モンゴルだるま@モンゴル語通訳・エコツーリズム普及仕掛け人兼業遊牧民です。
今日は10月2日。モンゴル国にとっては、忘れてはいけない日のひとつです。
「90年代民主化のリーダー S.ゾリグの命日」


10.2 ゾリグ像前



ゾリグとはどんな人物だったのか?
モンゴル人民共和国の民主化を語るときに欠かせない、でも、ごく普通の控え目なモンゴル人の経済学者だった人です。

1989年、中国の天安門事件やベルリンの壁崩壊、ソ連のペレストロイカなど、共産主義国家の若者たちが立ち上がり、始まった民主化のうねりはモンゴルにも大きな変化をもたらしました。

まだネットも携帯電話もなく、もちろんSNSもなく、固定電話さえ引くのが大変で電話局まで申し込みにいかねばいけなかったその時代。

どこからどうやって始まったのか・・・モンゴルの若者たちの間に「自由と民主主義」を求める強いうねりが生まれました。

その時、いつの間にやらリーダー格になっていったのがS.ゾリグ。
当時27歳、モンゴル国立大学の経済学部で教鞭をとっていた、温和な性格の経済学者でした。

ゾリグ氏をリーダーとして勝ち取った民主化への経緯は「ホテル ウランバートル」というジャーナリスト・工藤美代子の著書でノンフィクション作品になっています。
ホテル・ウランバートル/宇佐美 博幸

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民主化したモンゴル国でその後、国会議員として民主連合の主要議員メンバーとなりました。

しかし、同時にスタートした「市場経済化」による流通・経済の混乱、「なんでもあり」の混沌とした無法地帯ビジネスや遅々として進まぬ民主化に苛立ち、会議に対して抗議のボイコットや奇行でセンセーショナルなニュースやマスコミの糾弾を受けることもありました。

でも、私があってお話していた時の印象では、一貫して、お金にクリーンで、モンゴルらしさを重点にした民主化・市場経済化政策を主張した、きわめて「まっとう」でウィットにとんだ「気骨のある」政治家さんでした。

本人は、民主化のリーダーと祭り上げられるよりも、経済学者として、実直で実質的な政治活動をして、モンゴルを経済的に発展させたい、と思っていたと思います。

1989年7月末。モンゴル人民共和国で初めて多党制の国会議員総選挙の投票が行われ、いわゆる「無血革命」が成立。とはいえ、当時の保守党・人民革命党の圧勝でした。

その後、2回の選挙があり、ついに1996年民主化勢力の民主連合が政権をとりました。
しかし、カシミア原毛の輸出自由化そのほか、長期展望のない経済政策により、モンゴル国はさらなる経済混乱に・・・民主連合政権は、何度も内閣改変を繰り返すことになりました。
そして、1998年10月1日 ゾリグは、一部の親しい人に、「首相候補に立候補する」という意をもらしました。モンゴルの民主化運動の種がまかれてからちょうど10年目のこと。

そして、翌10月2日。 同居していた妻の話によると、自宅に男女2人組が侵入。妻は縄で拘束され、ゾリグは暗殺されました。
主要な政治家の暗殺事件であるにも関わらず、いまだ、犯人は捕まらず、事件の真相は闇のままです。

民主化・市場経済化から25年あまりの年月が流れました。
ゾリグの暗殺事件によって、モンゴル国の発展は10年は滞るだろう、と当時言われました。
10年の停滞ですんでいるのだろうか?

今のモンゴルは、未曾有の経済不況の危機に陥っています。

経済成長率は1%を切り、景気回復の要素が見つけづらく、IMFの介入か、中国の支援を受けるかという選択を迫られています。

市場的には混乱し、冷え切っているのに、魔女狩りのようにマスコミをにぎわせているのは「パナマ文書」流出で露呈した、モンゴル人政治家や財閥のビジネスマンたちのオフショア口座の話ばかり。

庶民が経済不況にあえいでいても、富裕層は、外貨を上手に外国口座でまわして、財テクをし、さらなる富を肥やしている、の図。

経済学者でもあり、誰もが知恵と努力と工夫によって経済活動を営み、自由経済によってモンゴルを発展させていこう、と希望に燃えていたかつての民主化のリーダー・故ゾリグは、今のモンゴルの事態をどんな風に評価するのでしょうか?

ウィットにとんだブラックユーモアでどんな経済混乱、厳しい政情も適格に現状を指摘しつつも、「どこかに突破口はあるはず」と信じていたゾリグ氏。

ほんとに惜しい方を亡くしました。
事件の真相は闇のまま。
ゾリグ氏の冥福を祈ります。

そして、あの、純粋な愛国心と自由への渇望から始まったモンゴル民主化の熱い波を忘れてはいけない、と思うのです。