雨降りの日は読書に最適ですね。
晴れてても、気持ちがInsideなときは、本をむさぼっているモンゴルだるま@一時帰国幸せタイムです。
モンゴルで起業して8年余りがたちました。
でも、考えてみると、「モンゴルで日本人が「こうしてほしい」「こんなことしたい」という思いを実現するサポートは私の天職だ!」とひらめいたのは、2001年の夏なのでした。
フジテレビの企画で、椎名誠さんが西表島の小学6年生と一緒にモンゴルに行って、「浮き玉野球」をモンゴル人の子供たちと一緒にやったり、遊牧民の家庭にホームステイしたりするっていうドキュメンタリー番組がありまして、私はその現場での制作と実景(子供たちが絡まないモンゴルの自然を紹介するための別動部隊)班のディレクターとしてロケに参加しました。
まぁ、その時の現地コーディネーターの仕切りがとても悪く、かつ取材費のぼったくりでねぇの、、、という感じで、かなり緊張感とロケスタッフのモンゴル側に対する不信感が漂い、結構大変だったんですね。
私も天然ボケというか、モンゴルの実際の事情をわかっていたし、制作というのは、ロケがスムーズ、かつコスト節約で進めるための交通整理と手配をしていくのが役目なのですが、モンゴル側のコーディネーターが「そんなのはできない」とか「それをするためには、いくらかかる」と現場で行ってくる話が、「えー、じゃ彼らにできないんだったら、私、手配しますよ」と親切心というか、ロケ遂行の使命感でちゃっちゃかなんの問題もなくやってしまっては、コーディネーターに顰蹙をかってしまっていたのです。
なぜ、コーディネーターが怒ったか?
それは、「自分しかできない」とクライアントたちに思い込ませることで莫大な利益を得ていたから。
小娘みたいな私にできるわけがない!ってたかをくくって意地悪してたら、昔の人脈であっさりロケ実現できちゃってたため、ボロがでた!!と思いこんだのでした。
私としては、コーディネート費としてグロス(ロケ費一括支払い)で前払いされちゃってるのだから、予算内におさめてあげれば、コーディネーターにとっても得だし、ロケ隊にとっても、必要な映像が撮れるのだから、当然のこと、と思ってたんだけど・・・都会のモンゴル人って意外とプライドが高く、自分が動かないくせに「領域を侵された」って怒っちゃう人、いるんですよね。
これは私の若気の至りだったなぁ。
もうちょっと、モンゴル人といえど、わりと料簡が狭い人もいるってことを想定して、物事を進めるべきだったなぁ、って今なら反省できるんだけどね。。。
まぁ、当時は、とにかく製作費をおさえつつ、私の直接のクライアントである制作会社さんのモンゴルでやりたい!っていうことは全て実現したわけですが、、、
この時、ひらめいたのです。
市場経済化、民主化して、モンゴル国で外国人ができる活動の幅はかなり広がっているんじゃないか?
もっと直接的に外国人だからこそ、働きかけたり、つなげられるネットワークもあるんじゃないか?
で、モンゴルから帰ってすぐに、当時契約更新時期がきていた制作会社から独立し、モンゴルで起業することにしたのでした。
その準備期間を含めると、10年目なんですね、今年。
10年ひと昔、といいますが、起業した当初に比べると、日本人資本や日本人がらみの同業他社がモンゴルにも随分増えました。
小手先でやってきたわけじゃないから、自分のクオリティや人脈には自信はありますが、でも、もっと幅広く、そして、同じように日本とモンゴルの懸け橋になることを目指している人たちと連携していくことも大事なんだろうな、なんて思うようになりました。
日本政府や国連などの国際機関によるODAプロジェクトの通訳としてかかわってきた20年、草分け的にモンゴルに乗り込んできた企業さんのモンゴルプロジェクト最初の交渉のお手伝いをしたり、自分自身が起業したり、国際交流、草の根交流の懸け橋になってきた経験、旅行のガイドや企画手配、アドバイザーとして過ごした年月、、、こうした蓄積はかなり大きいし、私はもっともっと活用していかなきゃいかんなぁって。
当たり前のことで、毎日、頭や心のどこかにあった課題なんだけど、雨音を聞いているうちに、そのビジョンが明確になってきました。
動かないことっていうのも大事なこと。
立ち止まって振り返ったり、足元を見つめなおすっていうのは、停滞ではなく、必要な時間なんですね。
忙しく仕事に追われていたら、雨音なんかぼーっと聞いてられなかった。
だから、仕事モードになれないこんな精神状態のときのほうが、仕事にとって大事なカギを見つけられるようになってるんだな。
晴れてても、気持ちがInsideなときは、本をむさぼっているモンゴルだるま@一時帰国幸せタイムです。
モンゴルで起業して8年余りがたちました。
でも、考えてみると、「モンゴルで日本人が「こうしてほしい」「こんなことしたい」という思いを実現するサポートは私の天職だ!」とひらめいたのは、2001年の夏なのでした。
フジテレビの企画で、椎名誠さんが西表島の小学6年生と一緒にモンゴルに行って、「浮き玉野球」をモンゴル人の子供たちと一緒にやったり、遊牧民の家庭にホームステイしたりするっていうドキュメンタリー番組がありまして、私はその現場での制作と実景(子供たちが絡まないモンゴルの自然を紹介するための別動部隊)班のディレクターとしてロケに参加しました。
まぁ、その時の現地コーディネーターの仕切りがとても悪く、かつ取材費のぼったくりでねぇの、、、という感じで、かなり緊張感とロケスタッフのモンゴル側に対する不信感が漂い、結構大変だったんですね。
私も天然ボケというか、モンゴルの実際の事情をわかっていたし、制作というのは、ロケがスムーズ、かつコスト節約で進めるための交通整理と手配をしていくのが役目なのですが、モンゴル側のコーディネーターが「そんなのはできない」とか「それをするためには、いくらかかる」と現場で行ってくる話が、「えー、じゃ彼らにできないんだったら、私、手配しますよ」と親切心というか、ロケ遂行の使命感でちゃっちゃかなんの問題もなくやってしまっては、コーディネーターに顰蹙をかってしまっていたのです。
なぜ、コーディネーターが怒ったか?
それは、「自分しかできない」とクライアントたちに思い込ませることで莫大な利益を得ていたから。
小娘みたいな私にできるわけがない!ってたかをくくって意地悪してたら、昔の人脈であっさりロケ実現できちゃってたため、ボロがでた!!と思いこんだのでした。
私としては、コーディネート費としてグロス(ロケ費一括支払い)で前払いされちゃってるのだから、予算内におさめてあげれば、コーディネーターにとっても得だし、ロケ隊にとっても、必要な映像が撮れるのだから、当然のこと、と思ってたんだけど・・・都会のモンゴル人って意外とプライドが高く、自分が動かないくせに「領域を侵された」って怒っちゃう人、いるんですよね。
これは私の若気の至りだったなぁ。
もうちょっと、モンゴル人といえど、わりと料簡が狭い人もいるってことを想定して、物事を進めるべきだったなぁ、って今なら反省できるんだけどね。。。
まぁ、当時は、とにかく製作費をおさえつつ、私の直接のクライアントである制作会社さんのモンゴルでやりたい!っていうことは全て実現したわけですが、、、
この時、ひらめいたのです。
市場経済化、民主化して、モンゴル国で外国人ができる活動の幅はかなり広がっているんじゃないか?
もっと直接的に外国人だからこそ、働きかけたり、つなげられるネットワークもあるんじゃないか?
で、モンゴルから帰ってすぐに、当時契約更新時期がきていた制作会社から独立し、モンゴルで起業することにしたのでした。
その準備期間を含めると、10年目なんですね、今年。
10年ひと昔、といいますが、起業した当初に比べると、日本人資本や日本人がらみの同業他社がモンゴルにも随分増えました。
小手先でやってきたわけじゃないから、自分のクオリティや人脈には自信はありますが、でも、もっと幅広く、そして、同じように日本とモンゴルの懸け橋になることを目指している人たちと連携していくことも大事なんだろうな、なんて思うようになりました。
日本政府や国連などの国際機関によるODAプロジェクトの通訳としてかかわってきた20年、草分け的にモンゴルに乗り込んできた企業さんのモンゴルプロジェクト最初の交渉のお手伝いをしたり、自分自身が起業したり、国際交流、草の根交流の懸け橋になってきた経験、旅行のガイドや企画手配、アドバイザーとして過ごした年月、、、こうした蓄積はかなり大きいし、私はもっともっと活用していかなきゃいかんなぁって。
当たり前のことで、毎日、頭や心のどこかにあった課題なんだけど、雨音を聞いているうちに、そのビジョンが明確になってきました。
動かないことっていうのも大事なこと。
立ち止まって振り返ったり、足元を見つめなおすっていうのは、停滞ではなく、必要な時間なんですね。
忙しく仕事に追われていたら、雨音なんかぼーっと聞いてられなかった。
だから、仕事モードになれないこんな精神状態のときのほうが、仕事にとって大事なカギを見つけられるようになってるんだな。