讃美歌と讃美歌21について、牧師さん(40才)と話した時に
📕「讃美歌を全て知っていますか?」
「いいえ。全部知ってる訳ではないです。」
📕「よく歌う讃美歌だから、みんなも知ってるのではないですか?」
↑
何か、この言葉に引っかかった。
その時には、違和感をおぼえましたが、よ~く考えると🤔
いや、違う❗️
何度も歌ってるからじゃない。
言わば、讃美歌のヒット曲❗️
たくさんの人が共感できたから、今まで何度も歌い、その都度
共感し歌い継がれて来たたものだ。
牧師さんは、21の中にも良い讃美歌があるから、それも歌って
もらいたいと、素直?に思っているのかもしれない。
でも、歌い継がれた讃美歌の歌詞は、そのまま使って欲しい。
賛美は、海外の方々もそうですが、日本では、潜伏キリシタン
の時代から戦時中、迫害を受け牢屋に入れられ、拷問を受け、
村八分になったりした人達の信仰の証しだと、わたしは思うのです。
そんな信仰の先達が守ってきたものは、
きっちり受け継がなければならない。
変えて良いものと、悪いものがあるのです。
賛美と信仰って、同じと思います。
だいたい、信仰の先輩方の信仰に比べ信仰が劣っている
わたしたちが、手を加えるなんてとんでもない❗️
若い人達にも親しみ易いように。
って、21は作られたそうですが、日キに若い人います?
若い人増えました?
讃美歌いじるより、トラクトを一枚でも配った方が、
伝道にならないかなぁ。
世界では、何冊も讃美歌が改訂され出てるそうですが、
それに負けじと出せば良いってものじゃない。
差別用語を変えるのは良いとしても。
でも、差別用語と云うけれど、わたしはそう感じない。
例えば新聖歌の
神なくのぞみなく の
われ知る かつては めしい なりしが🎵 の
めしい
これは、誰が考えても、心の目が開かれてなかった
という意味。
決して身体的な目の事を指してる訳ではない。
何か変な所に敏感。
小学生だった時、身体的な障害や、知的発達に遅れががある
子供の学級がありました。
普通?の学級との交流もありました。
だから、休み時間など外で遊ぶ時は、その子がいると、
みんなで、鬼ごっこしたりしました。
足が悪かった男の子でした。
だから、逃げるのが遅いので、その子にタッチ。
残酷な用ですが、差別してない。
鬼になって追いかけても、追い付けないから、
みんな近づく。で、誰かがまた鬼になる。
特別扱いする訳ではなく、それなりにみんな
遊んでました。
差別、差別って言ってる人ほど、
差別してるかも。
いろんな考えがあるでしょうが、
ここは、わたしの?ブログなので、
思った事を書いてます。
何かご意見があれば、メッセージで
お願いします。
キリスト教の中で争ってる?って、印象を
与えたくないので。
イエス様は、救い主です。
それぞれが、神様と繋がり
イエス様を知り、キリスト者になれて、本当に良かった🎵
って、思っています。
ただ、同じ神様を信じていても、思いには違いはあるので。
その違いが少しでも、縮まれば良いなと思います。
主よ、憐れみたまえ‼️