泣くのと笑うのどっちがスッキリする? ブログネタ:泣くのと笑うのどっちがスッキリする? 参加中
「泣いたってしょうがないじゃない!」
子供の頃、誰もがそんな風に叱られたことあるんじゃないかしら?
赤ちゃんの頃は、泣くこと自体が数少ない意思表示だから許されるけれど、言葉を覚えてからは、「ちゃんと口で説明しなさい」って躾方針。
子供の頃に、「泣いて意志を通す」手段を封じられた大人は、「涙の使い方」が苦手な人になっちゃう傾向があるそうです。

私は長女だったし、弟が首にへその緒を巻きつけるというのっぴきならない状態で生まれて以来、親がそういったわけでもないのに、「お姉ちゃんでしょ」的な我慢が習慣的になりました。
女の子なのに、べそをかけば「女の腐ったのみたいに泣くな」と一喝されて家から放り出されて、物置で筵にくるまって一夜を過ごしたこともあるし。
そんな幼少期を送っていると、定説どおりの「泣きベタ」な女になってしまいました。

赤ちゃんの頃は、それこそ、近所に暮していた母方の実家や親戚宅に預けらると「ぎゃーぎゃー」泣き喚き、チョコマカと動きまくり、「もうへとへと。二度と預かりたくない」と言われるほどだったのに。
誰も要求してないし、期待もしてなかったのに「お姉ちゃんだから」と責任感に燃えていました。
弟には生まれてからこのかた「お姉さん扱い」されたことはないのに、発育環境でこびりついた損な性格。

スッキリしたいときって、悔しいことや哀しいことがあるときで、辛いとか痛いとか苦しいという状態で涙を流すことは子供の頃から皆無に近かったです。転んで膝が割れたとか、鉄条網がまきついているフェンスの上で平均台ごっこしてこけて、太腿をざっくり切って血が止まらなくなった、とか、階段から転げ落ちて両足首の靭帯を損傷して歩くことも出来なくなった、とかそういう類の痛みでは泣けません。

自分の成績が落ちたとか、試験がうまくいかなかったとか、失恋したとか、そういうことでも泣けません。
泣いても仕方がないもんね、というわけで、自分の至らなさが原因とわかっていることについては、時間が解決してくれるまでほっときます。

スッキリしたい、というのは、自分ではどうしようもないモヤモヤを心の中に抱え込んでいる状態ですよね。

思いがけず涙が流れて、心が洗われるようにスッキリした!初体験は、2008年3月にウランバートルでプロテスタント系の教会の礼拝に友達に連れられていったときのこと。

モンゴルで合弁会社を起業して、ようやく経営っぽいやり方も覚えてきて、仕事もガンガン入ってきて、夢中になってがんばっていたら、私が仕事に夢中なってた絶頂期に、突然、共同経営者だったモンゴル人たちが謀反を起こし、精神的な嫌がらせや脅迫を受け、ついでに会社の財産を指し抑えられ、司法の場で戦おうにもどうしようもないっていう状態になって、すっかり孤独になっていた頃。

全面的に、家族のように信じていた人から裏切られるって、すさまじいことです。これまで想像したことがなかったくらいの深い絶望と恐怖に襲われました。
自分にも非があったのだと反省しても、そこまでされる理由がわからない。自分に対しても他人に対しても強烈な人間不信。

やけっぱちで、ウランバートルで近づいてくるモンゴル人全てに牙を向き、威嚇したいくらいの気持ちになっていたときに、たまたまセミナーの講師を一緒にやっていた同僚が、「私も人生何もかもがうまくいかないって思ったときに、神様と向き合い神様を受け入れたら、すっごく楽になったよ」と連れて行ってくれたのでした。

「騙されたと思って」、「今より悪くなるわけがない」なんて気持ちでくっついていったのに、教会とは名ばかりの、ただの公会堂のコンサート用の大講堂が礼拝の会場で、賛美歌はとってもポップ調。子供の頃に祖父母にくっついて通っていたカトリック教会とはまったく別モノ。アメリカで行っていたどの教会よりもみすぼらしくて。
でも、みようみまねで頭をたれて、素直に自分を何かにゆだねようって思った瞬間に、未だかつて流したことがないようなすさまじい流量で涙が流れ出しました。驚いたのなんのって。
泣きじゃくる、というのではなく、ただひたすら、流れまくる涙。私は静かに誰にも見られないようにうつむきながら泣いていました。心が洗い流されているのを感じました。
あんまりジャージャー流れるので、そのうち笑いがこみ上げてきちゃいました。

涙というのは、心のモヤモヤを洗い流す浄化作用があるんだ、としみじみ思いました。
私は実に10ヶ月ぶりに声をあげて笑ったんです。

自分の心のモヤモヤをスッキリさせようと意図的に泣こうとしても、泣けないモンです。
涙が涸れるまで泣いてスッキリしたっていうのは、教会にいった初日だけで、それはとても霊的な経験だったのかもしれないけれど、それ以降は、モヤモヤをスッキリさせたい、なんて思ってもちっとも泣けません。

逆に、どれほど哀しいことがあっても、落ち込んでいても、すさんでいても、孤独でも、笑い声をあげて、ピョンピョン飛び跳ねれば、気持ちは段々アップテンポになってきます。

問題解決の手段にはならないし、一時的に気が晴れるだけなんだけど、それでも、笑うっていうのは大事なことで、涙と違って、笑うというのは、簡単。
声を出して、「わっはっは」って唇の端っこをひきあげて笑顔を作れば、笑えます。
笑いたくないって思ってても、笑おうとしているうちに、段々、笑顔が緩んできます。
顔の筋肉を緩め、それから肩の力を抜いて、両腕をうんと伸ばしてグルグルまわして、前屈、後屈、アキレス腱のストレッチ。

手をぶるぶる頭上に高くあけて、震わせながら、笑い顔を作っている自分の姿を鏡に移せば、それだけであまりの滑稽さに笑えてきちゃいます。

「こんなに落ち込んで、惨めで、最悪な気分なのに、私はなんと馬鹿馬鹿しい格好しているんだろう」的に思わず笑っちゃうんですね。

大好きな「世界のナベアツ」の「3の倍数でアホになります」も効きます。
ナベアツさんのあのギャグの素晴らしさは顔芸であり、他人をあざ笑ったり、誰かを貶めたりすることなく、ただひたすら自分だけを使っていることと、その単純さをバリエーションでますます面白くさせていることです。

笑うっていうのは、反射なんだそうです。
口角を引き上げて、目じりを下げて、顔の筋肉を柔らかくすれば、笑顔になります。
そして、笑顔を作るための筋肉を使っているうちに、気持ちもハッピーになるんですって。

涙を流すのも同様で、最初は自浄作用で泣き出しても、いつまでもメソメソ、グスグスしていると、心も哀しくなってきちゃって、なんで泣いているのかわからないけれど、哀しくマイナーコードな気分になってしまう。

だから、泣いた後は、自分でちゃんと笑いで、ストレスもモヤモヤも、吹き飛ばさなきゃ。

涙で人は救えないけれど、笑いはたくさんの人を救います。
だから、「お笑い」が人気なんだし、伝統芸能なわけで、世界中のどこでもユーモアやジョークっていうものが大事にされている。
ユーモア、ジョークのセンスっていうのは、多種多様な文化にあわせて発展しています。

でも、泣くっていうのは、世界共通。それは人間の本能であり、赤ちゃんの頃から備わっている基本スペックで、「泣き方」のバリエーションはそんなに発展していません。自然のままに、本能のままに、泣くのもいいけれど、大人になったら、やっぱりどんなにへこたれても、自分で自分を引き上げて、ハッピーになるように努力せねば、ね。

自分に素直になるために、がんばりすぎちゃった、意地っ張りな自分を洗い流すために、泣くのはOK。
でも、「素直な自分」が「泣くこと」で表現できる自分なのか?っていうと、そんなことないわけで。

やっぱり、私がスッキリするのは、とびっきりの笑顔になれたときです。

泣き顔、べそかきの私は、ほんと醜い。情けなくなるほどブチャイクでがっかりしちゃう。
なので、いくら泣いて心が洗われたとしても、できるだけ早く、チーンと洟をかんで、涙を拭いて、にかーっと笑います。
涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになってても、にぱーって笑う私は可愛い。光輝いている。。。はい思い込みです。
思い込みでイインデス。気持ちが明るくなってスッキリするんだから。
少なくとも泣き顔よりは笑顔の方が可愛らしいもんです。

広島の子守唄にもあります。「起きて泣く子の面憎さ」ってね。

モヤモヤすることはいっぱいのモンゴル生活だけど、素直な気持ちで、泣いて笑って、、、とにぎやかに暮しています。
一日の始まりと終わりに笑顔でいられれば、モヤモヤっていうのも、それほど悪いモンではなくなります。