モンゴルだるま@モンゴル語通訳・エコツーリズム普及仕掛人兼業遊牧民です。

3.11
2011年3月11日。
日本の歴史が、日本人の生活が一変してしまってからもう4年の歳月が流れました。

一変してしまった・・・

日本の安全神話が崩壊した。
多くの人が命を落とした。
多くの人が愛する人を失った。
多くの人が住む家を失い、
多くの人が仕事を失い、
多くの人が故郷を失った。

仮設住宅生活を未だ余儀なくされている方も多いという。
被災地認定をされていなかったけど、おうちが全壊してしまった人もいて、そういう人は、今月末で、仮設住宅から出なくてはいけない、という。
まだ家をセミセルフビルドで建築中、とからからと笑ってた。

津波で多くの財産と多くの命が奪われ、
福島原発で多くの命と可能性と故郷が奪われた。

2020年、「お・も・て・な・し」で東京オリンピックの誘致を勝ち取ったニッポン。

オリンピック景気、と浮かれたいところだけれど、
でも、その費用をできることならば、被災地に回してほしいって思う。
あるいは沖縄の米軍基地の移転問題。最低でも県外、という言い出したのは民主党政権だった、とはいえ、民意は、Notへのこ埋め立てと、この前の選挙では出てたはず。

私の国は、いろんなものを奪われ、損なわれ、失った。
私は、当時、日本にいた多くの人が、突然の「ただごとならぬ地震」に脅かされ、津波であっという間に何もかもを失い、信じられないような状態で九死に一生を得たり、余震におびえたり、原発事故の現況報告がへんな形になっていたりしたのを、インターネットやニュースを通じて見ていた。

モンゴルの人たちから「日本が沈んでる。家族が無事かすぐ確かめろ」と言われたのですが、それでも私は信じられなかった。

神戸淡路大震災の時も、全然ぴんとこなかったのと同様に。
長田市に広がる火の海の中継を、何かの特撮か何かだと、卒論を仕上げたばかりのぼーっとした頭で見ていた。

あわてて家に電話をすると、みんな無事だった。
「あんたの机の上だけぐじゃぐじゃになってたわよ」と日ごろの整理がよくないことを叱られた。

福島原発の事故が大変だ、国が「ただちに危険はない」と言ってても、あぶないから、広島に帰って!と必死で訴えた。
それがダメならモンゴルに避難して!

悲痛な叫びであり、願いだったけど、両親は「どうせ、老人だから別に今更どっか動いてもしょうがない。ガソリンの調達だって大変だし、道中燃料不足でえんこしたって困るし。パスポートは期限切れだし、今からパスポートなんてとても手続きできる状況じゃないのよ」となんだか腹が据わってた。
揺れてないのか?と思ったら、「もちろん、揺れてるわよ。余震。もう慣れちゃった。でもすごかったわよ。おばちゃまを老人ホームに入居させる手続きして、屋外に出たら、ころがりそうになっちゃった。道路がうねってもうすごいの」とのこと。

星がよく見える広いベランダがある高層マンションを購入した友達のところは、地盤が液状化現象でぐじゃぐじゃになり、マンション全体が傾きかけている、けど、災害補償金みたいなものは一戸あたり150万円くらいだった、とか。

福島では被曝の心配があるような、ないような。
ほんとに大丈夫かどうかなんて、誰も正直なこと、わかってないと思う。

福島原発の事故100㎞圏内に3.11当時から数ヶ月以内に居住していた人は、全員、広島や長崎の「ヒバクシャ」みたいに医療費無償にして、モルモットとまでは言わないまでも、もろもろの健康状態についてのモニタリングをし、治療も国の費用でやるべきだと私は今でも思っている。

あの事故があった当時、私は思わず、この地震は日本全国が被災地だ、日本にいる人全員が被災者だ、と思った。
国が一丸となり、国民が一丸となって復興に取り組まなければ、とてもじゃないけど日本は立ち直れないかもしれない、でも、きっと私たちは、底力を出しまくって、きっと復興するだろうって信じてた。

そしてびっくりするくらいのスピードで日本は元気になった気がする。
でも、福島原発事故の詳細が明らかになるにつれ、日本政府とか東京電力とか「ゆるがない」はずだった存在が、とてもいい加減で嘘つきでめちゃくちゃで、責任逃れのとんでもないところだ、という不信感もつのっている。

どこの政党が政権をとっていたとしても、きっとその時とった対応が「正解」だったとは思えない。
それほどまでに原子力発電という技術は今の人間には「手におえない」存在なのだ。

その前後で日本の原発の廃棄燃料をモンゴルに埋め立てる、という風評もあったりした。

日本はどこまで無責任なんだ、と驚いた。

忘れてはいけない、というほどに私は痛みをもって、3.11を覚えていない。
まるで他人事のようで、おそろしいことだと思った。
とんでもないことだと思った。

モンゴルの人たちは、即座に行動し、最初の大きな地震があった後、MIATモンゴル航空ウランバートル発OM501 便=成田直行便の乗客はすべてキャンセルし、モンゴル国内で大災害があったときに被災地に送る救援物資を飛行機に積み込んで、成田でまつ乗客を迎えに飛んだのだった。

でもさすがに成田どころかどこの空港も受け入れができる状態ではなく3.11当日のOM501便はそのまま引き返すことを余儀なくされる。
それでも3.12にはOM501便は、再び、救援物資を積み込み、成田に降り立った。

それからしばらくの間、日本の被災地在住のモンゴル国籍の人が祖国への帰国を希望している場合は、緊急避難の手段として無料で飛行機を飛ばしていたという。
当時のモンゴル人留学生会会長は自分の華族を本国に送り返した後も、それこそ昼夜寝ることなく、同胞の避難その他の対応のために奔走していた、とFBで投稿していた。

その頃、私はモンゴル第二の都市・ダルハンの給水施設改善プロジェクトにかかわっていた。日本政府の無償援助プロジェクトだった。月曜日には、ダルハン水道公社の職員全員が給料の1-3日分を日本の被災地救援のための募金として赤十字社に送っていたという。
モンゴル国の関税収入NO.1を占めていたのが日本からの車両輸入税であったこともあり、モンゴル全国の全税関職員が給与一日分を義捐金にしたという発表があった。

モンゴルは日本を第三の隣国として、自分たちにできる精一杯を国家公務員が、国会議員が、一般企業の人たちが、みんな、給与の一部を義捐金として送ることを3.12(土)の緊急会議で即決していた。そのすばやさはまさに電光石火だった。

いろんな混乱があり、ガソリン待ちの行列に並んでいる間に車内で命を落とす人がいたりしたけれど、日本人は、どんなときでも弱い人を助け、行列・秩序を守り、パニックになっても、集団行動を乱さなかった、というのは未だにモンゴル人の間では語り草である。

東日本大震災の教訓はモンゴルでも生かされていて、災害の避難訓練や応急手当の教室、緊急事態のための備蓄などへの意識が高まりました。

3.11のとき、世界中から日本へと救いの手がのばされ、救援物資が送られました。
日本はひとりぼっちじゃないんだな、ととても安心したのを覚えています。

今の日本だったらどうなんだろ?

被災地は今でも全部、元通りっていうわけにはいっていない。
津波の被害にあった地域では、どこに家を建て直すか、まだ最終的に決定してないところも多いようです。

被災地を忘れない、のではなく、現状を見つめなおし、まだまだ支援が必要なところには、「あとは自分でがんばりなさい」じゃなくて、自分のこととして、被災地支援をしていかねばならないと思います。

もう4年じゃない、まだ4年です。
福島原発の事故処理なんか、あと数百年はかかるんじゃないでしょうか?
負の遺産を背負うことになった日本。
この現実からは逃げずに、背負い込むしかないと思っています。

時間で区切るのではなく、みんながほんとの意味で、あのとてつもない災害から立ち直るまで、「自分ごと」として何ができるか、もっともっと被災地の人たちの声を聴き、お互いの意見を交換し、触れ合うことが必要だと思います。

あの時のことを忘れない、じゃなくて、あの時のことをなかったことにはできないんだから、一緒に立ち上がるために何をすればいいのか?力になれることはなんなのか?

一緒に考え、応援し、分かち合うことが大切だと思います。

大切な命が失われたこと、ご冥福をお祈りします。

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