白鵬がさらに勝負に徹したのではないだろうか。
そして、勝ってしまうわけだが、
負けたらそれこそ言えなかっただろうが、勝ったからこそ言ってしまったあの審判批判発言。

私は、白鵬の言動をいろいろ見てきて、
白鵬の本性は一体何なのかがよくわからなくなってきた。

日本の歴史や、昔の相撲についてよく勉強しているなあと感心した。
記者会見に応じなかった白鵬の理由を後日聞いて、ある意味尊敬した。
多くの先人に対する畏怖の念、天皇陛下に対しての姿勢、
その他いろいろ、立派な横綱だなあと思ったことも何度もある。

だが、近年、時に、あれ?と首を傾げたくなる事柄がでてくる。
本当に、双葉山や大鵬を尊崇し、日本の心を持っているなら、あの発言は出てくるのだろうか。
日本に伝統として受け継がれる美徳、気質がしみ込んでいたら、あんなことは言うのだろうか。

よくわからない。

あの発言には、他の意味が隠されているのではないかと、
疑い、迷わなければならないものがある。
それは、過去に白鵬がいかに美しい言動をしてきたか、
というものがあるからである。

よくわからない。

よくわからない人間に神秘性を感じることがあるが、
ここではそれには該当しない。
逆に、やんちゃならやんちゃ、悪ガキなら悪ガキ、外れ者なら外れ者と、
裏表なくはっきりわかる方に魅力を感じる場面である。

だからこそ、朝青龍の方が魅力があったのではないだろうか。

確かに、朝青龍は素行が悪かった、枠にハマらなかった、
そして強すぎた、完全なるヒールであった、
現役当時は、なんとかこの憎い横綱朝青龍を倒さないか、
という興味が大きくあったのが事実。
でも、どこかそんな朝青龍が好きだった。

それは、朝青龍はわかりやすかったからではないだろうか。

そして、横綱とは憎まれれば憎まれるほど、
価値というか、評価が高い裏返しではないのだろうか。
ましてや、勝負に徹する相撲を取るのであれば。
強すぎる、という意味で、
朝青龍も貴乃花も北の湖も嫌いな時期があった。
その対戦相手をつねに応援している時期があった。
いつだったか、学校から帰って相撲を見ていたら貴乃花が負けて、
友達に「貴乃花が負けたなあ!」と、ただそれだけで電話したこともあった。

お客さんは自分が負けるのを期待している。
それでもふてぶてしく、孤独なのが、ひとつ横綱というものではないだろうか。
それに対する不満を、吐き出さないのが、日本における大相撲の横綱ではないだろうか。

チャンピオンになれば、チャンピオンにしかわからない苦悩があるはず。
リーダーになれば、リーダーにしかわからない苦悩があるはず。
何の分野にせよ、それはその地位に立った者にしかわからないものがあるはずである。
それに耐えられるか、進められるか、歩めるかは、
結局その人の器によるものではないだろうか。

白鵬は、横綱としての器が、あまりにも大きい、素晴らしい、と思ったことが何度もあった。
でも、今は、それは騙されていたのか?本当だったのか?
と、思っていたりする。

よくわからないのである。
本当は何を考えていはるのか。

勝負事にも弱い、プレッシャーにも弱い、
全く不完全な稀勢の里に、弱い自分自身を重ね合わせ、親しみを感じ、
そんなわかりやすくて勝てない稀勢の里を応援したくなる自分の気持ちが、
またひとつわかったような気がする。

優勝するまで、稀勢の里を応援し続ける。
100回裏切られてもいい。
どこかで期待に応えてくれる日があると信じて、
ずっと応援し続けたい。