ヒミズ
『ヒミズ』はいわゆる
“シリアス路線”
に転向した古谷実作品のなかでも
評価が高い作品であるし、
大衆受けするかどうかはともかくとして、
またマンガ評論家や批評家の評価とも無関係に、
「中高校生の頃に
この漫画を読んだ者たち」に対して、
ある種の特別な衝撃を与えたことは間違いない。
それは
「痛みを伴うリアルな青春物語」でも
「血と汗にまみれたエンタテインメント」
でもなくて、
あえて無理矢理に言葉にすれば、
『ヒミズ』
というマンガ作品は当時の自分にとって、
「いままで触れたことのない異質なもの。
見たことのない世界」だった。
また映画『ヒミズ』は、
鬼才・園子温監督の最新作でもある。
『愛のむきだし』
『冷たい熱帯魚』
『恋の罪』と精力的なハイペースで、
いずれもトラウマ級に濃厚で
完成度の高い作品群を発表し続ける園子温。
その最新作が園監督自身初の原作モノであること、
制作中に発生した東日本大震災によって
内容が脚本レベルから見直され、
なかには被災地ロケを敢行した
シーンまで盛り込まれたこと、
そして、
本作が園監督昨品の集大成で
あることを物語るかのように勢揃いした
園組オールスターキャスト。
これらの事前情報を耳にし、
期待するなというほうが無理だった。
しかし結論からいえば、
私はこの映画を楽しめなかった。
理由ははっきりしている。
「日常」の欠落である。
冒頭からラストまで、
要所々々で頻繁に挿入される
震災被災地の映像によって、
映画は震災後の世界を舞台にしていることを
強調し続ける。
当然、原作から様々な箇所の
設定が変更されている。
主人公の中学生・住田の家の隣には、
津波によってすべてを失った
元社長の男性(夜野)が暮らし、
住田のクラスの教師は日本人がいかにして
震災から立ち直るべきかを冗長な口ぶりで繰り返し、
「普通の人になりたい」
という住田の夢を否定する。
父親の借金に苦しむ住田のために
夜野が強盗に入った家では、
テレビのなかで原発の不合理さを
訴える宮台真司に対して、
住人が反論の叫び声をあげる。
反面、映画では、
たとえば住田と同級生たちとの学校生活や、
ヒロイン・茶沢との他愛のないじゃれあいといった
「日常」が描かれない
(正確にはほんの少し描かれるけれど、
とても「日常」を
感じさせるような効果は得られていないと思う)。
物語内で主人公を取り巻いている不幸、
降りかかってくる非日常的な出来事の数々。
それらの原因のすべてが、
どこかでうっすらと
震災に帰結している印象を抱かせるのである。
したがって、
劇中でもたらされる暴力や葛藤や絶望は
「日常のなかの非日常」ではなく、
「非日常のなかの日常」として存在する。
物語を形作るキャラクターや彼らの心の動きはすべて、
「いま映画の登場人物たちが
生きているのは非日常である」
ことの証左としてしか機能しておらず、
だからどこか胸に迫ってこない。
私がこの映画に寸分の共感も抱くことができず、
また「衝撃的」とも「リアル」とも、
また「できのいいエンタテインメント」
としても受け止められなかったのは、そのせいである。
住田がテープに吹き込んだ
告白を聴いた茶沢が住田を問い詰め、
自身の思い込みであったことを
知って安堵から涙を流す場面。
夜の街を徘徊する住田と、
半裸で配達ピザの受け取りをする女性との遭遇。
そして、バスの中で偶然に
出くわした殺傷事件という
“千載一遇の”場面において、
目的を達成することので
きなかった己に対する住田の絶望感。
原作マンガを読んだときには
あれほど心にせり上がってきた
「言葉にできない感情」の渦を、
この映画では経験することができなかった。