通訳の仕事が終わり、ほっとしつつ、エコツーリズム推進プロジェクトのこれからを引き継ぐぞ!という立場で「翻訳」に関わることになった私としては、正念場はこれからです。
モンゴルだるまです。
今日は今年最後の新月ですね。
モンゴルでは、「冬の真ん中の月」であります。
これから寒さが本格的になるんですねー。
モンゴル本気の寒さを味わいたければ、「ユス(9)」という冬至の日をスタートに始まる極寒シーズン9x9の81日間がお勧めです。
9日で1旬として、最初の27日間は「若いユス」、その後、「壮年のユス」といって、寒さが骨身にこたえる感じでしばれ始め、ラストスパートで「老年のユス」となり、ツァガンサル(白い月)=正月を迎える。
月の動きと、太陽の動きを上手にとらえたモンゴルやチベットなどの遊牧民の暦の知恵には、学ぶところが大きいです。
で、モンゴル人遊牧民と恋に落ちちゃったリナさんからのご質問やCOCOさんからの文法徹底学習実践派の力強いコメントに気をよくして、「モンゴル語を学ぶ上で、なぜ文法学習が大事か」をざっくり考えてみました。
実は、私、大学に入るまでにモンゴル語をきいたこと、あったんですよね。
小学校のときの同級生に、外交官のお嬢様がおりまして、彼女が内モンゴル領事館とか駐モンゴル人民共和国日本大使を歴任したお父様と一緒にモンゴル、行ってたのです。
で、小学校6年間で、途中で出たり入ったりしてて、そのたんびに、いろんなギリ土産的鉛筆とかクラスメートに配布してくれて、その国の言葉なんかを教えてくれました。
だから、モンゴル語での基本挨拶が「サイン バイノー」だ、とか「1、2、3・・・10」までの数字とかは覚えていたのです。といっても、ぜーんぜん大学1年のときに、それらを知ってたからアドバンテージがあったかというと、そういうことはまったくなかったのですが。
モンゴル語の文法って、当時のご時勢でロシア語の言語学や語学学習法がそのまま踏襲される形で、さらにそれを日本語に直してるから、すごくわかりづらかったのです。
英語で文法を教えてくれてれば、こんなにこんがらなかったのに、っていうくらい。
「・・・の」というのが、英語だったら「所有格」って教わってたのが、モンゴル語だと「属格」っていわれる。ロシア語でなんで「生格」っていうかはわかるんだけど、モンゴル語では、うーん、そういう使い方だけじゃないじゃん!みたいな。
特に「造格」(-aap)とか「奪格」(-aac)
これらの使い方は実に使える範囲が広い。
文法体系を学ぶっていうのは、単純に教科書とか語学書に書いてあることを丸呑みにしなきゃダメってことじゃないんです。
私、この「まるのみにしなくていい」ってことを悟るまでは、モンゴル語文法がメタメタで、大学1年のときなんか、「このままじゃ進級できないよ」と夏休み終わった後のテストのあと、先生に呼び出しくらいましたから。
モンゴル語と日本語、基本的には語順などが似ているところがあるのですが、つきつめていくと、微妙に単語の並びがひっくり返ってたり、長い文章になると、日本語と同じように、主語・形容詞や形動詞などの修飾語・動詞を並べていくと、わけがわからなくなる。なので、意味を把握したあとで、モンゴル語らしく、切ったり、並べ替えたりしないといけない。
この辺の法則とか格助詞の使い方などが私もまだちょっぴり苦手で、10の文章があると2-3は、モンゴル人に「こうしたほうがいいんじゃないか」といわれたりもします。
でも、モンゴル人自身も30代くらいの人は日本語はべらべらでも、モンゴル語については綴りとか文法が微妙に怪しい。私の似たようなものです。
私のような外国人の場合、ある程度モンゴル語が話せれば、モンゴル人はとっても優しくしてくれます。
多少、間違えた言い方してても、意味を汲み取ってくれる。でも「あんた、間違ってるよ」とビシビシ訂正してくれる人はあんまりいないから、モンゴル人の中で生活してたり、仕事をしている人で、「モンゴル語がしゃべれます」とか「モンゴル語で資料を作ってる。」とか「モンゴル語の通訳することになりました」といってる人でも、「えー!そんなところで間違ってても、できるって言っちゃうの???」と驚愕せざるをえない人も相当います。
ある程度、仕事に慣れてきちゃって、モンゴル人との会話にも慣れてきてしまうと、かなり意識して、周りのモンゴル人に「ビシビシ、間違いは指摘してね」ってお願いしておかないと、ほんと、スルーされちゃいます。
そして、何が困るか、というと、公式文書とか、申請書とか、契約といった文書作成の際に、モンゴル語が微妙に間違えてて、その間違いが、自分の権益を著しく犯されることもあるのです。
ちょっとしたニュアンスの違いで人の心がすれ違うってこともあるのです。
悪気はないのに、自分が基礎をいい加減にしていたせいで損をするってこともあるんです。
「そんだけモンゴル語が上手にペラペラしゃべれるのに、これが間違いなわけがない」ってごり押しされるという恐怖。
実は2007年、モンゴル人共同経営者たちが私が融資してあげたお金や彼らの民間金融機関に預けていたお金を騙し取ったとき、まさにそういう言い方で私を脅し、絶望のどん底に突き落としたのです。
正確に情報伝達したり、真心をこめるためにも、モンゴル人と同じように文法を正しく、綴りを丁寧に確実に、誰が読んでも、誰がきいても誤解されない表現を使うってことは、モンゴルと真剣につきあうために大事なことだと思い知りました。
最低限とはいいません。
この正確なモンゴル語をマスターする、っていうのを最低限にしちゃうと、いつまでたっても、スタートラインにすら立てないから。
でも、単語は生活の必要性に迫られればいくらでも増やすことができます。
文法を抑えてないと、いくら単語をたくさん知っていても、ただ並べただけでは、正確に言いたいことが伝わってるかどうか、わかりません。
逆に、ぜーんぜんしゃべれなくても、文法さえキチンと修得しておけば相手の言うことはちゃんと理解することができます。
相手がいうことが理解できたら、その言い方を覚えてしまえば、そのうち自分でも使いこなせるようになります。
私の母親も18年前にモンゴル語を始めたときは、ぜーんぜんしゃべれませんでした。
でも、「文法だけ、しっかりやっておけば、絶対、使えるようになるから」って言っておいたら、、、
文学作品の翻訳、日本語の言葉の選び方はたぶん私より上手です。
ほんと、文法をコツコツやった人ってすごい。
しっかりやっとけ、といいながら、キリル文字の正字法とかちょっぴりいい加減で、いっつも母音を減らすとか増やすとかってところで、間違えちゃう私は、恥ずかしいんだわ。
あと、モンゴル語の文法、そして言葉の成り立ちを理解すれば、辞書に載ってない言葉に遭遇してもあわてなくてすみます。
そして、辞書に載ってない言葉、というのは世の中に沢山あふれかえっているもんなのです。
またモンゴル語-日本語、日本語-モンゴル語の辞書、いずれにしても、自然科学分野、つまりは動植物や鳥の名前とか、ほんといい加減で驚いちゃうのです。なんで、実物を確認してやらないの?
それに辞書には基本的な文法、つまり接尾辞とか動詞の変化形なんかは書いてあるけれど、実際に使える文章って載ってないものです。
会話集もしかり。
日常会話はあれやらこれやら載っているけれど、初めての観光旅行とか、限られたモンゴル人と一期一会みたいな、それこっきりの出会いに限定された交流なら使えるかもしれないけれど、本の通りに会話が進むことなんか、まずないのではなかろうか?
会話言葉にしても、心から話す言葉が、定型文ってこと、めったにないですからね。
だからこそ、本気でモンゴル人とつきあいたい人は、自分の本気、本音を相手に届けるためにも、自分の言葉で相手に伝えられる表現を身につける必要があるのです。
ひとつの文、言い方がひとつの表現、決まった文しかない、ってこともないのです。
TPOやニュアンスによって、微妙に違う。この微妙な違いって経験や話し相手との関係性で微調整していくものなのです。
ある意味、モンゴル語の文法研究って100年余り続けられているけれど、「これだ!」って全部を網羅した集大成って実はなくて、未だに日本でもモンゴルでも研究事業開発発展途上段階。
だからこそ、面白いんですよ。言葉って生きているから、その息遣いを文法という形で掬い取ること。
自分なりに論理的に考察し、体系化していくこと。
これはかなりのチャレンジ。
文法を学んでいますっていう人や、文法研究してる人は、逆に樹を見て森を見ていない、というか、意外と話すとつまらないというか発音とかしゃべり方とかがひっかかるなぁ、ってこともあります。でも、正確だからちゃんと言いたいことは根気よく聞いてくれる相手には伝わります。
逆に、モンゴルに長年住んでて、何人も、何年ものモンゴル人の恋人がいたり、配偶者がいても、モンゴル語自体は上達してない人も多い。相手とは長年一緒にいる仲良しだから、そんなに複雑なことを議論するってこともないだろうし、あんあん、ハンハンだけですんでるなら、それでもいいのかもしれない。
でも、真剣につきあうってことは、のっぴきならない衝突とか意見の食い違いも絶対避けられない。
付き合えば付き合うほどに、すれ違いが見えてくる。
このすれ違いや食い違いをどうやって乗り切るかっていったら、やっぱりとことん議論、話し合いをすることです。
根本的な問題を解決せずに、あんあん、はんはんで臍から下の合体とか、チューとか、おっぱいとかでなし崩しにしていると、結局、何度でも同じことでゴタゴタしなきゃいけない。
いつも議論っていうのはお勧めしません。
この議論というのは、頭を使うので、ここぞ、という勝負時の切り札です。
切り札なんだから、出す限りは、ちゃんと自分が目指す方向で機能してもらいたい。
だからこそ、切り札を切り札として使うための日ごろの努力や底力の構築は怠ってはいけないのです。
でもね、自分が我慢できる、「ま、いっか」って思えることならば、私たち女性がまぁ、いっかでスルーしておくのも、男女の関係の持続的発展で大事なことですよね。
モンゴル人には、「相手に譲歩」とか「相手の気持ちを汲んで許容」とかっていうスペックがついている人は希少種ですから。
文法を正しく使って、自分の思い通りの文章を作ることができるようになれば、もともと日本人は論理的思考をすることに慣れていますから、モンゴル人とつきあう上では、かなり対等に遠慮なく、堂々とぶつかっていけるし、議論で論理勝ちできるのです。
ジャイアン理論を押し付けてくる人たちに勝つためには、のらりくらりしつつも自分のゴールに話を導いていくための論理的思考とそれをリードしていく言葉が武器になるのです。
だから相手に誤解されないためにも文法、しっかりやっときましょう。
単語を増やすためには「エネ ユー ウエー(これはなんですか?)」で指差ししてけば、がんがん増えます。
実際、私だって、初めてのものに遭遇したときは「エネ ユー ウェ」で情報、仕入れてますから。
それに、会話集の例文を丸暗記するよりも、基本文法のほうが数は圧倒的に少ないから、覚えやすい、、、と考えてみれば、なんとなく、文法に対する苦手意識、なくなるんじゃないっすか?
人間関係でも語学学習でも、一日にして成らず。
日ごろの地道な努力と愛情、思い入れが結果を生み出してくれるのです。
リナさんだけじゃなくて、たぶん、恋愛って語学学習のモチベーションとしては相当、高いと思います。
がんばってくださいませ。
モンゴルだるまです。
今日は今年最後の新月ですね。
モンゴルでは、「冬の真ん中の月」であります。
これから寒さが本格的になるんですねー。
モンゴル本気の寒さを味わいたければ、「ユス(9)」という冬至の日をスタートに始まる極寒シーズン9x9の81日間がお勧めです。
9日で1旬として、最初の27日間は「若いユス」、その後、「壮年のユス」といって、寒さが骨身にこたえる感じでしばれ始め、ラストスパートで「老年のユス」となり、ツァガンサル(白い月)=正月を迎える。
月の動きと、太陽の動きを上手にとらえたモンゴルやチベットなどの遊牧民の暦の知恵には、学ぶところが大きいです。
で、モンゴル人遊牧民と恋に落ちちゃったリナさんからのご質問やCOCOさんからの文法徹底学習実践派の力強いコメントに気をよくして、「モンゴル語を学ぶ上で、なぜ文法学習が大事か」をざっくり考えてみました。
実は、私、大学に入るまでにモンゴル語をきいたこと、あったんですよね。
小学校のときの同級生に、外交官のお嬢様がおりまして、彼女が内モンゴル領事館とか駐モンゴル人民共和国日本大使を歴任したお父様と一緒にモンゴル、行ってたのです。
で、小学校6年間で、途中で出たり入ったりしてて、そのたんびに、いろんなギリ土産的鉛筆とかクラスメートに配布してくれて、その国の言葉なんかを教えてくれました。
だから、モンゴル語での基本挨拶が「サイン バイノー」だ、とか「1、2、3・・・10」までの数字とかは覚えていたのです。といっても、ぜーんぜん大学1年のときに、それらを知ってたからアドバンテージがあったかというと、そういうことはまったくなかったのですが。
モンゴル語の文法って、当時のご時勢でロシア語の言語学や語学学習法がそのまま踏襲される形で、さらにそれを日本語に直してるから、すごくわかりづらかったのです。
英語で文法を教えてくれてれば、こんなにこんがらなかったのに、っていうくらい。
「・・・の」というのが、英語だったら「所有格」って教わってたのが、モンゴル語だと「属格」っていわれる。ロシア語でなんで「生格」っていうかはわかるんだけど、モンゴル語では、うーん、そういう使い方だけじゃないじゃん!みたいな。
特に「造格」(-aap)とか「奪格」(-aac)
これらの使い方は実に使える範囲が広い。
文法体系を学ぶっていうのは、単純に教科書とか語学書に書いてあることを丸呑みにしなきゃダメってことじゃないんです。
私、この「まるのみにしなくていい」ってことを悟るまでは、モンゴル語文法がメタメタで、大学1年のときなんか、「このままじゃ進級できないよ」と夏休み終わった後のテストのあと、先生に呼び出しくらいましたから。
モンゴル語と日本語、基本的には語順などが似ているところがあるのですが、つきつめていくと、微妙に単語の並びがひっくり返ってたり、長い文章になると、日本語と同じように、主語・形容詞や形動詞などの修飾語・動詞を並べていくと、わけがわからなくなる。なので、意味を把握したあとで、モンゴル語らしく、切ったり、並べ替えたりしないといけない。
この辺の法則とか格助詞の使い方などが私もまだちょっぴり苦手で、10の文章があると2-3は、モンゴル人に「こうしたほうがいいんじゃないか」といわれたりもします。
でも、モンゴル人自身も30代くらいの人は日本語はべらべらでも、モンゴル語については綴りとか文法が微妙に怪しい。私の似たようなものです。
私のような外国人の場合、ある程度モンゴル語が話せれば、モンゴル人はとっても優しくしてくれます。
多少、間違えた言い方してても、意味を汲み取ってくれる。でも「あんた、間違ってるよ」とビシビシ訂正してくれる人はあんまりいないから、モンゴル人の中で生活してたり、仕事をしている人で、「モンゴル語がしゃべれます」とか「モンゴル語で資料を作ってる。」とか「モンゴル語の通訳することになりました」といってる人でも、「えー!そんなところで間違ってても、できるって言っちゃうの???」と驚愕せざるをえない人も相当います。
ある程度、仕事に慣れてきちゃって、モンゴル人との会話にも慣れてきてしまうと、かなり意識して、周りのモンゴル人に「ビシビシ、間違いは指摘してね」ってお願いしておかないと、ほんと、スルーされちゃいます。
そして、何が困るか、というと、公式文書とか、申請書とか、契約といった文書作成の際に、モンゴル語が微妙に間違えてて、その間違いが、自分の権益を著しく犯されることもあるのです。
ちょっとしたニュアンスの違いで人の心がすれ違うってこともあるのです。
悪気はないのに、自分が基礎をいい加減にしていたせいで損をするってこともあるんです。
「そんだけモンゴル語が上手にペラペラしゃべれるのに、これが間違いなわけがない」ってごり押しされるという恐怖。
実は2007年、モンゴル人共同経営者たちが私が融資してあげたお金や彼らの民間金融機関に預けていたお金を騙し取ったとき、まさにそういう言い方で私を脅し、絶望のどん底に突き落としたのです。
正確に情報伝達したり、真心をこめるためにも、モンゴル人と同じように文法を正しく、綴りを丁寧に確実に、誰が読んでも、誰がきいても誤解されない表現を使うってことは、モンゴルと真剣につきあうために大事なことだと思い知りました。
最低限とはいいません。
この正確なモンゴル語をマスターする、っていうのを最低限にしちゃうと、いつまでたっても、スタートラインにすら立てないから。
でも、単語は生活の必要性に迫られればいくらでも増やすことができます。
文法を抑えてないと、いくら単語をたくさん知っていても、ただ並べただけでは、正確に言いたいことが伝わってるかどうか、わかりません。
逆に、ぜーんぜんしゃべれなくても、文法さえキチンと修得しておけば相手の言うことはちゃんと理解することができます。
相手がいうことが理解できたら、その言い方を覚えてしまえば、そのうち自分でも使いこなせるようになります。
私の母親も18年前にモンゴル語を始めたときは、ぜーんぜんしゃべれませんでした。
でも、「文法だけ、しっかりやっておけば、絶対、使えるようになるから」って言っておいたら、、、
文学作品の翻訳、日本語の言葉の選び方はたぶん私より上手です。
ほんと、文法をコツコツやった人ってすごい。
しっかりやっとけ、といいながら、キリル文字の正字法とかちょっぴりいい加減で、いっつも母音を減らすとか増やすとかってところで、間違えちゃう私は、恥ずかしいんだわ。
あと、モンゴル語の文法、そして言葉の成り立ちを理解すれば、辞書に載ってない言葉に遭遇してもあわてなくてすみます。
そして、辞書に載ってない言葉、というのは世の中に沢山あふれかえっているもんなのです。
またモンゴル語-日本語、日本語-モンゴル語の辞書、いずれにしても、自然科学分野、つまりは動植物や鳥の名前とか、ほんといい加減で驚いちゃうのです。なんで、実物を確認してやらないの?
それに辞書には基本的な文法、つまり接尾辞とか動詞の変化形なんかは書いてあるけれど、実際に使える文章って載ってないものです。
会話集もしかり。
日常会話はあれやらこれやら載っているけれど、初めての観光旅行とか、限られたモンゴル人と一期一会みたいな、それこっきりの出会いに限定された交流なら使えるかもしれないけれど、本の通りに会話が進むことなんか、まずないのではなかろうか?
会話言葉にしても、心から話す言葉が、定型文ってこと、めったにないですからね。
だからこそ、本気でモンゴル人とつきあいたい人は、自分の本気、本音を相手に届けるためにも、自分の言葉で相手に伝えられる表現を身につける必要があるのです。
ひとつの文、言い方がひとつの表現、決まった文しかない、ってこともないのです。
TPOやニュアンスによって、微妙に違う。この微妙な違いって経験や話し相手との関係性で微調整していくものなのです。
ある意味、モンゴル語の文法研究って100年余り続けられているけれど、「これだ!」って全部を網羅した集大成って実はなくて、未だに日本でもモンゴルでも研究事業開発発展途上段階。
だからこそ、面白いんですよ。言葉って生きているから、その息遣いを文法という形で掬い取ること。
自分なりに論理的に考察し、体系化していくこと。
これはかなりのチャレンジ。
文法を学んでいますっていう人や、文法研究してる人は、逆に樹を見て森を見ていない、というか、意外と話すとつまらないというか発音とかしゃべり方とかがひっかかるなぁ、ってこともあります。でも、正確だからちゃんと言いたいことは根気よく聞いてくれる相手には伝わります。
逆に、モンゴルに長年住んでて、何人も、何年ものモンゴル人の恋人がいたり、配偶者がいても、モンゴル語自体は上達してない人も多い。相手とは長年一緒にいる仲良しだから、そんなに複雑なことを議論するってこともないだろうし、あんあん、ハンハンだけですんでるなら、それでもいいのかもしれない。
でも、真剣につきあうってことは、のっぴきならない衝突とか意見の食い違いも絶対避けられない。
付き合えば付き合うほどに、すれ違いが見えてくる。
このすれ違いや食い違いをどうやって乗り切るかっていったら、やっぱりとことん議論、話し合いをすることです。
根本的な問題を解決せずに、あんあん、はんはんで臍から下の合体とか、チューとか、おっぱいとかでなし崩しにしていると、結局、何度でも同じことでゴタゴタしなきゃいけない。
いつも議論っていうのはお勧めしません。
この議論というのは、頭を使うので、ここぞ、という勝負時の切り札です。
切り札なんだから、出す限りは、ちゃんと自分が目指す方向で機能してもらいたい。
だからこそ、切り札を切り札として使うための日ごろの努力や底力の構築は怠ってはいけないのです。
でもね、自分が我慢できる、「ま、いっか」って思えることならば、私たち女性がまぁ、いっかでスルーしておくのも、男女の関係の持続的発展で大事なことですよね。
モンゴル人には、「相手に譲歩」とか「相手の気持ちを汲んで許容」とかっていうスペックがついている人は希少種ですから。
文法を正しく使って、自分の思い通りの文章を作ることができるようになれば、もともと日本人は論理的思考をすることに慣れていますから、モンゴル人とつきあう上では、かなり対等に遠慮なく、堂々とぶつかっていけるし、議論で論理勝ちできるのです。
ジャイアン理論を押し付けてくる人たちに勝つためには、のらりくらりしつつも自分のゴールに話を導いていくための論理的思考とそれをリードしていく言葉が武器になるのです。
だから相手に誤解されないためにも文法、しっかりやっときましょう。
単語を増やすためには「エネ ユー ウエー(これはなんですか?)」で指差ししてけば、がんがん増えます。
実際、私だって、初めてのものに遭遇したときは「エネ ユー ウェ」で情報、仕入れてますから。
それに、会話集の例文を丸暗記するよりも、基本文法のほうが数は圧倒的に少ないから、覚えやすい、、、と考えてみれば、なんとなく、文法に対する苦手意識、なくなるんじゃないっすか?
人間関係でも語学学習でも、一日にして成らず。
日ごろの地道な努力と愛情、思い入れが結果を生み出してくれるのです。
リナさんだけじゃなくて、たぶん、恋愛って語学学習のモチベーションとしては相当、高いと思います。
がんばってくださいませ。