モンゴルに戻ってくる直前は、クリスマスあたりから実はちょっぴり鬱々でした。
仕事に前向きにならない自分が嫌だったし、片思いのうじうじする自分も可愛くなかったし、お金はないし、、、と落ち込むというよりは、無気力状態で。

大事なこと、最優先事項や、義理のある人から優先的に後ろ向き・・・
逆行だよ!いい大人なのに、って感じで。

やりたくないことから、やってかないと、ほんとに何にもやらなくなりそうで。
ほんとは、息するのも嫌なくらいのテイタラク。

友達が元気で、幸せそうなのも、「はい、よかったね」というのが、クセモノ。
素直に喜びを分かち合ってあげようよ、といういつもの自分はどこへやら?
「はい」というのがすでに嫌な感じだもんね。

余裕がないわけじゃないのに、優しさが消えた自分にさらにダメ人間っぽさを感じて「だからダメなんだ」というダメだし連発。
無気力でもしょうがないから、笑っちゃおう、とひたすら見まくった正月のお笑い番組。
気はまぎれても、元気でがんばろうってほどのパワーはないんだなあ。。。
「八時だよ!全員集合」のドリフターズはすごかったなぁ。
ヒゲダンスは翌日、学校で挑戦する輩が必ずいたモンね。

自分もがんばろうって思えたモン。

モンゴルでは一人暮らしで、基本的にもう頼れる人は誰もいない孤軍奮闘が当たり前なので、必然的に、無気力症候群やパニック症候群、鬱状態からの脱却も自分自身で対処するしかありません。
まぁ、お金もないので、日本でこういうことになったとしても、病院いかずになんとかしようとすると思うけど。

そもそもが、ダメなときはダメな自分を受け入れるってところから始めます。
そして、世の中、もっとダメな人がいる、ということを思い浮かべてみます。
失礼な言い草かもしれないけれど、世間的に「ダメな人」でもそれなりに生きてるし、経済的に浮き上がれそうにない人たちでも案外コミュニティで楽しく、というか、自分らしい小さな幸せを感じる瞬間っていうのはあるはずなんです。

そんなささやかな幸せというのを自分の心の中に見つけてみる。

極寒の屋外で焚き火の火を作るときもそうなんだけど、最初から、大きな理想的な薪なんかには火はつかないのです。
そして、濡れ落ち葉じゃなかなか火はつかないのです。
最初は、小さな枯れ葉やカラマツの小枝をぱきっと木からいただいたり、樺の皮なんかから始めて、小さなマッチの炎が、マッチより少しだけ大きなものにしっかり燃え移ったところで、少しずつ、そんな小さな燃えるものを山にして、回りをしっかり脂分のある枝や割った焚き木なんかでやぐらにして、炎を守りながら、空気の通り道を確保しながら、焚き火を育てていくのです。

直径10cmくらいの薪に火がしっかり燃え移ったら、もうそんなにフーフー息を吹いて、オレンジ色の炎があがらなくても大丈夫。
むしろ、一旦火が落ち着いたら、空気も適度に入れて、そんなに早く燃え尽きないようにするほうがいい。

幸せと一緒なんだって、心が寒いときは、極寒のタイガでくっついていった狩りの日を思い浮かべるのです。

一時帰国中にあいたくてもあえなかった人、年賀状を出そうと思ってメールで済ませちゃった人、連絡したくてしたくて仕方なかったのに、結局連絡しなかった人。
たくさんいすぎて、自分の社会人としての適性が低くなっていることは否めないんだけど、それもまた私なのです。

幸せになりたくて、なりたくて、仕方がないのに、完璧を求めすぎて、自分で自分の幸せを壊してしまう。

大きく燃えすぎた焚き火が燃え崩れてしまうように、自分の心は実に脆くて。

でも、そういう脆さも含めて私に必要なことなのかもしれないなぁ、なんて今は考えるのです。

どれほど落ち込んでも、自己完結的に即時リカバリーできる、へこたれない。

後輩や友達のなかには、私に対してそんなイメージを持ってくれている人もいるようです。
それはそれで嬉しいんだけれど、自分がどーんとダメダメ人間の防衛本能だったり、自分が何度となく味わう、そして多種多様なダメダメぶりがあるからこそ、誰かの相談ごとや泣き言や悩みなんかを受け止めたrい、聞いたりしたときに、一緒にひきずられずに、少しだけ、ささやかな焚き火を作って、一緒にあたれる余裕があるのかもしれません。

他人の悩み相談を解決なんかできない。
相談されても私には、他人の人生まで背負い込めないし、無責任なこともいえない。

私にいえるのはタダひとつ。
それは自分に対しても同じことなんだけれども、「自分が信じた道を行こう」ということだけ。

失敗したっていい。
誰かが「こうしたほうがいい」と的確なアドバイスをされて、それに納得して従うのもいい。
でも、何よりも、自分の心と理性と直感を大事にして、一度決めたら、なりふりかまわず進んでしまえばいいと思うのです。

なりふりかまわず、自分の衝動のままに突き進むことで、誰かに迷惑をかけるかもしれないけれど、自分自身に嘘をついて、他人に言われた道を進んでも、結局、どこかで障害にぶち当たる。
あるいは自分らしさからかけ離れたところで、人生の迷い子になってしまう。

ろくでなしって罵られてもいい。
最低の女と言われても、社会人失格といわれてもいい。
親不孝モノといわれるのはちょっと哀しいけれど、うちの両親はそんなことを言って、私の決心を鈍らせるような人たちじゃないから、あんまり心配していない。幸い、立派な弟がいるので、私はいつ野垂れ死にしてもかまわないのですから。

自分がこんな風に生きているせいか、最近は、誰かの人生を否定することも批判することもしなくなって、すごく気が楽です。
自分の好き嫌いが、はっきりと自分でわかるようになってきたし。

自分が何かに迷ったときに、「でも」という言い訳や反論が心の中で響いたときは、やらない方がいいというのがひとつの判断基準です。

「でも」や、嫌な予感が充満して、行きたくない道でも、追い込まれていかなきゃいけないことだって、大人になればいくらでもある。
ならば、そういうときは、自分がズタズタになる覚悟を決めて、自分の意志を強く持って飛び込んでいくしかないんです。傷つくことは百も承知のすけたろう、でね。

肉を切らせて骨をたつ、という剣の教えのとおり。

でも肉を切られて、骨も切られてしまうことだってあるんだなぁ、人生って。

それでも、自分の心まで切られなかったら、いつの日か、また違う形で闘えるようになるんだから、あきらめない。

結果はすぐには出てこないこともあるし、出た結果がいつもよくって、「思い描いたことがいつも実現する幸せな強運を持って生まれた」人ばかりでもない。
自分がそういう強運の持ち主だから、今の苦境も必ずよい方向に導かれるためのワンステップなんだって思いこむのもよいでしょう。私はそんな思い込みはできないから、「ケ・セラ・セラ」ってシニカルに受け止めちゃって自分なりにあがくか路線変更するかを決めちゃうけれど。

仕事が始まれば、アドレナリンやらドーパミンやら、興奮状態にする脳内麻薬とかいうものが、駄々漏れになりがちな私ですから、なんのやる気もない無気力なベタなぎ状態もたまにはあってもいいのかもしれません。

極端から極端に走るのも、大人の女性としてはどうかと思いますが、まぁ、そういう私を受け入れてくれる友達も何人かはいるわけだから、ま、いっか。

なんだかんだといって、実は、かなり仕事もお金も人生も「どうでもいいや」という気持ちがいつも心の片隅に潜んでいるブラックな私。

無気力状態だったと言葉にできるようになっただけでも、自分的には上出来です。