ずっと片付けられない女だって思い込んでいました。
ふと思いついて、掃除や整理・整頓に張り切ったりしても、すぐに元の木阿弥。
自分の生活と整理整頓はなじまない、、、私はやっぱり神経衰弱や小倉百人一首、カルタなどが得意な女だから、雑然としていても、全部が目に付くほうが落ち着くのよ、と思っていました。
でも、モンゴル人は片付け魔。整理とか整頓とか系統だったことは苦手な家人なので、私の留守中に「片付けといたよ」というのは、ほんとに、まさにどこか片隅にモノを放り込んで、詰め込んで、目に付かないようにしているだけなのです。
見かけはすっきりシンプルライフのようでも、何がどこにあるのか消息不明になるし、一度、その「あかずのドア」を開けたら最後、「魔」が噴出してくる・・・そんな我が家。
仕事で疲れ、病に倒れ衰弱し、イライラし、ちっとも掃除も整理も整頓も片付けすらやる気になれませんでした。
捨てるのだってめんどくさい。
とあるブログを見て、いきなり決意。28日はずきずきした頭と腰を抱えながらも、ひとたび動き出したらとまらなくなり、一応、大掃除らしきことはできました。
今年の大掃除では、ほとんど所有物を捨てなかったです。整理整頓本(かたづけられない人向けの「コーチング」とか「整理整頓名人」の本で、「こうすれば机の上が片付く!」とか、整理術系の本は日本でもしこたま購入してました。図書館で借りて読めばいい、と思うのですが、意外なことに、こういう「整理整頓」本というのは、あまり区立図書館では見かけないんです。本屋で立ち読みしているときは、「これは手元において習慣化するための教科書だ!」と思って、新刊本で購入しちゃうのですが、多くの整理術の本には「ほとんど読まない本は捨てるべき」とか「一度しっかり読んで内容を理解したら捨てる、古本屋に売ってリサイクル」と勧めています。実は、「整理術」の本こそ、まさにこういう「一度読んだら、もういいや」な本だったりするのです。
ぐるぐるしちゃいましたが。
そういいながら、モンゴルでは、日本語の活字本というのは大変貴重なので、捨てられません。
今年は、お風呂の中で読んでて、 うっかり落としちゃった村上春樹著「風の歌を聴け」は一生懸命乾かしたのですが、ページとページが張り付いて、もはや本としての機能を失ってしまったので、なくなく捨てました。「風の歌を聴け」という本はなぜか、私の愛読書の中でも放浪しがちです。あと「ねじまき鳥クロニクル」の3巻もよく消えます。消えるたびにまた買い足すので、後で見つかったりして、3巻だけなんと3冊、「風の歌を聴け」にいたっては4回買いなおしています。何度読んでも、読んでも、面白い。ストーリーは暗記しちゃってるのに、その文体が心地よい。不思議な本です。
さて、リフォーム計画をたて、収納家具を注文したはいいが、いざ、自分の持ち物を全部ひっくり返し、箱につめなおしたり、「僕の場所はここだよ」と物品たちが主張するままにおいてみたところ、あら不思議。
ちゃーんと、全部おさまるところにおさまり、何も捨てる必要がなくなっちゃいました。
古新聞ですら、ガラス窓の隙間ふさぎとして、そのままでーんと積み重ねてみても、きれいにつんでおけば、それはそれで、ちょっとしたオブジェっぽくなりました。
毎年、毎年、「いるもの」「いらないもの」「保留品」というダンボール箱で仕分けをしては、「保留品」ばかりで、「いらないもの」はほとんどない、という状況だったりします。
ほんとに必要なものに限って、元共同経営者たちが奪っていったまま返してくれなくなっちゃったから、そういうものには未練はないし。
必要なものは買う。これです。レンタルとかリースというサービスはモンゴルではほとんど成長していません。他人のものに対する扱いがとても雑なので、ここがニッチだとしても、私は絶対レンタルとかリースとかのサービス業をしようとは思わないけれど。
でも、そうしたほうがいいんじゃないか?ってものはたくさんあります。
家族が増えて、特に子供の福っていうのは、ちっちゃくてたくさんあって、しかも、なんというか、一着一着に対しての愛着とか思い出が詰まってて、子供は子供でなかなか捨てられない・・・
ガナー君実家は子沢山(でもどり、できちゃったけどシングル出産等の人たちの子供があふれている)ので、古着をガレージセールしてたりしますが、正直、売れ行きはさっぱりです。
もともとが最低所得層の人たちで、完璧に着古しすぎて、古着ならではのビンテージ的風合いというよりは、ぼろきれというにふさわしい状態だから。。。まぁ、ここまで着るっていうのはすごい!
従来、モンゴル人は古着というのが大嫌い。よく先進国の人たちの慈善事業として、「貧しい人たちに古着を贈ろう」とか寄付を募っていますが、はっきりいって、モンゴルでは「善意があるなら、安くて粗悪でもいいから大量に新品送ってよ」という感じです。
着るものには、その人の魂や業(特に悪いもの・悪癖など)が染み付いていて、他人のものを着ると、その元の持ち主の悪業まで背負うはめになる、と考えられているから。
シャーマンになった元カレもそういうタイプでした。
でも子沢山貧困家庭のガナー君のところでは、そんな贅沢はいいません。
ぼろは着てても心は錦!っていうのが大事なのです。
というわけで、子狐の洋服はほんと豊富。6歳にしてダンボール箱6個分の衣装もちって多すぎでないかい?
ビニール袋に突っ込まれているとごみっぽいけれど、きちんと洗濯し、たたんで、防虫剤を入れて段ボール箱にしまい、箱の外側に「子狐夏服」とか書いておくと、それだけでちょっと保管する必要がある物っぽくなりました。
本も大きさや読む頻度などで並べ替え、しばらく読まなくなりそうな本は、「しばらく読まない本」という箱に入れて、ベッド下等のデッドゾーンに突っ込みます。古新聞も時系列に並べてたためば、貴重な資料っぽくなりました。
そもそも、どれもこれもお金を使って購入したものです。中古、という名で一度でも使えば、その値段がどーんと下がっても文句がいえない商品から所有物へとシフトした物品。本来使うべき手段で使ってあげれば、やっぱり大事なもので愛着があるのです。そもそもけちんぼさんだから、「まだ使えるものを捨てるのは嫌だ」という抵抗感がありました。なので、最初から「買った限りは使う」という姿勢で物を使います。
これもまた大事な姿勢でしょう。
TVショッピングなどであおられて購入したもので、ほんとに使い勝手がいいってものはほとんどありません。失敗したなぁ、、、と思うものがほとんどです。便利かもー!と友達からもらった、「腹筋強化ダイエットマシーン」も結局苦労して持ち帰ったのに、ほとんど使いませんでした。
中古品で購入したものもしかり。なんかうまく自分になじまない。
中古品でいただいて、未だに使っているものっていうのは、弊社のもう一人の出資者であるエコツーリズムの師匠一家が残していった食器、土鍋、急須、子供用の机、いす、変圧器、与論島出身の寒がり屋さんが日本からかついできたコタツ、ダルハンプロジェクトのコンサルさんが残していった(預かったつもりでいた)キャノンの多機能コピープリンターといったものでしょうか。
あと、気象学の女性研究者とその子供たちからいただいた食器などもよく使っています。
つまりは中古品だから、ということではなく、その人たちとの思い出が大切だから、使っていて心地よい、というものなのです。
日本だと古道具屋とか民家の取り壊しとか、いろいろ中古品をあさる楽しみというのがありますが、モンゴルの場合は、イマイチ食指が動きません。なんだろう、そのものが持っているオーラ、というか雰囲気が嫌なんです。「俺たち、捨てられたんだ」みたいなヤサグレオーラがぷんぷんしてて、家に持ち込んだら不幸になりそうな・・・そんな感じです。
だから、結局、自分で吟味して購入します。
物に呼ばれるっていうか、引き寄せられるというか。
そういう縁を大事にしたいと思っています。
つまりは、魔法使いの杖、的な運命をモノに求めているんだと思います。
モノだけでなく場所もそうだし、人もそうです。
引き寄せる、引き寄せられるっていう関係。
そういうふうにして生活に取り込んだモノたちなので、ちゃんとそのモノたちの「在り方」に集中すればおくべき場所が自然と決まってくる。パズルをはめるのと同じです。神経衰弱も同様。
他人にとっては雑然としていても、自分にとっては心地よい、という配置だったときは、なんとなく騒然としていました。生活に異物が混入されたような違和感や不協和音が満ち溢れて、少し緊張したりもしてました。
今回、病床につき、自分を見つめ、自分のこれからの生活に思いをめぐらせたとき、私が築き上げた生活がかけがえのないものであり、壊したり、損なったりしては取り返しがつかないものなんだ、と感じました。なので、ひとつひとつモノたちの居場所探しをしていきました。
ディズニー映画の「美女と野獣」の食器たちのように。
バラバラに購入したものでも、そのものたちを引き寄せた自分の在り方が、それらの配置や使い方で決まってくる。
ほとんどが私のものばかりなのですが、だんだん子狐とガナー君のものも増えてきました。
今回の整理整頓で一番気遣ったのが、子狐の居場所、あり方でした。まだ自分で何一つ決定権を持たず、判断力も未熟な年齢でも、自己主張、独占欲は人一倍な子狐にとって、そして私にとって、お互いがお互いを侵食したり刺激したりしないですむ居心地のよさってどこにあるんだろう・・・と。
家人の行動を一人ぼっちの家で思い浮かべてみる。話している会話や、皆が心地よく朗らかでいられたときの風景。あるいは、こんなだったら、あったかい家庭っぽい感じになるなぁ、っていうのを想像してみました。
子狐が好きそうなものは、少し目線が低いところにおいておく、とか。
引っ張り出しても崩れないように収納の仕方もちょっと工夫してみました。
私は背が低く(153cm)、ガナー君は背が高い(182cm)なので、高さでも「モノのすみわけ」をしてみました。
「このものは大事だから捨てたくない」と思えば、狭いスペースでも、ちゃんと居場所がみつかるものです。だって、雑然としてるとはいっても、ちゃんとその家の中に納まっているのだから、はみ出てるわけではないのです。
「捨てなくても、今、家の中にあるものは、
おさまるところにおさめれば、ちゃんと整理整頓できる 」
これは、今まで私が読んだ百冊近くの整理整頓術本のどこにも書いてなかったことです。
雑誌のリフォームとか、家事・収納の達人の整理術の番組などでも、結局、家具を捨てて、自分で作ったり、新しく購入したりしてました。
でも、偶然でも、なんとなくでも、とにかく、私が購入したものは私が欲しい、と思ったからお金をだして買ったのです。あるいは、誰かの好意でいただいたものなのです。
だから、捨てたり、誰かに譲ったりすべきものって案外なかったりする。
思い切ってって時は、ちゃんと次の持ち主が明確な強い意志表示をもって打診してくるはずなのです。
ということで、大晦日。日本の元旦まで、あと1日ちょっとありますから、大掃除しなくちゃ、とか大掃除が終わらない、とあせることはありません。
大掃除という行動は、自分とモノのあり方、つながりを見つめ直し、「Who am I?」という自問自答によって、これからのライフスタイルを想像できるチャンスだってこと。
これは、掃除、整理整頓嫌いで苦手だった私が、今年発見した、素晴らしい教訓です。

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ふと思いついて、掃除や整理・整頓に張り切ったりしても、すぐに元の木阿弥。
自分の生活と整理整頓はなじまない、、、私はやっぱり神経衰弱や小倉百人一首、カルタなどが得意な女だから、雑然としていても、全部が目に付くほうが落ち着くのよ、と思っていました。
でも、モンゴル人は片付け魔。整理とか整頓とか系統だったことは苦手な家人なので、私の留守中に「片付けといたよ」というのは、ほんとに、まさにどこか片隅にモノを放り込んで、詰め込んで、目に付かないようにしているだけなのです。
見かけはすっきりシンプルライフのようでも、何がどこにあるのか消息不明になるし、一度、その「あかずのドア」を開けたら最後、「魔」が噴出してくる・・・そんな我が家。
仕事で疲れ、病に倒れ衰弱し、イライラし、ちっとも掃除も整理も整頓も片付けすらやる気になれませんでした。
捨てるのだってめんどくさい。
とあるブログを見て、いきなり決意。28日はずきずきした頭と腰を抱えながらも、ひとたび動き出したらとまらなくなり、一応、大掃除らしきことはできました。
今年の大掃除では、ほとんど所有物を捨てなかったです。整理整頓本(かたづけられない人向けの「コーチング」とか「整理整頓名人」の本で、「こうすれば机の上が片付く!」とか、整理術系の本は日本でもしこたま購入してました。図書館で借りて読めばいい、と思うのですが、意外なことに、こういう「整理整頓」本というのは、あまり区立図書館では見かけないんです。本屋で立ち読みしているときは、「これは手元において習慣化するための教科書だ!」と思って、新刊本で購入しちゃうのですが、多くの整理術の本には「ほとんど読まない本は捨てるべき」とか「一度しっかり読んで内容を理解したら捨てる、古本屋に売ってリサイクル」と勧めています。実は、「整理術」の本こそ、まさにこういう「一度読んだら、もういいや」な本だったりするのです。
ぐるぐるしちゃいましたが。
そういいながら、モンゴルでは、日本語の活字本というのは大変貴重なので、捨てられません。
今年は、お風呂の中で読んでて、 うっかり落としちゃった村上春樹著「風の歌を聴け」は一生懸命乾かしたのですが、ページとページが張り付いて、もはや本としての機能を失ってしまったので、なくなく捨てました。「風の歌を聴け」という本はなぜか、私の愛読書の中でも放浪しがちです。あと「ねじまき鳥クロニクル」の3巻もよく消えます。消えるたびにまた買い足すので、後で見つかったりして、3巻だけなんと3冊、「風の歌を聴け」にいたっては4回買いなおしています。何度読んでも、読んでも、面白い。ストーリーは暗記しちゃってるのに、その文体が心地よい。不思議な本です。
さて、リフォーム計画をたて、収納家具を注文したはいいが、いざ、自分の持ち物を全部ひっくり返し、箱につめなおしたり、「僕の場所はここだよ」と物品たちが主張するままにおいてみたところ、あら不思議。
ちゃーんと、全部おさまるところにおさまり、何も捨てる必要がなくなっちゃいました。
古新聞ですら、ガラス窓の隙間ふさぎとして、そのままでーんと積み重ねてみても、きれいにつんでおけば、それはそれで、ちょっとしたオブジェっぽくなりました。
毎年、毎年、「いるもの」「いらないもの」「保留品」というダンボール箱で仕分けをしては、「保留品」ばかりで、「いらないもの」はほとんどない、という状況だったりします。
ほんとに必要なものに限って、元共同経営者たちが奪っていったまま返してくれなくなっちゃったから、そういうものには未練はないし。
必要なものは買う。これです。レンタルとかリースというサービスはモンゴルではほとんど成長していません。他人のものに対する扱いがとても雑なので、ここがニッチだとしても、私は絶対レンタルとかリースとかのサービス業をしようとは思わないけれど。
でも、そうしたほうがいいんじゃないか?ってものはたくさんあります。
家族が増えて、特に子供の福っていうのは、ちっちゃくてたくさんあって、しかも、なんというか、一着一着に対しての愛着とか思い出が詰まってて、子供は子供でなかなか捨てられない・・・
ガナー君実家は子沢山(でもどり、できちゃったけどシングル出産等の人たちの子供があふれている)ので、古着をガレージセールしてたりしますが、正直、売れ行きはさっぱりです。
もともとが最低所得層の人たちで、完璧に着古しすぎて、古着ならではのビンテージ的風合いというよりは、ぼろきれというにふさわしい状態だから。。。まぁ、ここまで着るっていうのはすごい!
従来、モンゴル人は古着というのが大嫌い。よく先進国の人たちの慈善事業として、「貧しい人たちに古着を贈ろう」とか寄付を募っていますが、はっきりいって、モンゴルでは「善意があるなら、安くて粗悪でもいいから大量に新品送ってよ」という感じです。
着るものには、その人の魂や業(特に悪いもの・悪癖など)が染み付いていて、他人のものを着ると、その元の持ち主の悪業まで背負うはめになる、と考えられているから。
シャーマンになった元カレもそういうタイプでした。
でも子沢山貧困家庭のガナー君のところでは、そんな贅沢はいいません。
ぼろは着てても心は錦!っていうのが大事なのです。
というわけで、子狐の洋服はほんと豊富。6歳にしてダンボール箱6個分の衣装もちって多すぎでないかい?
ビニール袋に突っ込まれているとごみっぽいけれど、きちんと洗濯し、たたんで、防虫剤を入れて段ボール箱にしまい、箱の外側に「子狐夏服」とか書いておくと、それだけでちょっと保管する必要がある物っぽくなりました。
本も大きさや読む頻度などで並べ替え、しばらく読まなくなりそうな本は、「しばらく読まない本」という箱に入れて、ベッド下等のデッドゾーンに突っ込みます。古新聞も時系列に並べてたためば、貴重な資料っぽくなりました。
そもそも、どれもこれもお金を使って購入したものです。中古、という名で一度でも使えば、その値段がどーんと下がっても文句がいえない商品から所有物へとシフトした物品。本来使うべき手段で使ってあげれば、やっぱり大事なもので愛着があるのです。そもそもけちんぼさんだから、「まだ使えるものを捨てるのは嫌だ」という抵抗感がありました。なので、最初から「買った限りは使う」という姿勢で物を使います。
これもまた大事な姿勢でしょう。
TVショッピングなどであおられて購入したもので、ほんとに使い勝手がいいってものはほとんどありません。失敗したなぁ、、、と思うものがほとんどです。便利かもー!と友達からもらった、「腹筋強化ダイエットマシーン」も結局苦労して持ち帰ったのに、ほとんど使いませんでした。
中古品で購入したものもしかり。なんかうまく自分になじまない。
中古品でいただいて、未だに使っているものっていうのは、弊社のもう一人の出資者であるエコツーリズムの師匠一家が残していった食器、土鍋、急須、子供用の机、いす、変圧器、与論島出身の寒がり屋さんが日本からかついできたコタツ、ダルハンプロジェクトのコンサルさんが残していった(預かったつもりでいた)キャノンの多機能コピープリンターといったものでしょうか。
あと、気象学の女性研究者とその子供たちからいただいた食器などもよく使っています。
つまりは中古品だから、ということではなく、その人たちとの思い出が大切だから、使っていて心地よい、というものなのです。
日本だと古道具屋とか民家の取り壊しとか、いろいろ中古品をあさる楽しみというのがありますが、モンゴルの場合は、イマイチ食指が動きません。なんだろう、そのものが持っているオーラ、というか雰囲気が嫌なんです。「俺たち、捨てられたんだ」みたいなヤサグレオーラがぷんぷんしてて、家に持ち込んだら不幸になりそうな・・・そんな感じです。
だから、結局、自分で吟味して購入します。
物に呼ばれるっていうか、引き寄せられるというか。
そういう縁を大事にしたいと思っています。
つまりは、魔法使いの杖、的な運命をモノに求めているんだと思います。
モノだけでなく場所もそうだし、人もそうです。
引き寄せる、引き寄せられるっていう関係。
そういうふうにして生活に取り込んだモノたちなので、ちゃんとそのモノたちの「在り方」に集中すればおくべき場所が自然と決まってくる。パズルをはめるのと同じです。神経衰弱も同様。
他人にとっては雑然としていても、自分にとっては心地よい、という配置だったときは、なんとなく騒然としていました。生活に異物が混入されたような違和感や不協和音が満ち溢れて、少し緊張したりもしてました。
今回、病床につき、自分を見つめ、自分のこれからの生活に思いをめぐらせたとき、私が築き上げた生活がかけがえのないものであり、壊したり、損なったりしては取り返しがつかないものなんだ、と感じました。なので、ひとつひとつモノたちの居場所探しをしていきました。
ディズニー映画の「美女と野獣」の食器たちのように。
バラバラに購入したものでも、そのものたちを引き寄せた自分の在り方が、それらの配置や使い方で決まってくる。
ほとんどが私のものばかりなのですが、だんだん子狐とガナー君のものも増えてきました。
今回の整理整頓で一番気遣ったのが、子狐の居場所、あり方でした。まだ自分で何一つ決定権を持たず、判断力も未熟な年齢でも、自己主張、独占欲は人一倍な子狐にとって、そして私にとって、お互いがお互いを侵食したり刺激したりしないですむ居心地のよさってどこにあるんだろう・・・と。
家人の行動を一人ぼっちの家で思い浮かべてみる。話している会話や、皆が心地よく朗らかでいられたときの風景。あるいは、こんなだったら、あったかい家庭っぽい感じになるなぁ、っていうのを想像してみました。
子狐が好きそうなものは、少し目線が低いところにおいておく、とか。
引っ張り出しても崩れないように収納の仕方もちょっと工夫してみました。
私は背が低く(153cm)、ガナー君は背が高い(182cm)なので、高さでも「モノのすみわけ」をしてみました。
「このものは大事だから捨てたくない」と思えば、狭いスペースでも、ちゃんと居場所がみつかるものです。だって、雑然としてるとはいっても、ちゃんとその家の中に納まっているのだから、はみ出てるわけではないのです。
「捨てなくても、今、家の中にあるものは、
おさまるところにおさめれば、ちゃんと整理整頓できる 」
これは、今まで私が読んだ百冊近くの整理整頓術本のどこにも書いてなかったことです。
雑誌のリフォームとか、家事・収納の達人の整理術の番組などでも、結局、家具を捨てて、自分で作ったり、新しく購入したりしてました。
でも、偶然でも、なんとなくでも、とにかく、私が購入したものは私が欲しい、と思ったからお金をだして買ったのです。あるいは、誰かの好意でいただいたものなのです。
だから、捨てたり、誰かに譲ったりすべきものって案外なかったりする。
思い切ってって時は、ちゃんと次の持ち主が明確な強い意志表示をもって打診してくるはずなのです。
ということで、大晦日。日本の元旦まで、あと1日ちょっとありますから、大掃除しなくちゃ、とか大掃除が終わらない、とあせることはありません。
大掃除という行動は、自分とモノのあり方、つながりを見つめ直し、「Who am I?」という自問自答によって、これからのライフスタイルを想像できるチャンスだってこと。
これは、掃除、整理整頓嫌いで苦手だった私が、今年発見した、素晴らしい教訓です。
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