今、空から降ってきてほしいのは、お金?愛? ブログネタ:今、空から降ってきてほしいのは、お金?愛? 参加中
モンゴル人にとってお金って、「入ってきたら使うもの」という感じですね。かつて、私は預貯金するのが大好きで、銀行や元共同経営者が経営していた預金融資組合(ハトガラムジ ゼーリン ホルショー)という民間の金融機関にあずけていました。当時は月利で4%とかで、1年まるまる預けておけば、48%もの利息がつくというすごい仕組みだったので、私が共同経営者のその「組合」に預けていたお金は、まさに倍倍ゲームのように5年間で膨れ上がってました。だって、全然出さずに、自分が稼いだ分、全部貯金してたから。でも、その間、共同経営者は、別ビジネスを立ち上げ、バンバンお金を使ってて、資金繰りもかなり厳しかったみたいです。だから、私がアパートを購入したい、とか自分用の車を買いたいって思っても、自分名義の彼らがやっている金融組合の預金口座からはほとんど引き出すことができなかったのです。挙句の果てに「通帳の利息分記帳するから通帳をもってこい」といわれ、その後「すぐには書ききれないからおいていけ」といわれ、素直においていったら、それっきり、私の通帳と再会することはなくなりました。
こわいですねー。さらに、私は自分が日本から直接個人的なつながりで、会社事業とはまったく関係ない仕事として受けた給料(日本で確定申告をする分です)を、モンゴルでの所得隠しだ、警察と税務署と諜報部に通報してお前をモンゴルにいられなくしてやる、と脅してきまして、、、という、まるで映画かドラマのような恐ろしい陰謀に私は巻き込まれてしまったのでした。
2年ほど、司法の場で戦おうと画策しましたが、結局、愛犬をひき殺されそうになったり、このままではほんとに、私、体がもたない・・・生きて日本には帰れないかもしれない、、、という事態までおいこまれ、結局、彼らは「私が主張している、彼らが私から借り受けた借金や、本来私に払うべき預金や利息の使い込み分をチャラにしたいのだ」ということがわかったので、「お金で済むなら、どうせもともと、自分の手元にはなかったし、ないまま2年間やってこれたんだから、いいや。そいつを手放して、こいつらとも縁を切ろう」という清算方法で、「示談」をしたのでした。

お金って怖いなぁ、と思いました。

でも、お金って便利だなぁ、というか、やりくりする楽しさというのも感じるようになったのです。
すっからかんになってしまっているので、当然、まずは「お金を稼ぐ」ことが先決です。なかなか思うようには手にはできないので、いろいろ節約もするし、小さな仕事でもなんでも引き受けるようにしました。
人脈の使い方も覚えたし、なにより、それまで他人任せだった、帳簿付けや法律的な問題や公的機関や企業へのレターを書いたり、手続きをしたり、ということも自分でやることを覚えたので、プロセスやそれに関わる問題などもクリアに把握できるようになったのです。
だから、「モンゴル人生道場」での授業料だ、と思えば、それほど、「損した感」はなくなったのでした。

いまだに、彼らのあざやかな手口には、憤りもあれば、悔しさもあるけれど、それ以上に、「あー、見事にやられちゃったなぁ」っていうなんだかサバサバ感がいっぱい。


そして、私以上に、大きな金額を、もっともっと「やりきれない気持ち」や「理不尽なやり方」で騙し取られた日本人そのほか外国人もずいぶんいるのだなぁ、と知りました。

多くは、恋愛関係や友情関係、恩や義理があるから大丈夫だろう、と目をかけてきた人、などとの「お金」をめぐっての決裂が、ものすごい惨事を引き起こし、やむなく「モンゴルから撤退」とか「泣き寝入り」とか「裁判で何年も闘争中」といった感じで、壮絶なことになってしまい、モンゴルそのものにも「嫌気がさす」という結末になっています。

モンゴルだったら、愛なんかより、絶対、「お金」を選ぶと思います。
というか、「お金を愛している」人だらけ。「市場経済」社会=拝金主義、お金があれば幸せになれる、と夢見ている人たちなのです。

でも、「お金が降ってくる」というのはいいなぁ。と思ったのですが、よく考えていると、天からお金が降ってきたとしても、背の小さな私がつかめるお金なんて、たかが知れてる。
そして、力が強く、お金に対する執着が私の何万倍も強いモンゴル人たちと争って、天から降ってくるお金をつかもうとしても、とてもかなわない。。。背が高くてもやせっぽちのガナー君は、多分弾き飛ばされちゃうでしょう。

ということは、天からお金が降ってきたとしても、そのせいで、物価が上昇し、インフレがおき、挙句の果ては、お金のない私は廃れていく、という事態に陥ります。

愛は降ってわいてくるものではないと思います。愛とは自分の中から生まれ、それを大切にはぐくんでいくものであって、与えられるものではないのです。

なんでも、本来、自分でゲットすべきものが、突然、天から降ってくる、という事態はないに越したことはない。
人生に必要なものは、自助努力と相互扶助・連携によって、自らが得るものであって、無秩序に与えられるべきではない。

お金というのは、人間が生み出した信用概念。
愛もまた同様。

だから、どれも自分が信じない限りは、なんの価値もない。
そして、自分が得た愛の多さでも、金の多さでも、幸せは計れない、と思います。
自分が持っているものの量や質がどうであれ、「これで私は幸せだ」と満足できれば、それで十分。
「足ることを知る」っていい言葉です。
でも、自分の中から生み出したり、育んだりできる「愛」や「お金の活用や稼ぎ方」などについては、なんぼでも大きくしたい、って望んでもいいって思います。

「足ることを知る」と「もっともっと」のバランスが大事。
それもまた、自分でコントロールするしかないのでしょうね。

水漏れアパートとか、冬にエンジンがかからない車、ばたばた死んでいく家畜や草の乏しい放牧地などを抱えていると、「もっとお金があれば・・・」って思います。「あのお金、手放してなかったら」とも思います。

でも、今、自分にそのお金があったとしても、ちゃんとは使えなかったかも。だって、5年間も預金という形で眠らせていた私ですから、正しく活用できたとも思えないもん。

なので、やっぱり、愛は自分で育むもの、金は自分で稼ぐもの。
そして、皆と共有したり、分け与えたりして、喜びを分かち合うもの、として愛もお金も大事にしていきたいな、と思う今日この頃です。
にほんブログ村 海外生活ブログ モンゴル情報へ
にほんブログ村