日本では民主党政権による予算仕分け云々。喧々囂々な様子ですね。
自分の活動の中では、日本のODAが気になるところです。

案の定、いわゆるハコモノ援助での、日本の建設業者・土木業者が海外に派遣されて施工者となる、というやり方でのお金のめぐりについいてが仕分け人の批判になっておりますね。

昨今の日本政府の国際協力、海外援助、様々な形態でありますが、予算を決めるときが、「とにかく安く。予算を削る」のが日本国民の血税を使うものの使命、みたいに、スペックを下げさせるのがえらい、みたいになっている印象。

もちろん、これって援助バブル時代の90年代と比べてって話で素人考えなのですが。

今、私はそういった日本の援助を受ける国で生活し、援助協力にかかわる仕事もしています。

そのときに感じるのは、発展途上国に対して日本がもっとも援助することで喜ばれ、あるいは長年の効果があるのか、というと、やっぱり、日本人の働き方や働くことへの意識を目の当たりに見て、身近に感じてもらえるってことじゃないかしら、といういうことです。

働きすぎ、っていうくらい、一生懸命、アウェイな現場でグイグイがんばる日本人は、たまに「どこにいっても日本人のやり方を押し付けている」ように見えるのですが、でも、これもまた援助協力のスペックに含まれていないけれど、貴重な技術移転のチャンスだと思うのです。

特に土木や建築のような力技というか、どちらかというと様々な重機を使い、大規模な作業がメインでありながら、ほんとに細かい、路肩の補強とか側溝をつける、とか道路も排水の方向などを考えてデザインする、とか、建物でも動線が考えられ、配管設置のためのスペースの設け方などの繊細さや、ちょっとした気配り、作業自体の工程、工程ごとのチェックシステムなどなど、大雑把過ぎる作業員には、最初はめんどくさい作業であっても、一度、それを身に着けてしまえば、作業効率も安全性も働く環境そのものがぐっと向上するという本で読んで勉強するだけではすぐに実践効果をあげづらいことが可能になる。

これは一緒に働き、同じ釜の飯をくらい、衝突したりしながらジワジワと浸透させることでしか身につかない。

確かに被援助国にも、日本と「類似している」(同じ、、、というのはちょっと抵抗があるんだよね。)業者があり、「類似した」インフラ整備などをしている業者があります。

でも、やっぱり、類似は類似であって、いくら最新機器や設備を導入したところで、使っている「人」の意識がその道具に見合ったものになってなければ、なんぼお金をつぎ込んでも、やっぱり結果は、「それなり」の「類似品」なのです。

多少コストがかかろうが、ソフトコンポーネントとわざわざうたわないでも、作業を共にする中で、その国、その土地の人たちと話し合い、彼らのやり方、その国の生活を覚えながら、ぜーんぶ日本人でやっちゃえばあっという間な作業もジワジワと協力することで地元の作業員が育っていく。

目に見えないけれど持続する効果のことを自信を持って外務省なりがいえないのはなんでかなぁ?と忸怩たる思いがあります。

まぁ、これまでいろいろと後ろ暗い小細工が国際協力プロジェクトの背景にあったようですが、幸い自分がかかわったプロジェクトではそういうことはない。だから、前述のようなことを感じるのかもしれません。

どのような仕事であっても、人が相手の場合は、「日本のやり方」を押し付けるだけではうまく効果をあげられない。でも、「現地のやり方」を尊重しすぎても、結局効果はあがりません。結局、相手に信用され、「この人にまかせても大丈夫だ。」とか「この人と一緒にやれば得をする」とか、受け入れられ、日本人が持っている技術や知恵、知識などを吸収しよう、と相手方も意欲を持てるような活動をすることこそが国際協力の原点なんじゃないかなぁ?

国際協力・援助の建前としては、大前提に「日本本国の国益になる活動」ってのが外務省方針にあります。
この「日本の国益」にならなければ、「被援助国」がどれだけ熱烈に要望しても、採用されないのです。
これはかなり残念な方針の気もします。

国民の血税の使い道、仕分け人とお役所・国との攻防は続いているようで、NHKで断片的にみていても面白い。

でも、パフォーマンス的に、あれもだめ、これもだめ、と削りまくることで、大事な「日本ブランド」までうっかり切り捨てないで欲しいなぁ。

国際協力という形での交流は、ただ海外に暮らしている、ということで日々体験している「異文化交流」とはまったく違ったベクトルや使命を感じ、自分の中に流れる日本人の意識と血がふつふつと沸いてきます。
自分も日本人の一人として恥ずかしくない行動をしよう、みたいなね。

同時に、モンゴルが自分の人生と魂のほぼ半分を占めている今、モンゴルの現状をモンゴルらしい方向性で改善するチャンスをしっかり生かせるプロジェクトになるように自分の知識や経験、技術や人脈、私の全てをフル稼働させて一助になれればいいな、とも思います。

そのときに気がつくのは、やっぱり私自身の存在そのものが国際交流であり国際協力の蓄積であるのだなぁ、ということです。

私がモンゴルから受けたもので還元できるのは、通訳・翻訳技術だけれど、日本で培ったコーディネート力や取材調査・情報収集能力やワンゲル活動やアメリカでの経験など個人的な経験などを総合することで、それなりの成果を上げることができる人になれてきたのかな、と思ったりしています。

ちょっち悲しいのは、技術レベルは10年前、18年前より圧倒的に上がっているのに、報酬は逆にがっつり削減され、大学生時代の「お小遣い仕事」レベルまで下がってしまっていることだったりして・・・てか、大学生時代に稼ぎすぎたってことなのか?

まぁ、日本人のモンゴル人やモンゴルに対するコスト計算の甘さというか、評価の低さには、「なめんなよ」と思ったりすることもあります。

モンゴルでビジネスなり仕事なりをしようと思ったら、当然、事業計画等で積算をする必要も出てきますよね。そのとき、注意しなきゃいけないのは、たとえアジアの発展途上国のひとつといっても、東南アジアやインドのように人件費を紙くずみたいに削れることもないし、車の燃料費などは日本並みだし、対外国人料金という意識があるので、一筋縄ではいかないのよ、ということです。
ぼったくられる必要は全然ないのですが、リーズナブルでモチベーションも高まり、日本人に対して悪意や非差別感などの屈辱をもたれないような相場ってないようで、ちゃんとあるんです。

かなりひずみが出ているのは、そういうところなのですが、でも、皆一生懸命がんばっているし、お金の面などは、私が報酬を「経験と人脈と会社の未来への投資」と位置づけることで、お金を度外視してしまえば、モンゴル人にもがんばってやってもらえるのです。そして、自分がキャパ限界で取り組んでいるときに、サポートしよう、何が自分にできるか?ってことを考えて動いてくれるモンゴル人とのチームワークは私にとって刺激的で雰囲気も心地よいのです。自分のキャパの飽和状態で表面張力をつかってかろうじて、なんとかやってる、という状況が続き、張り詰めているストレスで、ガナー君とかソートンとか職場の人とかがトバッチリを受けてしまっている、ということが自分の中での反省点で課題です。

でも、今までの仕事は、基本通訳1人で、コーディネーションについても、コンサルさんやクライアントさんの指示や希望がはっきりしていたから、自分の力80%くらいで十分な成果が上がっていたのですが、今は、120%でやってても、なんか自分の仕事と認識していなかったところまで負荷がかかるから、ぎょえーってなってる。その分がちゃんと、無理!って思わずにできるようになれば、私はまた成長し、バージョンアップできるって感触があります。体育会系ならではの意識かな?

今日から、慣れ親しんだミッションになるので、ここでちょっとだけ自分ペースを緩めて自分の体制を整えたいと思います。

私がいない分、職場の人たちに負担、かかっちゃうのは申し訳ないけれど、仕事を引き受ける大前提条件としては、この愛するダルハンプロジェクトの最優先で、そのため報酬度外視で会社として受けたのですから、なんとかがんばっていただかねば。

もうしわけない、という気持ちももちろんあるんだけれど、それ以上にこれまで長い間関わってきた調査設計プロジェクトがいよいよ実施に移される、その瞬間に立ち会える喜びをダルハンの人たちと分かち合える喜びも口では言い表せないほど大きなものなのです。

私は理屈や理論としての国際協力の勉強は大学、大学院での授業レベルですが、モンゴルという舞台での実践で、英語圏ではないこの国での国際協力のあり方というのを感じることができ、またかかわることができている。このことは、得意分野と自分を限定しなかったことが勝因だったのではなかろうか・・・と思ったりしています。

ひとつだけ、日本人視点ではいかん!と思いつつ、なかなか捨てきれないのが、モンゴル人との個人的な人間関係。日本国がモンゴル国に対して援助しているお金の一部が私の納税したお金かもしれないけれど、私がモンゴル人に対して「援助している」わけではないってことですから、上から目線にならないようにしようってことです。モンゴルで暮らしている以上、私もまた「被援助国」の一部って思うようにしています。
学生時代は中立っていうことを心がけていましたが、自分が年をとってきたことで、「モンゴル人にモンゴル側の人」と思ってもらえることでスムーズにすすむ仕事もあるってことを感じるようになりました。

自分の方が上っていう意識をもった瞬間に、その人間関係には「お金」とか「立場」とかっていう余計な境界線が生じ、日本で満喫できている人間関係をモンゴルで楽しむチャンスをあっさり失ってしまう。
そんな感じがあるからです。

こういう感覚って、海外で暮らす日本人は口には出さずとも、本能的に共感していただけるんではなかろうか?ちょっとだけフリーになった土曜日の朝の雑感でした。