
モンゴルだるま@モンゴル国で独り暮らし歴10年です。
ブログネタの1人の時間がないとダメ?に参加しています。
100%自分ひとりでコントロールできる時間とスペースが確保できれば、大抵の世の中の嫌な事と上手につきあい、ストレスから解放できると感じるタイプです。

にほんブログ村皆と一緒にいるのも好きなんだけど。
日本での暮らしは、今現在にいたるまで、「自分の個室」というのを持ったことがありません。
ゲル暮らしのときも、円形1ルームなので、1人になれるスペースが家の中にありません。
学生時代の間に個室を持っていたのは、高校のときにアメリカの片田舎に交換留学で派遣されたとき。
このときは、個室を用意していただけました。といっても、基本的にファミリーの絆が強い中西部の一家にホームステイだったので、寝るときと宿題をやるとき以外は、皆でリビングルームにいることが多かった。
大学時代にモンゴルに留学したときは一応、留学生寮で個室をもらえていたけれど、やっぱり、先輩や後輩たちとワイワイしていることが多かったです。
そんなわけで、私が「1人の時間」や「自分のスペース」という自由を満喫できるようになったのは、モンゴルに移住してから。
独り暮らしは寂しい、と最初は思ってたのですが、これはなかなか快適!
生活の全てを自分のペースと好みで構築できるというのは、すごい自由です。
大体、私の同年齢・同世代ぐらいだと、普通は家庭をもって、子供の1-2人、場合によっては、4人ぐらい作っちゃっているものです。男でも女でも、ある程度、家庭を第一に考えるなり、家庭との両立ができるように仕事や趣味に取り組むっていうのが普通なんじゃないかな。
それはそれで、とてもほほえましく、うらやましいと思います。
ただ何度か、他人と暮らしてみて思ったのは、私は相当に独り暮らしが性にあっているということ。
基本的にだらしないところがあり、大雑把なので、綺麗好きなモンゴル人は私の暮らしぶりを見てるだけでイライラしちゃうみたいですし。
私は、NHKの日本語放送を楽しみにしているのに、大人の癖に容赦なく、モンゴル語の吹替えのアニメに夢中とかっていうことで、くだらない時間を過ごさねばならない、とかがイライラする。
あと食事です。私は自炊が好きだし、野菜中心でなるたけ、1日20品目、1600kcalまでのヘルシーな食生活を心がけているのですが、モンゴル人って、肉がなければダメだし、あっさり味はダメだし、野菜がいっぱいってだけで、変な食べ散らかし方をしてしまうと、食生活が全然合わない。
草原での生活だと、まぁ、よく動いているし、乳製品中心のシンプルさでも我慢できるというか、適応できるんですよ。
でも、自分の生活で自分が食べたくないものを作って、挙句の果てに、そういう栄養バランスが偏り、塩分高め、脂肪分、糖分高めのモンゴルメニューにつきあって、自分の体重が許容範囲以上に乱れるっていうのも我慢できない。
特に、春は、夏の旅行シーズンに向けて、減量に励む時期なので、どれだけ親しい人であっても、モンゴル人と一緒にいたくなかったりする。(仕事を一緒にするのはいいんだけど、それ以外のプライベートな時間にってこと)
今は、シーズン前で、特に外部からのクライアントさんの都合や時間にあわせて仕事をしなくてもいい、フリーな状況なので、これからの仕事の準備やツアーの事業計画などの構想のためにも1人で考える時間はいくらあっても足りないくらいです。
私は、「1人でも苦にならない」タイプなのですが、モンゴル人の皆さんは意外とそうではないらしく、3日ぐらい電話しない、会わないっていう状態だと、「飯を食いに行く」だの「風呂に入れろ(我が家はおっきなジャグジーなのだ)」とか妙なわがままを言いながら、ズカズカと荒れ果てた我が家に乗り込んでくるのです。
たまにはいいんだけどね・・・
やっぱ、ずっと一緒にいるっていうのはウザイわ。
1人の時間というのも大別すると2種類あります。
A;自分ひとりで仕事に没頭できる時間
B;自分を空っぽ(リセット)する瞑想の時間
この二つをバランスよく、日常生活に取り入れることが、他人とのコミュニケーションも発展的・建設的に行えると思います。
1人で仕事に没頭しすぎると、煮つまりやすいし、独りよがりに陥りやすい。
そこで、いろいろ野望をグツグツと煮えたぎらせたら、あとは、自分から野望を解き放つ。
つまりはBの瞑想の時間をもつことで、空っぽにしてみるのです。
いろんなクヨクヨする悩みや不安、イライラする焦りや不満、怒りや憤り、どうしようもない哀しみや絶望感といったものは、人間程度の差こそあれ、大なり小なりあるもの。
心の中に澱のようにたまりやすい感情です。
こういった感情の澱や煮詰まった野望などをいったん、リセットしてしまうと、結構、スッキリできる。
そして、1人で、リセットしてみると、大抵のことは、「ま、たいしたことじゃないや」と問題にも軽やかにむきあえるようになるのです。
モンゴル人とのつきあいは一筋縄ではいかないので、理不尽さを覚えたり、腹がたつことも多い。
「そりゃ、人としてどうよ?」っていう「ないわー」っていう「ありえない」っていう仕打ちに涙することだってあるのです。
でもね、なんだろう・・・
なんか続けることに意義があるというか、この継続の先に何かが見えてくるような気がしています。
FBで見つけた名言がありました。
多分、演劇か映画かなにかのオーディションのお話みたいなもののなかの一節なんだけど。
「したい人、10,000人
始める人、100人
続ける人 1人」
って言葉をシェアさせていただきました。
これ、いろんなことに当てはまる言葉だな、って思いました。
例えばね、モンゴルに遊びの旅行でいらっしゃる方が毎年10,000-20,000人くらいなんですね。
そして、モンゴルを好きになってくれて、通い詰めてくれる旅行者さんや、モンゴル語を習い始める方の割合は、大体100人ぐらいなんじゃないかな、と思う。
で、ずーっと生涯通い続けるとかモンゴルとのつきあいを続けていく人っていうのは、まぁ、10,000人に1人ぐらいなんじゃないかしらんと。
やりたいなあ、って考えるのは、わりと誰でもできちゃう。
じゃ、やってみよう、って始めることも、ちょっと勇気と勢いがあればできる。
でも、どんなことがあっても続けていこうって決意し、そしてそれを貫けるのは、ほんの一握りです。
ある意味、ちょっと一途にお莫迦さんで、いろんな犠牲とか苦難とかを「無駄」と思わずに貫けてはじめて「続けられる」んだと。
でね、何をするにせよ、「続ける」って意志を貫くカギは「自分ひとりでとことん考え抜いて決める」ってことだと思うんです。
例えば、恋愛にしたって、事業にしたって、悩みを誰か他人とシェアしたりして、気を楽にしたいって思うとする。
悩みの相談って大抵、自分が好きで、自分のことを好いていてくれる、信頼できる人や友達にうちあけますよね?私はそうだ。
でも、そういう「自分の味方」の人って、「私の心が軽くなる方向」や「私が楽になれる方法」っていうベクトルで話をすすめがち。
あるいは、私自身が「こうなったら楽なんだけど、私、間違ってないよね?」的に日和たい方向に同調してくれちゃう。
でも、結果的に、それが正解かどうかなんて、誰にもわからないんですよね。
だから、手放すにせよ、あきらめるにせよ、貫くにせよ、自分で決めるしかない。
自分の軸がぶれないってことが、異国で暮らしているときは特に大事だったりする。
私は会社から派遣されたり、誰かに頼まれてモンゴルにいるわけではないので、いつでも、好きなときに撤収することができちゃいます。
たいした事業を起こしたわけでもないし、特に、世間様の需要が高くて不可欠ってわけでもない、といえばそうともいえる。
だから、私が好きで、私がモンゴルに必要とされるだろう、誰かのためになるだろう、という信念で取り組まない限り、やってる活動の大部分は「メンドクサイ、無駄な努力」なのです。
兼業遊牧だって、周りの人たちにとっては、「素人が無駄遣いしちゃって」という「遊び」に見えるだろうし、まぁ、実際、「遊び=趣味的実験」であることも否めない。
まぁ、外野の雑音で心が惑いやすいのが、ベンチャー事業なのです。
ドライバー君たちにしたって、委託遊牧民にしたって、皆、心のどっかで、「めんどくせーなー」っていう部分があるはず。
迷惑かけているなぁ、ってクヨクヨしてしまうこともあるし、思うように収入が伸びず、かつ支出は想定外に膨らむとか、なんか「みんな、やる気ないなぁ。私が草原にいないと手を抜いてるでしょ?」ってギスギスと喝を入れたくなることもある。
まあ、そういうモヤモヤはしょうがないのです。
誰かと共有できるというものではない。
経営者って、どんな産業分野だって同じだと思うけれど、最終責任者=最高責任者ってことで、孤独を背負うってこともお役目の一部ですものね。
1人の自分を背負うためにも1人の時間のAとBを意識的に確保する。
それが、他人への恨みつらみのような悪感情を引きずらず、自分の信念を貫ける建設的で健全な思考回路の維持につながります。
テンションを上げるときと下げるときの調整ともいえますね。
ちなみに私にとって、1人の時間を過ごす最適な場所は、「トイレ」と「お風呂」であります。

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