ブログネタ:恋人は自分と似ている方がいい?真逆がいい? 参加中好きになる人、というのは自分と同じタイプではないことが多いです。びっくり箱をあけるのが好きだからか、あんまり自分に似たタイプの男性というのがいないからか?
真逆という人はそもそも、私と恋人同士になることはないと思います。
自分のベースになっているものが、わりかし頑固に根をおろしているので、価値観の骨組が似ている人ではないと、長く両想いというバランスを取るのは難しいんじゃないかしら?
だから、おつきあいまで発展する「想い人」やボーイフレンドというのは、一緒に仕事をしていたり、合宿や旅行など一緒に1か月余り、同じ釜の飯をくらい、テントのような空間をともにして、ある程度の見定めがあった人なのでしょう。
自分でも意外だったのは、「クラシック音楽を否定する」人、あるいは「クラシック音楽を理解できない」人は、そうだとわかった時点で、自分の中では、「なかったことにしよう」とそれまでの付き合いがどれほど「私たちとってもE感じ
」となっていたはずでも、醒めてしまう傾向があるということ。
このブログネタに参加して思い起こして、自分でも初めてその傾向に気付きました。
絶対音感を持っていないというのは別にそれほど問題にはならない。
五線譜が読めなくても別に生活に支障はないと思う。
ピアノ習ってなくても別にかまわない。家にピアノがないうちだってたくさんあるだろうし。(家に2台も3台もあるほうが珍しいよね)
クラシックのコンサートやオペラが趣味じゃなくたってかまわない。
日常生活にクラシック音楽が主要部を占めている必要はまったくないんです。
私だって、普段から積極的にクラシック音楽をきいてるわけじゃないし、ピアノの練習もクラリネットの練習もここ10年まったくまともにやってないし。
サンバのリズムに乗り切れないのも練習不足なわけで、せっかく音楽素養があったはずなのに、台無しって感じだからw
でも、クラシック音楽を理解できない、苦手だって遠ざける人に、私は生涯の伴侶になるかもって愛情は抱けないようです。
時代の積み重ね、当時の社会を反映し、「それが当たり前」という風潮の中から、少しずつ、自分色を加えながら新たな音楽を定められた規定の枠を少しずつ変えながら人類が作り上げていた音楽。
100年たっても200年たっても、それこそ1000年近く前の旋律であっても、現代でもちっとも色褪せることなく感動を呼び起こすことができる芸術。
今はびこっている音楽にどれだけ、あと500年先も生き残っていられるものがあるか?
音符に込められた表現への執念。五線譜が伝える表現力に感動できない人が私を本当に愛せるのか?
おいおい・・・それほどの価値がお前にあるのか?っていう突っ込みは排除です。
そばにいて、セックスして、安心できて、っていうことがないよりも、贅沢をいわずに、誰でもいいぐらい、私でもいいって言ってくれる人をみつけろよ、みたいにいわれるのが一番嫌だ。
一時的な気の迷いや寂しさをまぎらわすために、、、というよろめきがあるのは仕方ないかもしれないけれど、やはり恋人とまでいうならば、そういう妥協は許さない。自分にも相手にも。
クラシック音楽が理解できない、というのは、そもそも自分の感性を磨いていない人であろうし、苦手だって遠ざける人は、食わず嫌い。
自分の血や肉の土壌がクラシック音楽という核の上に育っているので、性格が反対でもかまわないし、容貌も身長も体格も関係ないけれど、目に見えない部分での共通項としての生きざまのクオリアは共通でなければやっぱり長続きしない気がします。
ほんとに素晴らしい演目のコンサートが最高の席で入手できるチャンスがあったとして、チケット代が「2万円もする」なら、街で売ってるCDでいいや、ってあきらめちゃう人はたぶん、私のことも、「彼女よりも、お手頃で可愛いあの子のほうがいいや」って、途中で放り出してしまうでしょう。
音そのものが持つ波動のパワーや魂を、その肌で感じたい、骨に響かせたいと思えない人は、私の人生を抱えきれないだろうから、恋人状態という一時の幸福感にはちきれんばかりだったとしても、もはや「私の幸福感」を共有する相手ではない。
本当に素晴らしい音楽を聞くためならば、それが、たとえ、数時間という一時の、一回こっきりのものであったとしても、お金を惜しんでチャンスをあきらめるのはもったいない。
クラシック音楽に限らないけれど、素晴らしい本物の演奏は、それが二度と巡り合えない一瞬の出来事であったとしても、生涯色褪せることのない感動を与えてくれます。その一生涯を豊かにしてくれる音楽と出会うよりも、何度でも繰り返し聴ける音の本質を切り落としてしまっているCDやDVDで満足できる、という感覚は、私には理解できない。
財布の紐の締めどころと緩めどころといった金銭感覚、経済感覚が似通っているってことは、食事の好みが共通だっていうことよりもよっぽど大事な気がします。
普段の食事や車や家や家具や服などが高級である必要は全然ない。
お金がないから、あきらめるっていうなら仕方ない。次のチャンスが巡ってくるまで、一生懸命に働く目標にすればいいだけのこと。
でも、お金も時間も余裕があるのに、ホンモノをつかむチャンスを捨てたってわかったら、その瞬間、私はその人を見下してしまう。
いざっていうチャンスを自分や愛する人がつかむために、普段の生活はできる限り質素に、簡素に、節約して、世間がどれほど不況にあえごうが、自分たちの心を貧しくしないようにしなければいけない。
口に出して教えられたことはないけれど、我が家の暮らしはそんな生き様なんじゃないかしら。
あまり妥協ができない不器用でささやかな家庭で育った私に、似ている人、、、この世の中にいるのかなぁ?
えらそうなことをいいつつ、そこが心配です。
何より、本物にこだわる人に愛されるだけの「ホンモノ度」を自分が持っているかが一番心配だけど。
真逆という人はそもそも、私と恋人同士になることはないと思います。
自分のベースになっているものが、わりかし頑固に根をおろしているので、価値観の骨組が似ている人ではないと、長く両想いというバランスを取るのは難しいんじゃないかしら?
だから、おつきあいまで発展する「想い人」やボーイフレンドというのは、一緒に仕事をしていたり、合宿や旅行など一緒に1か月余り、同じ釜の飯をくらい、テントのような空間をともにして、ある程度の見定めがあった人なのでしょう。
自分でも意外だったのは、「クラシック音楽を否定する」人、あるいは「クラシック音楽を理解できない」人は、そうだとわかった時点で、自分の中では、「なかったことにしよう」とそれまでの付き合いがどれほど「私たちとってもE感じ
」となっていたはずでも、醒めてしまう傾向があるということ。このブログネタに参加して思い起こして、自分でも初めてその傾向に気付きました。
絶対音感を持っていないというのは別にそれほど問題にはならない。
五線譜が読めなくても別に生活に支障はないと思う。
ピアノ習ってなくても別にかまわない。家にピアノがないうちだってたくさんあるだろうし。(家に2台も3台もあるほうが珍しいよね)
クラシックのコンサートやオペラが趣味じゃなくたってかまわない。
日常生活にクラシック音楽が主要部を占めている必要はまったくないんです。
私だって、普段から積極的にクラシック音楽をきいてるわけじゃないし、ピアノの練習もクラリネットの練習もここ10年まったくまともにやってないし。
サンバのリズムに乗り切れないのも練習不足なわけで、せっかく音楽素養があったはずなのに、台無しって感じだからw
でも、クラシック音楽を理解できない、苦手だって遠ざける人に、私は生涯の伴侶になるかもって愛情は抱けないようです。
時代の積み重ね、当時の社会を反映し、「それが当たり前」という風潮の中から、少しずつ、自分色を加えながら新たな音楽を定められた規定の枠を少しずつ変えながら人類が作り上げていた音楽。
100年たっても200年たっても、それこそ1000年近く前の旋律であっても、現代でもちっとも色褪せることなく感動を呼び起こすことができる芸術。
今はびこっている音楽にどれだけ、あと500年先も生き残っていられるものがあるか?
音符に込められた表現への執念。五線譜が伝える表現力に感動できない人が私を本当に愛せるのか?
おいおい・・・それほどの価値がお前にあるのか?っていう突っ込みは排除です。
そばにいて、セックスして、安心できて、っていうことがないよりも、贅沢をいわずに、誰でもいいぐらい、私でもいいって言ってくれる人をみつけろよ、みたいにいわれるのが一番嫌だ。
一時的な気の迷いや寂しさをまぎらわすために、、、というよろめきがあるのは仕方ないかもしれないけれど、やはり恋人とまでいうならば、そういう妥協は許さない。自分にも相手にも。
クラシック音楽が理解できない、というのは、そもそも自分の感性を磨いていない人であろうし、苦手だって遠ざける人は、食わず嫌い。
自分の血や肉の土壌がクラシック音楽という核の上に育っているので、性格が反対でもかまわないし、容貌も身長も体格も関係ないけれど、目に見えない部分での共通項としての生きざまのクオリアは共通でなければやっぱり長続きしない気がします。
ほんとに素晴らしい演目のコンサートが最高の席で入手できるチャンスがあったとして、チケット代が「2万円もする」なら、街で売ってるCDでいいや、ってあきらめちゃう人はたぶん、私のことも、「彼女よりも、お手頃で可愛いあの子のほうがいいや」って、途中で放り出してしまうでしょう。
音そのものが持つ波動のパワーや魂を、その肌で感じたい、骨に響かせたいと思えない人は、私の人生を抱えきれないだろうから、恋人状態という一時の幸福感にはちきれんばかりだったとしても、もはや「私の幸福感」を共有する相手ではない。
本当に素晴らしい音楽を聞くためならば、それが、たとえ、数時間という一時の、一回こっきりのものであったとしても、お金を惜しんでチャンスをあきらめるのはもったいない。
クラシック音楽に限らないけれど、素晴らしい本物の演奏は、それが二度と巡り合えない一瞬の出来事であったとしても、生涯色褪せることのない感動を与えてくれます。その一生涯を豊かにしてくれる音楽と出会うよりも、何度でも繰り返し聴ける音の本質を切り落としてしまっているCDやDVDで満足できる、という感覚は、私には理解できない。
財布の紐の締めどころと緩めどころといった金銭感覚、経済感覚が似通っているってことは、食事の好みが共通だっていうことよりもよっぽど大事な気がします。
普段の食事や車や家や家具や服などが高級である必要は全然ない。
お金がないから、あきらめるっていうなら仕方ない。次のチャンスが巡ってくるまで、一生懸命に働く目標にすればいいだけのこと。
でも、お金も時間も余裕があるのに、ホンモノをつかむチャンスを捨てたってわかったら、その瞬間、私はその人を見下してしまう。
いざっていうチャンスを自分や愛する人がつかむために、普段の生活はできる限り質素に、簡素に、節約して、世間がどれほど不況にあえごうが、自分たちの心を貧しくしないようにしなければいけない。
口に出して教えられたことはないけれど、我が家の暮らしはそんな生き様なんじゃないかしら。
あまり妥協ができない不器用でささやかな家庭で育った私に、似ている人、、、この世の中にいるのかなぁ?
えらそうなことをいいつつ、そこが心配です。
何より、本物にこだわる人に愛されるだけの「ホンモノ度」を自分が持っているかが一番心配だけど。