他人をいじめる人生の結末

 「確証バイアス」とは自分の考えに沿う情報しか信じない心理です。香山さんによると、一度いじめや差別を始めるとやめられなくなるのは「いったん『自分たちは正しい』『守られている』という思いを味わうと『確証バイアス』により、異論を受け入れられなくなるからだ」といいます。自分がしているいじめや差別に根拠がなかったという事実を告げられても修正することができないのです。

《心理学でいう「確証バイアス」が働いて、自分のいったん信じたことを強化する情報しか取り入れなくなってしまうので。自分の気持ちにぴたっとはまるデマや陰謀論を聞くと、ほらやっぱりそうなんだ、と信じ込んでしまう。――香山リカ対談集「ヒューマンライツ 人権をめぐる旅へ」(発行:ころから)》

 このように他人をいじめたり差別し続けたりするとどうなるのでしょうか。香山さんは「他人を攻撃することで自分が満たされる錯覚を起こしてしまう」としたうえで「いじめたり差別したりすることでしか自分の安心感を得られない、自信を持てなくなってしまう。いじめや差別に依存した、自分では何も解決できない、やりたいこともできない人生を送ることになる」と訴えます。

 

                                                       live door news より

 

そうなんだ。自分の安心感が欲しいんだ。

 

相手との意見が合わない時、お互いにわかり合おうと思えば、共通しているところを探し出しそうとする。

そうしようと思わない人はその人の自由。

 

人それぞれ、主義主張、主観がある。

その人の主観がある人の(意見の違う相手の)客観でなければならない事はない。

 

例えば、イジメられた、傷ついたという人に対して、イジメタ側、傷つけた側の言い分は、

「そんなつもりはなかった。」「あれがイジメと言えるの?」

「あの程度で傷つく?」「第三者はどう思うかな?」なんて事を言う人もいる。

 

傷ついた、イジメられた。

それについて理路整然と説明しなければならないのでしょうか?

感情なんだから。全て、理性?で封じ込めることは出来ない。

と、わたしは思います。

 

感じ方、考え方、生まれつきの性格?与えられた環境、歩んできた道で違ってて当たり前。

 

それを、どこまで自分のものとして受け取るか、観想出来るかの問題のように思えます。自分が同じ立場だったらってね。

 

キリスト者で言えば、その人の中にイエス様を見つける?

 

書いてて一番難しいことを、感じ書いてしまった。

 

主よ憐れみたまえ‼️