話が脱線するので、わたしの結論から書きます。

生きている間は、肉体がある以上完全な聖潔はないと思います。

 

何度でも罪を犯します。

 

キリスト教の罪は、皆さんご存じのとおり、この世の中の法律より、倫理的にももっと厳しい、心の罪です。

 

神様は、罪を忌み嫌われます。

だからこそ、わたしたちの罪のために、御子イエス様を十字架につけ、贖ってくださいました。

それは、人間を創造し、愛されたからです。

ご自身が創造された人間が、罪を犯した事に対する責任を、神様ご自身がおとりになられた。

 

わたしたちが、洗礼を受ける決心をした時、感謝と共に、それなりの覚悟があったはずです。

神様に従って歩みたい、神様に喜ばれたいと。

 

でも、多くの人がこんなはずじゃとか、洗礼を受ければ変わるはずとか思ってた人もおられたのでは?

 

そして、

われ聖なれば、汝らも聖なるべし。

に、引っかかった人は、次の?段階があるのではと?思って、聖潔られたいと願い、聖書を読みます。

聖潔をいただいたと言う人は、必ず、み言葉をいただいたと言われます。

この、み言葉をいただいたと言うのは、否定しませんが、自分に都合が良いと言うか、気持ちに合うような、み言葉を探す🔍️👓️ものです。

 

われ聖なれば、汝らも聖なるべし。

 

は、自分では、聖くなれるはずはないので、この、み言葉にも神様は責任をもって下さってます。

 

それは、聖霊を、送って下さり、今まで感じなかった罪を示してくださり、悔い改めに導いて下さっているのです。

 

毎日の悔い改めこそが、聖潔に繋がる。

 

と、わたしは思います。

 

主よ、憐れみたまえ‼️