こんばんは、昨日熱帯魚を一匹亡くなりました。っでですね、次の日何か俺に勇気持っての行動求められる状況有りました、って今日ですが。そうです、今日小さな親が子に対する暴力が有りました。

それは、一人の子を持つ親を巡る言葉の暴力なのですが、子供がショッピングモールの遊具で満足行く様に遊びたい旨の気持ち主張した時です、その時父親に当たる人の発言は身体的な暴力を示唆する言葉でした、あの時俺自身曲解するならば「ぶっ殺すぞ」と言う言葉を使っていると曲解する言葉遣いに思いました、それで俺その状況の中我ながらにですが勇気出しました。俺意見言いました、やはりこの様な発言は夫婦間で、話し合わないといけないと思い勇気出しました、その状況の中「俺の妻に何してる」と言われるリスク冒してもそれでも俺その小さい子の苦しみ優先にしましたよ、やはりこの問題は夫婦間で誰かが勇気を出して話し合わないといけないと思いました、言葉の暴力は裏の意味使ったとしても何処かで何か社会的に罰せられる日が来る事思ってやはりどうしてもこれその前に思ったのです。

我儘で叱らないとと言う気持ち分かります、でも言葉や身体で子供に暴力を与えても何も生まれないと俺感じました。子供は親の叱責を玩具の家に隠れて暴力から避難する様な光景に思いました、やはり俺思う事は時間を時間通りより早くでは無く時間が遅くなっても思い通りなら良いが心の寛容さでは無いですかね、暴力は何かに躓くと思います俺子供に凄んでいる親の光景に体震えましたでもその妻に当たる人に勇気を出して自分の意見必死に伝えました、でも俺の気持ちは何処かで有効的に何も生まないかも知れないけれども、一人の勇気の有る決断に賭けたいと思いました。

一つ言います、貴方は他人に攻撃的な言葉一見な内容でしましたか自分の子供に対して叱る面で相手が納得する叱り方しましたか、胸に手を当てて考えて下さい。大声でやれを叫んでも何も解決しません、それで人は心から動かない事を知らないと駄目なのです。人は必死に適切に理解される言葉を訴えています、それを無駄にするは駄目ですその始まりは思い通りに行かないと大声でかも知れませんね。人は気持ち伝える中で、思い通りに行かない事を屈服姿勢にしては後から自分に跳ね返る結末だと思います。怒鳴る事は人を思い通りにより行く様にする方法です殴る事もそうです、でもそれで人は思い通りに行くためにこうされたと叫びますそれは力の有る人に叱られるかも知れない結末です、力で自分の事実を型に嵌めても何も生みません、屈服は一時的な物で後から人から怒りの言葉を受けます。

体と心が弱った時は、やはり人は支える事を形にしないと駄目だと、俺は人生で思いました。