愛がないのとお金がないのどっちが辛い? ブログネタ:愛がないのとお金がないのどっちが辛い? 参加中
GW終わっちゃいましたねー。さて、愛とお金、どっちが大事?とたずねられたら、もちろん、「愛」と答えます。

でも、「愛がないのと、お金がないのどっちが辛い?」というブログネタの詳細を読んでみたら、どうも、交際相手に対して、愛情がないのと、金がないの、どっちが辛いのかっていうことみたいだから・・・

迷わず、「金がない」彼氏は困る、と答えちゃいます。

金がないっていうのは、モンゴルの場合、ホントにお金、ないんです。
貯蓄していて、「今、とりあえずの小銭がない」とかっていうレベルではなく、ほんとに困窮しちゃってるその日暮らしの人、たくさんいます。

そういう人たち、あんまり困ってないように見えます。
お金がなくなると、「ある人」のところにいって、「お金を(半永久的に)借りる」という形で調達するからです。
モンゴルでは、困っている人に施しとか手助けをしないと、「薄情者」の烙印を押され、人間関係がギスギスする傾向があります。

だから、お金持ちになったり、事業で成功したり、偉いセレブにのし上がっちゃったりすると、「すっごいいけ好かない人」にキャラチェンジをしない限りは、大なり小なり「お金のない昔の知人・友人・親戚」の類に、なんだかんだとお金の無心をする人脈がずるずると回虫が腸内に蠢くがごとく寄り集まってくるのです。

私は自分が成功したとは全然思えなかったけれど、結局、「友達とお金の貸し借りをしてはいけない」という家訓を破ったために、大金を用立てた挙句、裏切られてほとんど全財産を奪われるハメになりました。

お金を借りに来る人というのは、まず最初に「とても親しく」なって、その人に対して親身な相談相手、みたいな関係を仮小屋みたいに構築して、少しのお金をまず借りて、「期限内に返済」し、それから段々、自分の「夢」や「ビジネス構想」を語り、こちらの気持ちをわくわくさせながら、「次なる多額の借金・あるいは投資」の罠へと誘い込んでいくのです。
「返済計画」みたいなものを紙に書いてくる人とかもいるけれど、所詮はかみっキレです。
モンゴルでは、とっても説得力があり、裏づけが取れている、カタイ儲け話に見えても、実は中味はすかすかだし、お金の調達、回収についてもとてもいい加減なアナだらけだから、ちっとも予定通りにコトが進まないの傾向にあります。

でも、こちらだって、この不況の中、お金は必要です。死守しようとすれば、けちだなんだと、いろいろな生活における不便を余儀なくされるような状態に追い込まれたりするし、同情心をおこさせるのは、もう天才的なのです。

なまじっか、仲良くなっているから尚更です。
友達の間で貸し借りはよくない、と諭したところで、「まったくその通りだ、君の言うとおりだ。君はほんとにひどいモンゴル人に騙されてきたから、慎重になるのももっともだ。。。」なぁんていうけれど、「君の期待や信用を裏切るようなことは絶対にしないよ。」とか「ここで投資してくれれば、僕のどん底人生もようやく光が見えてくる、最後のチャンスなんだ・・・」みたいなことを言い出します。

本人は、「愛情なり友情なりがあるなら、困っている自分を見捨てるわけがない」という、根拠もないのに、すんごい揺らぎない自信と確信に満ちているから、こちらが揺らがないことはありえないって思ってる。何が何でも、予定の金額は引き出そうっててぐすね引いているのです。

そして、それは、私だったら、「お金がないのだから我慢しよう。早くそれを手に入れられるようにがんばって仕事しよう」と思うようなシロモノで、ほんとに生活必需品だっていうものは少ないのです。
我慢しろよー・・・だめもとで金の無心するなよー・・・
他の人にまずきいてみろよーって思うけれど、なぜ、他の人にきかないか?家族やモンゴル人の友人に頼まないかっていうと、本人にも「返せる確信がない」からなんだって、私はにらんでいるのです。

疲れますよねー、こういうのって。

国民性だから仕方ないのかなぁ?

愛がある、ということで、割り切って、犬を飼うのと同じような責任感と愛情を持って、相手の望む金銭なりを与えて、自分も満足感を味わいながら、慈悲、献身の修行を積むっていうのもアリだと思います。

いうなれば、その究極の形が、モンゴル人との国際結婚なんだと思うわけですね。

ある程度、覚悟を決めてしまえば、苦労も喜びも達成感も共に分かち合える、本来の素朴な人間らしい、庶民らしい暮らし。江戸時代とか無人島とか開拓時代の醍醐味を味わうことができるので、それはそれで素晴らしいことでしょう。

私はそういう日本人の献身的で私利私欲のない純粋な愛情は素晴らしいと思うし、ニーズとシーズが合致したモンゴル人との国際恋愛や国際結婚を完全否定したり批判する気もありません。

恋愛だけが愛情の証ではないと思うし、その中にはビジネスパートナーとか人生の同志とか、いろんなしがらみやらご縁やらもあるでしょうから、「まず相手に得させて、自分も何がしかの利益を得る」ためのシステムが構築できている人ならば、ほんと、手探りのアドベンチャー状態でも、モンゴルでビジネスをやる醍醐味があると思います。

でも、私、ほんと、自分は乏しいと思っているわけです。
生活に困窮するほどではないし、まだまだモンゴルでの暮らしなら、ナンボでも続けられます。
エコツーリズムでいうところの、持久性のあるライフスタイルを確立できているからです。
でも、それは1人暮らしだからなわけで、これで、扶養家族が増えたら、途端にバランスが崩れてしまいます。
ソートンだけで十分。
今の私の経済力では、東京では、愛犬・ソートン(シェパード6歳)と共に暮らすための拠点となる住居すら借りられないのが現実です。
安定的な収入と確固たる世間的な信頼を勝ち得なければ、私はソートンと暮らすという、自分の人生にとって最も重要な目標に達することができないのです。
私も今、必死です。このモンゴルにいながら、いかに日本での信頼を勝ち得るか、基盤を作るために戻れるか、お金、とても大事です。他人にまわす余裕はありません。

教会での献金は別です。余裕は大事。自分が得たものの10%をモンゴルの困った人のために使ってもらうための献金をすることを惜しむ気持ちはないし、今、自分が献金を出せる身になれたことも、感謝しているし、自分の融通できる最大限を有効に活用してもらえることはとても良いと思います。
お金を惜しんで溜め込みたいのではなく、私は自分がやりたいこと、やるべきことを実現するために、必死でお金を築こうと思っているだけなのです。

だから、その目標達成を邪魔するような依存心が含まれる愛はいらない。

お金をきちんと稼いで、きちんと自分でお金のマネジメントができる人とでなければ、正直、長いスパンの人間関係は築けません。

まずはお金のことさえキチンとできていること。

こんな単純なことができないモンゴル人が多すぎる。

お金の使い方や管理の仕方がずさんで、ちっともたまらない癖に、モンゴル人は貧乏人ほど、なんだか小説的には幸せそうな、御伽噺みたいな暮らしをしています。
弱いもの同士が力をあわせて、日々の暮らしを乗り切って、、、みたいな。

そういう庶民的な人たちのほうが、愛情にあふれて、ストレスが少なく、幸せそうです。

それは、その人たちが稼ぐ仕事をしていないからそうなんであって、真面目に仕事にいそしんで、きちんとビジネスをしようと思ったら、この国では、それほどノホホーンとはしていられません。

ノホホーンと「仕事がない」とか「お金がない」とか愚痴りながら、汗水たらして日々の生活の糧をどうにか捻出している親戚なり肉親なり知人なりに、お金を無心しているから、ストレスもたまらないのです。

自由な発想で、自分の思うとおりのビジネスをしようと思えば、必ずといっていいほど「前例がない」というわけのわからぬ理由でストップがかかったり、税務署とか国家機関があらゆる手段でお金を徴収しようとしてくるし、しがらみでがんじがらめになり、みょうちきりんな許可制度などが設定されるなど、腹の立つことだらけになるのですから、そんなに日がな一日ぶらぶらしていられるわけもないのです。

ウランバートルでは生活に必要な最低コストが日に日に上がってきているのを実感します。
そして、その必要最低限のコストを補填するための仕事にありつくのはとても大変なのです。

自立しようとする人は、必死になって、本気で知恵を絞り、カラダを使って、しゃかりきにならなければいけません。

ビジネスに長けた人になると、外国人と恋愛関係になって受けるメリットよりも、自分の力でのし上がり、モンゴルで基盤を築くことのやりがいに喜びを感じるようになってくるんじゃないかなぁ、って思います。

結局は、モンゴル人はモンゴル人が好きで、モンゴル人であることにプライドを持っているから。

てなことを考えると、最終的に、友白髪を夢見るっていうのは、今のスッテンテンの状況では望み薄。またどーんと裏切られて、いやーな思いをしそうな感じもたっぷりです。

人間不信ということではなく、自分の年齢やおかれた環境を冷静に考えると、今は愛だ恋だということに自分の生活を乱されるよりも、お金をもう一度、財産といえる規模まで育て上げて、自分がやりたいことをきちんとやり遂げられる基盤を作ることのほうが大切です。

今辛いってほどに金銭的な困窮感はないけれど、収入もなく、一日分の食事をいかにとるか、とか2週間とか3週間に一度、食料を買えるかどうか、ぐらいの切羽詰りかたをしてみれば、お金の大切さが身にしみます。

お金がないばっかりに、健康を害しても病院にもいけない、日本にも帰れない。
このまま死んじゃうんじゃないかって不安に陥ったりしたときに、いくらモンゴル人が「君を好きだ」だのといってくれたところで、どうでもよくなります。

愛情ばっかりタップリ表明されたところで、実際に何の役にも立たない人など要らぬ。

お金は所詮お金であり、名前が書いているわけでもなく、自分の手にいつまでも留めておいて価値を発揮するものでもありません。
お金は使ってこそ、初めて、その価値が出てくるのです。

あまり自分のためにお金を使うというチャンスがないので、美味しいものを食べる、とかぐらいしか使っていないけれど、いざって言うときのためにキープしておくための金額っていうのを設定しておかないと、やはり不安です。

誰かにお金を貸すってことができない、理由として、「今、金がないから」と胸を張っていえるのは、安心だけど、やっぱ、むなしかったりします。

お金をいくら与えても、そのことで、悔やんだりしない、困ったりしない人になれればいいけれど。

お金が必要な人にサポートすることに惜しいとかって感覚はないのですが、でもその前に、もう少し、モンゴル人は自分がやりたいことのために自分でお金を稼ぐっていう自立精神を修得すべきだと思います。
お金を工面する、というのが、どこかの誰かからお金をもらったり、借りたりして、当座をしのぐのではなく、自分でお金をきちんとコントロールできる理性というか管理能力をもっともっと重要視しなければ、愛だけでは解決できないことが、このモンゴル国の生活ではたくさんあるのです。

自分がにっちもさっちもいかない状態になったとき、これがないと動けないっていうのは、お金でした。
愛情がいくらあっても、金がなければ動けなかったのです。

精神論からすれば、愛は「お金では買えない」プライスレスな尊いものなんだろうけれど、同時に「愛はお金のようには働かない」っていうところもまた事実です。
「愛」をお金のように動かそうとしているのが、モンゴル人の「親しくなった外国人にお金を無心する」という生き様であり、私はそういうのは虚しいし、日本人としてお金にきれいな環境の中で育った常識人だったら、幻滅するし、長い安定的な信頼関係とか健全な人間関係や友情、恋愛関係を構築し、はぐくんでいくのは無理だという結論に至っております。

お金を工面してくれない外国人でも、その人柄に敬意を払い、いつまでも付き合い続け、自分のことは自分でできる、外国人に対して献身的に誠実に親切で、外国人に対して迷惑を一切かけずに生活できている、というモンゴル人を私は心から尊敬するし、そういう人がいることで、モンゴルに対する絶望から逃れることができています。

つまりは、私に対して愛情を示してくれるモンゴル人よりも、お金に対してクリーンで親切なモンゴル人の方が、私にとっては、プライオリティの高い友人である、ということです。

この辺のバランス、留学時代は、とても簡単だったのに、ビジネスを始めると、とても難しい・・・

モンゴルにいる日本人ビジネスマンという規範から外れすぎているせいだろうなぁ・・・

「お金を工面してくれないから、離れていく」モンゴル人っていうほうが、「恋愛関係が破綻したから別れることになった」モンゴル人よりも数百倍も虚しく、切ない存在に思えます。