お店をでるとき「ごちそうさま」って言う? ブログネタ:お店をでるとき「ごちそうさま」って言う? 参加中
1歳ぐらいの頃から、ご飯が人生最大の楽しみでした。楽しみであり、感謝の心で満たされるご飯の時間が幸せでした。日本語には「いただきます」「ごちそうさま」というとても美しい、翻訳しがたい挨拶があります。

「いただきます」には、感謝と敬意と祈りがこもっています。食材となったものの命、食材調達に関わった人たちの労力、食事を作ってくれた人、サーブしてくれた人への感謝と敬意をこめて、「これから美味しくこのご馳走をいただかせていただきます」というお礼の挨拶としての「いただきます」なのです。これに、「今日、この日の糧を与えていただいたことへの主への感謝。」なんかも含まれるんだけど、別になにか特定の信仰がなくたっていいんです。
「今、この料理を食すことができる幸福」への感謝があれば、料理の出来・不出来に関わらず美味しくいただくことができるのです。

そして、「ご馳走様でした」って空っぽになったお皿や器に手を合わせることで、その料理が自分の血となり肉となり、心を美味しいものを食べた幸せで満たしてくれるのを実感します。

ただ「ご馳走さまでした」っていうのではなく、このとき、手を合わせ、ほんとにおなかが膨れた胃袋を実感して「ご馳走様でした」っていう時、ほんとニンマリしたくなるくらい幸せな食事時間であったと感じられるのです。

モンゴル国では、(内モンゴルはよく知らん)家庭内でも外食でも「いただきます」「ご馳走様」をいう習慣がありません。

そもそもゲルという狭い円形空間では、日本のように「料理のお皿がいろいろ並んだ食卓を囲んで一家団欒」なんてことはない。ワンディッシュ料理を、家長、年上のゲスト、年功序列で家族、、、と順々に配り、料理を配られた人からおもむろに食べる。
ご馳走様っていうのも特になくって、お茶のんで、一家の主婦が食べ終わった皿を回収して食事、終わり、って感じであっさりしています。ホスト側のモテナシの挨拶とかシキタリはいろいろありますが、ゲストは、ほんと「気を使わない」ってことが礼儀っていうくらいあっさりしている。

外食では、21世紀に入ってから、とってつけたように給仕係が「サイハン ゾーグローロェ(Сайхан зооглоорой) 」(よいお食事をお召し上がりください、みたいな意味)というようになりまして、どうも、これが日本語の「いただきます」にあたる、とモンゴル人に思われている節がある。

つまり、一緒に食卓を囲んでいる人同士の挨拶、みたいな。。。

モンゴル人同士だってもちろん、敬意を払いあったりはしているし、厳密にいえば、とても事細かな、また奥深い人間関係を円滑にするためのコミュニケーション術が伝統的にあり、それは今日にも潜在的にも、慣習的にも存在しています。

でも、旧共産圏は・・・ってよく言われちゃうんだけど、どうも「サービス」っていうもののベクトルが自分の意識しているものとずれている気がするのです。

私はモンゴルと日本を繋ぐ架け橋的な役割を果たしつつ、エコツアーだったり、ODAなどの国際協力だったり、取材手配だったりをしたりしているわけですが、いずれにせよ、コミュニケーションが要になるのです。

特に、「食事」は自分が食べることが好きだ、という以外に、「気持ちよく楽しく朗らかに過ごせないと、とても残念な気持ちになる」経験なわけで、一般的に、普通の客的に外食サービスを利用すると、「残念な気持ち」になって、消化に悪く、また、なんだか食事を損した気がしちゃうことも多い。

それは、一緒に食事をした人が、その店での食事を楽しんでなくて、美味しいとも思えずに、食事を終えてしまった、っていうのが要因だったりする。

なので、私はできる限り、「私と私のお客様」が気持ちよく、朗らかに食事を楽しめるお店を発掘するように日々、心がけています。

店の雰囲気やメニューはもちろん、一番大事なのが、マネージャーさんと給仕係を味方につけること。

最初から気持ちよく食事を終えられる店なんて、皆無に近い。
サービス業がまだまだ発展途上中のモンゴル国では仕方が無いことです。

そして、私は日頃は自宅自炊でエンゲル係数を極力抑えることを目指す清貧生活を好むため、「常連さん」になれる店は少ないのです。

でも、私はわりと2回目以降利用したお店で、「常連さん」や「上客(VIP)」的な扱いを受けられるのです。

給仕係にチップを渡したところで、毎回その人がサーブしてくれるとは限らぬ。

ただでさえ、食事の美味しさ・カロリーの高さと料理の値段は比例しているのです。
庶民の自分が背伸びをして、勝ち組外国人的に振舞っても、おちつかないだけです。

食事をしに来た客を「値踏み」できるほど、外食産業のホールスタッフたちの観察眼もないのです。

だからこそ、チャンスは誰にでも平等にあるのです。日本人に生まれたことを感謝しなくちゃね。

それが「ご馳走様でした」という挨拶を心をこめてすることなのです。
この食事の〆の言葉は、サービス業の醍醐味に対する感性が未発達のモンゴル人の心に、小さな波紋を広げ、印象づけることができる魔法の言葉です。

また「ご馳走様でした」と手を合わせて満足気に言えば、たいした料理じゃなくても、「そういえば、美味しかったかな、楽しかったかな。」という気になってくるのです。

元来、モンゴル人は感情を表に出さないけれど、実はとっても感情的な民族です。
庶民度が上がれば上がるほど、その傾向は強い。

だからこそ、この「ご馳走様でした」とにっこり笑顔で心底、食事を楽しめたことを感謝しているという雰囲気をつくってしまえば、モンゴル人には印象的なのです。
褒められるのが大好きな、「自分大好き」人間が多いし、「ちょっと良いレストラン」や「おしゃれなカフェ」などで働いている若者は特に、ジェンダー意識とか、立身出世や経済的成功を目指している人が多いので、「感謝される」というのは、彼らにとっても、よい刺激であり、奨励になるのです。

ちょっとでもムカつくサービスがあると、私は「マネージャーを呼んでくれ」作戦に出ます。
これは、「ムカついた」ことをマネージャーに伝えるためではなく、「次回に気持ちよく食事をしたいから、改善したらどうでしょう?」っていうリクエストをするためです。

気取るわけではないけれど、私は料理の値段が高いという店はあまり知りませんが、サービスや心遣いが最高級、というお店で「特別客扱い」されるという経験を10代、20代ぐらいの多感な時期にする幸運に恵まれました。

これは人生の幸運に感謝するっきゃないって感じなんだけど。

特に、人生の師匠・写真家の高橋昇さんのおかげで、いろんな意味で「ソフィスケイテッド」ってどういうことかを覚えることができました。
お店の人とのコミュニケーション、お店がこだわるサービスや粋な演出の味わい方、評価の仕方、料理を堪能し、楽しく食事をするためのテクニック・・・
経験しないとわからないこと一杯ありますよね。

モンゴル人は残念ながら、給仕係が「最高のサービスを受ける」チャンスに恵まれることってなかなか無いんです。だからこそ、「サービスをすることで味わえる喜び」みたいな幸福感に味わえるチャンスが大事なのです。

私は「ご馳走様でした」という言葉には、お店の人たちへの感謝とエールをこめています。
「あれこれのサービスが良かった。楽しい食事の時間をありがとう。また来たときはよろしくね。」みたいなことを店を出るときに給仕係のチーフやマネージャーに一言かけてから去る。

お金に余裕があったら、チップとかって出せるとかっこいいんだろうけれど。

でも、意識がちょっとでも高いマネージャーさんは、これだけで私のことを覚えてしまう。
そして、私に対するサービスっていうものを意識的にするようになる。
この意識的にする給仕っていうのがサービス向上、心地よい食事時間に繋がるのです。

食事を「美味しい」「まずい」だけで評価してしまうと、モンゴルでほんとに美味しいご馳走のお店を探すのはとても大変。
だけど、「気持ちのよい食事時間が提供されるそこそこのお店」は、自分の心がけ次第で、いくらでも増やすことができるのです。

「ご馳走様でした」は、ただの挨拶ではなく、コミュニケーションを円滑に爽やかにし、さらにモンゴルの「仏頂面サービス」から逃れるための、マジカルワードとなっています。

これは、世界どこでも万国共通かもしれません。

外食における料理の美味しさは、店の雰囲気・ホールスタッフのホスピタリティやマナー・料理の出来、一緒に食べる人とのコミュニケーションなどの総合的な食事時間をいかに楽しく、充実して過ごすかってことだと思っています。

ゆえに、モンゴルホライズンがゆく旅行先のガイドさん宅やツーリストキャンプ、遊牧民の家などはどこでも「いただきます」と「ごちそうさま」が浸透しています。日本語起源の外来語として、モンゴル人同士でも使ってたりするのです。

日本の習慣を押し付けたりするのは、面白くないし、傲慢な気がするけれど、この感謝と敬意のやりとりである挨拶は、モンゴルでは「言葉にしないありがとう」として潜在的にあったものが「言葉」として定着したってことで、それが私が伝えた日本語であることを嬉しく思うのです。

「ご馳走様でした」は、モンゴルでは次回に自分がうけるサービス向上のための「殺し文句」と考えて、ガンガン使っていったらよいと思います。

あ、もちろん、「お1人様」の食事、自炊のときでも、私はやっぱり、「いただきます」と「ご馳走様でした」は言ってます。食事を通じて繋がる感謝のパワーって、将来的な「くいっぱぐれ」予防にも効果があるんじゃないかな?