おはようございます8月19日二回目の投稿です、昨日放送大学大学院の試験結果の通知が来ました。

辛くも択一式を綯交ぜにした物質環境科学は辛くも合格ですが、しかし環境工学は対策の甲斐なく不合格でした。単位を取得しているので、放送大学大学院は中退するわけにはいかない気持ちです。けれども崖っぷち人生は何時終わりを告げるのか、分からない状況です。博士号取得への道は千里の道も一歩より遠いのは承知の上でしたが、また一歩遠い状況を理解する事と成りました。昨年は放送大学と縁のない一年でしたが、今年は1教科合格した事だけでも良かったとは思えません、晴れて2教科合格と伝えたかったのですが、それを皆さんに伝えられず残念です。

放送大学で何故博士号取得を志したのか、それはニコプチやJSガールに高年齢の人を比較的対象にした雑誌ではセブンティーン等の付録についての理系の概念が謎だらけだと思っているからです。その謎は自己流で解かなくてはいけません、だから学会に何時か必ず通用する物にしたいからです。けれども研究をするということが体に叩き付けていないという自己の問題が有って、俺のやっていることはただ解明するだけで研究に成っていないという自分だけのオリジナルでしかない物に成っているのです。やはり博士の学位を取得しないことには、自分の言質となる事を学会に伝えられないというのが基本の壁にぶつかったからです。確かに大学院に行かなくても、大学教授の地位を築いた人もいるのは知っていますし、高卒以下の学歴で大学の先生をやっている人もいる事は知っています。けれども大学の先生に成るのも(大学の教授に成るつもりは毛頭有りませんが)、研究職に就くのも博士号取得が義務と言っても過言ではないのです。そうで無い場合は、人を驚かせる凄い物を持たないといけないです。博士号を持たない大学の先生は、皆基本そういう人間だったのだと思っています。

俺が博士号を取得する頃には、40歳を超えているか30代が本当に終わりを告げようとする年に成るのかは定かではありませんが、まるで錦鯉や金魚の選別の様に合格出来る人が僅かな容赦ない入学試験を行う中で、二桁の人数の中から1人~数人しか合格出来ないというのが当たり前な中、俺はいかに生態学と関係ある分野を得意にしていくかが問われてくるのだと思います。天狗に成っては少し先の未来を見失ってしまいます、だから有頂天に成るとか天狗に成るということにはくれぐれも注意する精神を持った人生にしないといけません。

博士号は修士全科生に入学して放送大学で博士号を取る学生に入学したい旨を先生に伝えたら、絶望視する言葉を投げかけられる可能性は覚悟しています。特に「お前は何度も色々な科目を落として修士に入学も関の山だった、だから博士全科生にお前はついていける保証は無い」と言う様な、冷たい言葉を言われる事も有るかもしれない事は承知しています。それでもニコプチやJSガール等の研究を独自で行い、より多くの結果を得るには博士号取得が必要だという事は確かな事だと博士号取得者の方々は口を揃えて皆言っていました。

放送大学の研究を担当している先生に、相談すればもしかしたら辛口な言葉で絶望を与える言葉も存在しないとは言えない事は分かっていますが、しかしそれでもそうかも知れない事は分かっていても博士全科生合格を僅かな人数の中で勝ち取りたいと思っています。博士ばかりは、入学前に門前払いを軽く受けてしまう人が多いと他校では当たり前だという事を聞きます。中には「お前を修士迄面倒見よう、でも博士の進学は反対だ」と大学の教授に言われた人もいると聞きます。

こんな言い方をしてですが、こんな事をいっても不快な気持ちという感情を持たないで下さい。私は博士号を取得する上で、誰よりも高い能力を手に入れない日が来るのです。平たく言ってしまえば、より多くの人を超えないといけないという変な言い方をする事に成ってしまいますが、放送大学大学院博士全科生はそうであると認めた人しか入学を許可しないのだという状況なのです。僅か二桁の中から若干名しか合格出来ない道ですから、だから今の良い方は見下す良い方に成ってしまっているかも知れませんが、放送大学で博士取得を目指す場合はそう成らないといけない時期が来るのかもしれません。

力に溺れてではなく、やはりニコプチやJSガールから外来種の新リスト掲載の未来を変える所か、社会の人の心の闇より生まれ人の心を食らう者を打ち破る強力な武器に人の心や思想が物理や量子力学等の概念で出来ているかも知れない手掛りが有る事を白黒付ければそれの実現や、様々な事の問題解決の糸口も見付けられるのだと思っているからです。

長話ですが、まだまだ続きます言いたい事を聞いて下さい。絵画展の搬入日まで十日を切りました、それも上手く行くか不安です。国画展略して国展で失敗した苦い経験と結びついて、電車で一時間近く掛けて作品を持って来た事が骨折り損のくたびれ儲けに成ってしまった事もあり、岡崎市の美術展略して岡展でもそう成ってしまわないかを不安がっています。小さくも大きくも努力した事を相手の言葉と判断でも無駄に成りたくないですが、相手の判断で努力を無駄にされることは時としては仕方のない事も有るということを肝に銘じないといけません。言葉で努力を無駄にする事は個々の理屈ですからそれに対してこれは可笑しいと言えることばかりなのですが、しかし相手の判断は時としては団体や施設等が関わっているのであればそれを従うのは仕方のない事なのです。

重ね重ねにプレッシャーが俺を襲いますが、しかし今回は襲われたプレッシャーは逃げるでなく戦う義務が有るのです。