ブログネタ:【日テレ・宮﨑宣子アナからのネタふり】男女の間に友情は成立する? 参加中職業・年齢・性別・家庭の事情も様々な人たちがワイワイやる集まりやお食事会でのこと。
普段がモンゴル暮らしの私にとっては、どの人も会うのがとっても楽しみな、素敵な人たちなわけで、初対面の人とお知り合いになって、話題を盛り上げるのもいいけれど、やっぱり10年来、20年来の昔馴染みと席が近くなるもんです。
徒歩移動中も、人眼がきにならないほど、2人で盛り上がって、ふと気がついたら、2人だけ迷子になってたり、先に行きすぎちゃってたり。
込み合った車内で揺れの多い路線なんかだと、吊革に届かない私は、ついつい、彼のコートの裾をきゅっと握ってたり、背が高い彼だと、私の頭上や肩越しに腕をのばしてスペースを作ってくれてたりって自然にやってしまうのです。
笑い上戸の私は、誰かの話に大ウケすると、ついつい、両手でパンパン拍手をし、のけぞり、そして近くの人の肩や胸に顔をうずめて笑いをこらえる癖があり。
相手の人もまた、そんな私に慣れてるし、ちんまりイスに座ってられなくて、ついつい私の椅子の背もたれまで使って、腕をリラックスしたりするため、初対面の人にとっては、私の背中に腕をまわしているように見えるらしい。
全然気にしてない私たちは、お互いの片想いの「恋バナ」をあけっぴろげに語り合い、お互いの不毛な「魅力」を誉めたたえあいながら、「あなたのそんなところが好きなのよー」とか言い合っちゃう。
海外生活もわりとよくあることで、ハグハグするのが好きなラテン系の私たちは、まわりからみたら「ちょっとE感じ」らしい。
最近、やたらと、「あの人が旦那さんですか?」と確認ではなく、もうちょっと進んで、「モンゴルと日本で別居で大変ですね。(旦那さん、よく許してくれますね)」みたいなニュアンスが含まれていたりするので笑っちゃう。
相手の人も、そんな風に言われているようで、「いやいや、彼女は友人です」とか「悪友です」とか笑いながら否定している声が聞こえてくる。
面白いから「今はねー」とかってちゃちゃを入れる。そして相手もね。
この辺は大人のウィットでごじゃる。
惚れっぽいくせに、やたらと恋に奥手な私たちは、ほんとに好きな人の前では、実はちっとも「自分らしさ」が発揮できない、不自然ロボットになりがちなため、気の置けない相手には思いっきりざっくばらんで、はちゃめちゃなおこちゃまになっちゃうのです。
男女間でも友情が成立するって、当たり前のことでしょう?
「恋をする」という感覚は、もう「友達感覚」と次元が違う。
好きな人のそばにいる私は、心拍数も意識の仕方も全てが、特別な存在で、自己をえぐるようなもどかしさで、自分がまったくの別人格のでくのぼうになってしまった気がするのです。
それはそれで、「相手を求める」というめったにない感覚と体験がすばらしい幸福感を得られるんだけど、同時に、幸福と背中合わせの絶望感も味わってるんだよね。
友達に、性別も年齢も関係ないし、お互いを認め合い、時に「きっつい一言」でガツンとやりあえる存在って、ひとりに限定できません。
何かを共有しあえる「仲間」は、心がいっぱつで共鳴し合うからすぐに見つかる。
この「仲間」意識っていうのは、べったり感をもりこまずに、何があっても最後の最後の一線では揺るがない絆。
「恋人になりたい」という欲望は、一か八かで、その中間はない。
「恋人になれない」んだったら、その人との付き合いはなくてもいい。
自分に恋愛感情を抱いていない、あるいは私の恋心にいつまでも気づかないなら、その人は「恋人」的存在としては無価値です。いらいらしちゃって、彼の食事の仕方やボールペンの握り方まで憎んでしまう。
いとおしいと思っていたしぐさほど、憎らしくなってくるから、恋愛感情って厄介だ。
恋愛感情って、理屈じゃないし、こればっかりは、「人の縁」だと思うので、必勝作戦があったり、努力で成果があがったりってものじゃないですもんね。
ひとつの恋が終わりと告げる時は、始まりと同じく突然で、一気に「さめる」。
ごめんねー、と勝手に恋して、勝手にふっているのです。失礼な話ですよね。
恋愛対象者以外の人には、私はものすごく寛大でいくらでも愛情を振りまけるのに、どうして、恋愛対象の相手には厳しくなっちゃうんだろうか?不思議です。
友達が恋人よりも価値が低いわけでも、恋人が友達より価値が低いわけでもない。
この二つ、完璧に異質な存在だから、比較対象になりません。
地球上の人口がどれほど爆発的に増大しようが激減しようが、恋人になりうる人の数が1なのに対し、異性の友人というのは、数の制限をする必要はなく、気が合えばいくらでも友情成立可能。
先日から、いろんな男性が、「私の旦那」さんと勘違いされているわけですが、それって私は、実は「奥様向き」な雰囲気があるってことだろうか?
あるいは、恋人同士には見えなくても、いきなり「夫婦」に見られるってことは、実は夫婦という男女関係
というのは、合法的な性行為が認められた究極の友情が成立した状態ってことなのかもね。
「この人が恋人だったらつきあうの、めんどくさいだろうなぁ」と思う人とでも、「夫婦としての家庭生活」を想像するのは、わりかし、誰とでもちょっと仲良しの男友達なら簡単だったりするぞ、と。
だから、性行為が皆無でも夫婦っぽく見られるのでしょうか?
夫婦っぽくみえるからといって、実際に夫婦生活を送ろうとしてうまくいくことはないと思うけど。
やっぱ、夫婦には恋愛感情という触媒が必要不可欠ですね、私にとっては。
結婚願望がないわけではないけれど、たぶん、たった一人の人と「結婚」という関係を築くには、私の周囲には、「結婚生活を想像しうる相手」が多すぎるんだなぁ。
そして、お互いが相手を大事に、でも「性対象」として、恋人になる境界線を飛び越えようというほど切羽詰まったりするつきあいでもないために、いつまででも、「私たち、ちょっとE感じ」な雰囲気を楽しめてしまうのねー。気が合うからって、必ずしも「性欲」がわくってものでもないのだなぁ。不思議だ。
人が好きっていうのがまず最初にあるから、男も女も関係ないっす。
あわよくば、よいタイミングで、性欲含めて、盛り上がる男女関係が築けて、それを長続きできたら、結婚って形に成就するんだろうけどね。
きっと、男女間で友情を成立できない人は、その人がセクスィーすぎるからなんじゃないかなぁ?っと、ぬいぐるみ的な愛らしさで、老若男女かかわらず、公衆の面前でもぎゅっと抱きしめられるキャラの私は思います。
普段がモンゴル暮らしの私にとっては、どの人も会うのがとっても楽しみな、素敵な人たちなわけで、初対面の人とお知り合いになって、話題を盛り上げるのもいいけれど、やっぱり10年来、20年来の昔馴染みと席が近くなるもんです。
徒歩移動中も、人眼がきにならないほど、2人で盛り上がって、ふと気がついたら、2人だけ迷子になってたり、先に行きすぎちゃってたり。
込み合った車内で揺れの多い路線なんかだと、吊革に届かない私は、ついつい、彼のコートの裾をきゅっと握ってたり、背が高い彼だと、私の頭上や肩越しに腕をのばしてスペースを作ってくれてたりって自然にやってしまうのです。
笑い上戸の私は、誰かの話に大ウケすると、ついつい、両手でパンパン拍手をし、のけぞり、そして近くの人の肩や胸に顔をうずめて笑いをこらえる癖があり。
相手の人もまた、そんな私に慣れてるし、ちんまりイスに座ってられなくて、ついつい私の椅子の背もたれまで使って、腕をリラックスしたりするため、初対面の人にとっては、私の背中に腕をまわしているように見えるらしい。
全然気にしてない私たちは、お互いの片想いの「恋バナ」をあけっぴろげに語り合い、お互いの不毛な「魅力」を誉めたたえあいながら、「あなたのそんなところが好きなのよー」とか言い合っちゃう。
海外生活もわりとよくあることで、ハグハグするのが好きなラテン系の私たちは、まわりからみたら「ちょっとE感じ」らしい。
最近、やたらと、「あの人が旦那さんですか?」と確認ではなく、もうちょっと進んで、「モンゴルと日本で別居で大変ですね。(旦那さん、よく許してくれますね)」みたいなニュアンスが含まれていたりするので笑っちゃう。
相手の人も、そんな風に言われているようで、「いやいや、彼女は友人です」とか「悪友です」とか笑いながら否定している声が聞こえてくる。
面白いから「今はねー」とかってちゃちゃを入れる。そして相手もね。
この辺は大人のウィットでごじゃる。
惚れっぽいくせに、やたらと恋に奥手な私たちは、ほんとに好きな人の前では、実はちっとも「自分らしさ」が発揮できない、不自然ロボットになりがちなため、気の置けない相手には思いっきりざっくばらんで、はちゃめちゃなおこちゃまになっちゃうのです。
男女間でも友情が成立するって、当たり前のことでしょう?
「恋をする」という感覚は、もう「友達感覚」と次元が違う。
好きな人のそばにいる私は、心拍数も意識の仕方も全てが、特別な存在で、自己をえぐるようなもどかしさで、自分がまったくの別人格のでくのぼうになってしまった気がするのです。
それはそれで、「相手を求める」というめったにない感覚と体験がすばらしい幸福感を得られるんだけど、同時に、幸福と背中合わせの絶望感も味わってるんだよね。
友達に、性別も年齢も関係ないし、お互いを認め合い、時に「きっつい一言」でガツンとやりあえる存在って、ひとりに限定できません。
何かを共有しあえる「仲間」は、心がいっぱつで共鳴し合うからすぐに見つかる。
この「仲間」意識っていうのは、べったり感をもりこまずに、何があっても最後の最後の一線では揺るがない絆。
「恋人になりたい」という欲望は、一か八かで、その中間はない。
「恋人になれない」んだったら、その人との付き合いはなくてもいい。
自分に恋愛感情を抱いていない、あるいは私の恋心にいつまでも気づかないなら、その人は「恋人」的存在としては無価値です。いらいらしちゃって、彼の食事の仕方やボールペンの握り方まで憎んでしまう。
いとおしいと思っていたしぐさほど、憎らしくなってくるから、恋愛感情って厄介だ。
恋愛感情って、理屈じゃないし、こればっかりは、「人の縁」だと思うので、必勝作戦があったり、努力で成果があがったりってものじゃないですもんね。
ひとつの恋が終わりと告げる時は、始まりと同じく突然で、一気に「さめる」。
ごめんねー、と勝手に恋して、勝手にふっているのです。失礼な話ですよね。
恋愛対象者以外の人には、私はものすごく寛大でいくらでも愛情を振りまけるのに、どうして、恋愛対象の相手には厳しくなっちゃうんだろうか?不思議です。
友達が恋人よりも価値が低いわけでも、恋人が友達より価値が低いわけでもない。
この二つ、完璧に異質な存在だから、比較対象になりません。
地球上の人口がどれほど爆発的に増大しようが激減しようが、恋人になりうる人の数が1なのに対し、異性の友人というのは、数の制限をする必要はなく、気が合えばいくらでも友情成立可能。
先日から、いろんな男性が、「私の旦那」さんと勘違いされているわけですが、それって私は、実は「奥様向き」な雰囲気があるってことだろうか?
あるいは、恋人同士には見えなくても、いきなり「夫婦」に見られるってことは、実は夫婦という男女関係
というのは、合法的な性行為が認められた究極の友情が成立した状態ってことなのかもね。
「この人が恋人だったらつきあうの、めんどくさいだろうなぁ」と思う人とでも、「夫婦としての家庭生活」を想像するのは、わりかし、誰とでもちょっと仲良しの男友達なら簡単だったりするぞ、と。
だから、性行為が皆無でも夫婦っぽく見られるのでしょうか?
夫婦っぽくみえるからといって、実際に夫婦生活を送ろうとしてうまくいくことはないと思うけど。
やっぱ、夫婦には恋愛感情という触媒が必要不可欠ですね、私にとっては。
結婚願望がないわけではないけれど、たぶん、たった一人の人と「結婚」という関係を築くには、私の周囲には、「結婚生活を想像しうる相手」が多すぎるんだなぁ。
そして、お互いが相手を大事に、でも「性対象」として、恋人になる境界線を飛び越えようというほど切羽詰まったりするつきあいでもないために、いつまででも、「私たち、ちょっとE感じ」な雰囲気を楽しめてしまうのねー。気が合うからって、必ずしも「性欲」がわくってものでもないのだなぁ。不思議だ。
人が好きっていうのがまず最初にあるから、男も女も関係ないっす。
あわよくば、よいタイミングで、性欲含めて、盛り上がる男女関係が築けて、それを長続きできたら、結婚って形に成就するんだろうけどね。
きっと、男女間で友情を成立できない人は、その人がセクスィーすぎるからなんじゃないかなぁ?っと、ぬいぐるみ的な愛らしさで、老若男女かかわらず、公衆の面前でもぎゅっと抱きしめられるキャラの私は思います。
