【すんも賞を狙え!!】「ありがとう」と「ごめんね」どっちが苦手? ブログネタ:【すんも賞を狙え!!】「ありがとう」と「ごめんね」どっちが苦手? 参加中
「ありがとう」も「ごめんなさい」も日常生活で、TPOを的確に使えることが必須の挨拶ですよね?
こういう必須のものに、「どっちが苦手?」という二者択一をするのは社会人として問題あり。

どちらも正しく使えるようでなければ、特に日本のような国では生活がしづらいのではなかろうか?

苦手意識を持つというのは、つまりは、「上手に使いこなす」のが難しいから。

「ありがとう」がプラスなら、「ごめんなさい」はマイナスの感情というイメージがあります。
ありがとうは笑顔で言えるけど、ごめんなさいは、申し訳ないなっていう気持ちがホントにあったら、謝る方は笑顔にはなれないはず。

「ごめんね」は、あまり使いません。
謝罪しなければいけない時は、「ごめんなさい」か「すみません」か「申し訳ありませんでした」という言葉を使います。
そして、許してほしい、という気持ちがとても強い。
「ごめんね」は、言い方として謝罪になっていないゾ。
友達同士以外では使うとむしろ逆効果では?
日常生活で頻繁に使う言葉だけれど、私はモンゴル人に日本語を教える時は絶対使いません。

日本ほど、軽々しく、「ごめんね」とは言わない民族のほうが世の中には多いんじゃないかしら?
「自分の方が悪かった」と認めることは、モンゴル人はほとんど皆無、に近い心理。
「許してもらって当然」というようなミスに対して、便宜上使うっていう感じで、「よりによって・・・」という取り返しのつかないダメージについては、出来る限り発覚を引き延ばそう、誰かに責任転嫁しよう、としています。その際の責任回避の「言い訳」の発想は、度肝を抜かれるほど芸術的というか、コントみたいです。
こういうことを「おろか」というなかれ。
失敗=死という緊張感を土台に生き抜いてきた世界で培われた処世術なのですから。

「ごめんなさい」という謝罪は、どうしても謝罪する方が「下」、謝罪される方が「上」みたいな心理上の上下関係が生ずるから、いずれにせよ、「謝罪の要因」をはさんで、気まずいし、謝罪される側の度量に、謝罪の成果が委ねられ。この流れは、難しいですね。上になっても、下になっても。

それに対して、ありがとうは、言われて嫌な気になる人はあまりいませんね。

日常生活で「ありがとう」の連発は人間関係の潤滑油。
あんまり軽々しく使うよりも、「--をしてくれて、ありがとう」というように、何に対して喜んでいるのかをはっきり伝えるようにしています。
それと、「ありがとう」と並列して、「嬉しい!」ということを伝える表現を豊かにすることを心がけています。
それは、自分がただ「ありがとう」って言われたときに、「お礼を言われるほど大したことしてないのにな」って思ってしまう天の邪鬼だから。

そして、モンゴルの場合だと、「ありがとう」=「何かの謝礼」・見返りを外国人に期待するモンゴル人も多いので、うっかり「ありがとう」の大安売りをすると、いつか、どこかで、「お前に対して、あれもしてやった、これもしてやった。ありがとういうばっかりで、お礼は何もしないのか!」とそれまでの「ありがとう」の蓄積の見返りとして、こちらが想定外の金品を要求されるという暴発で人間関係が一気に崩壊することもあるからです。

「ありがとう」は、「ありがとう」で、正しく使わないと、とんでもないことになるっていうのは、日本ではあんまりないかもしれないけれど。

どっちにしても、挨拶というのは、本心から相手に伝えたい誠意を持って使い、挨拶のやりとりの中で完結できるように心がけるべしっていうのが、モンゴルでみつけた処世術です。

あと、モンゴルでは、自分がおおらかになって、モンゴル人が何をしたとしても、「ごめんなさい」をいうのが当然なのに、ってイライラしないことが肝要。
あんまり正しいビジネスマナーを、と躍起になって、「教育的指導」をしても、根本的な心理発育の過程が違うのですから、本人が「本心からそうしよう」と受け入れる環境が整っていないうちは、逆効果。
それって、最近の「逆ギレする若者」が多い日本でも同じことかもしれません。

自分がモンゴルで生き抜くために心がけているのは、「相手の謝罪の前に相手を許す」ということです。
相手の謝罪があってから、許すよりも、その前に相手を許してしまえば、自分が気が楽です。
要は、にっちもさっちもいかない「相手」よりも、問題解決を自分で対処する余地のある「問題解決」に集中するほうが、よっぽど自分にとって有益だから。