ブログネタ:奇跡って信じる? 参加中奇跡を信じるものは救われるってよくいいますね。奇跡をどうしても必要としているとき、にっちもさっちもいかなくって、「おぼれるものはわらをもつかむ」っていう状態になって初めて、人間は、奇跡を信じるようになる、のかな。
子供の頃から「こうなればいいな」という望みはことごとくかなってきています。
心の中に思い描くことというのは、自分の中では現実で、世の中で起こってもおかしくないことだって思っていきてきました。
だから、どんなときでも、悪い想像はしないようにしてきてた。
でも、モンゴルで起業し、最初の3年は、毎日が死に物狂いで、お金が足りなくてささくれだって、イライラしがっついてるっていうくらい余裕なく、ただひたすらに仕事をしていたけれど、「3年がんばったら、きっと大きな仕事もできるようになる。仕事が途切れなくきて、会社っぽくなる」って信じていました。
そして、会社設立3年目にして、大手企業の目玉商品のCM撮影の仕事や映画の仕事、テレビも企画からお手伝いしてのやりたかった番組、、、ととんとん拍子で忙しくなって、それまでの投資分もなんとか回収できる!という感じになりました。
そんな状態が続いて、2007年。去年のこと。
私の心の中に不安がよぎりました。
「世の中、こんなにうまくいくわけない。どっかに落とし穴があるはずだ・・・」
生まれて初めて、私は人生に疑いを持ちました。
そして、モンゴル人スタッフによる会社のお金の使い込みや書類改ざんなど、あらあららー、という裏切りが発覚。
信じて全てをゆだねてきた相手から、預金通帳を破棄され、預金はどこにいったやら・・・?ウランバートルの一角の高級アパートになったらしいデス。
そして、私を「モンゴルにいられなくしてやる」という脅迫電話があり、自宅に乗り込んできた会社スタッフに腕を握りつぶされそうになり、結果的に、今でも右ひじは「腱鞘炎」と自分をいつわりつつも後遺症として筋を痛めて、まだ直ってないまま。
結果的にいうと、疑いを持ったことは現実であり、そして、私はン千万円を手放すことになり、そのショックで体を壊し・・・。
その状態で、裁判で戦う!とか意気込んでみたものの、心のどこかで、「自分の中に驕りがあり、傲慢な態度でモンゴル人に接した報いとして、今、この状態に落ち込んだのだ」という負い目があるから、なかなか決定的な攻撃もできず、、、事態は膠着状態。
2008年4月。復活祭のちょい手前くらいに、友達にキリスト教の教会に一緒にいかないか、と誘われました。
聖書を読んだだけで、教会にいっただけで、世の中そんなにうまくいくはずがない!
そんな風に頑なに拒否することもできたけれど、そのとき、私は、なんとなく、「いってもいいかな」と思ったのでした。
何気なく持ってきていた古本屋で購入した1950年代の古めかしい「聖書」。
モンゴルにきてから1度も開いたことがなかったその本を持って、教会にいきました。
カルト?と思うほどに熱狂的な信者であふれかえった、講堂。
日本で子供の頃連れて行かれていたカトリックの教会とも、アメリカ留学中に行っていたプロテスタント系とも違う不思議な空間。教会の建物ですらない、そこはコンサート用の公会堂でした。
そこで、子供の頃のように頭をたれて、「主よ、20年ぶりにあなたの家に戻ってきた私を受け入れてください」と心の中でつぶやいてみました。
その瞬間の衝撃は、私にとっては「奇跡」でした。
突然、電流が体内を走るように、自分の中が温かくなり、哀しくもないのに涙が泉のようにあとから後から湧き出てきました。なんじゃこりゃー!って驚いていたのですが、でも、これまで流したくても流すことができなかった分のわだかまりが涙になって、じゃーじゃーと排出されてるんだなぁ、って納得。
それまで、悔しいなぁ、とかやつらに一発食らわせてやりたい! ギャフンと言わせてやりたい!!と思っていたのに、私を裏切った彼らに憎しみを抱くことができなくなってしまいました。
にくくないのではなく、憎めない。
むしろ、そんな風に、正当でない手段で他人が一生懸命築き上げた財産を奪わなければならなくなった彼らを気の毒に思うようになったのです。
私にとって、ン千万円相当の財産って、決して小さなものではありません。
でも、私はまだ若いし、一生懸命、また知恵を絞り、力を出して、全身全霊で働けば、手に入れられない金額ではないって思えるようになったのです。
私はそんな風に、少しずつ、1年半かけて、自分をそぎおとしていきました。
彼らが私を恨む感情もいつかはなくなるだろうし、彼らが私をどう思っていようが、世間様が私をどう思っていようが、そんなことは関係なく、私は自分が生きる道が美しくあればよいな、と思っています。
自分の道を追求しようと思ったとき、ほんとに必要なことは、驚くほどシンプルです。
起業したとき、成功したいって、名誉や地位や財産を築けなければ意味がない、って思っていたけれど、今、自分にとっての成功とは財産でも名誉でも地位でもなく、自分が出会う全てに感謝し、その美しさを感じられる自分を築き上げることになっています。
健康状態が万全になったのかどうか、不定期にくる、突然の、猛烈なめまいや吐き気と戦わなければいけない、治療法の見つからない病を抱えていたり、もはや慢性としかいいようのない肘の痛みやひきつり。
気圧が下がったり興奮したりすると、薬でも抑えきれないほどの頭痛。
もちろん、問題はいろいろあるけれど、それでも、私は健康で元気いっぱいな自分が本来の自分であると信じていますし、その状態になるって信じてます。
問題解決はできないんじゃないか、裏切ったひとたちは決して私と和解することなく、全てを失い、モンゴルで詐欺にあった愚か者、という辱めをうけて生きていくのか、と絶望的になったこともあります。
私にとっての奇跡は、「人は自分がどんな状態であっても、相手を許すことも感謝することもできる幸せな社会を持っている」ということです。
どのようなことが起ころうとも、それは自分自身にとってのギフトであり、人はそこから、かけがえのないものを学ぶことができる。
その学びは、お金をつんでも得られない。学校に通ってもおしえてもらえない。
だけど、奇跡は世界の全てに平等に起こるもので、自分の都合のよいように、心地よいように受け止めることで成就するものなのです。
奇跡とは、感謝する心を呼び起こすための心の井戸をくみ出すためのちょっとした呼び水だと思います。
子供の頃から「こうなればいいな」という望みはことごとくかなってきています。
心の中に思い描くことというのは、自分の中では現実で、世の中で起こってもおかしくないことだって思っていきてきました。
だから、どんなときでも、悪い想像はしないようにしてきてた。
でも、モンゴルで起業し、最初の3年は、毎日が死に物狂いで、お金が足りなくてささくれだって、イライラしがっついてるっていうくらい余裕なく、ただひたすらに仕事をしていたけれど、「3年がんばったら、きっと大きな仕事もできるようになる。仕事が途切れなくきて、会社っぽくなる」って信じていました。
そして、会社設立3年目にして、大手企業の目玉商品のCM撮影の仕事や映画の仕事、テレビも企画からお手伝いしてのやりたかった番組、、、ととんとん拍子で忙しくなって、それまでの投資分もなんとか回収できる!という感じになりました。
そんな状態が続いて、2007年。去年のこと。
私の心の中に不安がよぎりました。
「世の中、こんなにうまくいくわけない。どっかに落とし穴があるはずだ・・・」
生まれて初めて、私は人生に疑いを持ちました。
そして、モンゴル人スタッフによる会社のお金の使い込みや書類改ざんなど、あらあららー、という裏切りが発覚。

信じて全てをゆだねてきた相手から、預金通帳を破棄され、預金はどこにいったやら・・・?ウランバートルの一角の高級アパートになったらしいデス。
そして、私を「モンゴルにいられなくしてやる」という脅迫電話があり、自宅に乗り込んできた会社スタッフに腕を握りつぶされそうになり、結果的に、今でも右ひじは「腱鞘炎」と自分をいつわりつつも後遺症として筋を痛めて、まだ直ってないまま。
結果的にいうと、疑いを持ったことは現実であり、そして、私はン千万円を手放すことになり、そのショックで体を壊し・・・。
その状態で、裁判で戦う!とか意気込んでみたものの、心のどこかで、「自分の中に驕りがあり、傲慢な態度でモンゴル人に接した報いとして、今、この状態に落ち込んだのだ」という負い目があるから、なかなか決定的な攻撃もできず、、、事態は膠着状態。
2008年4月。復活祭のちょい手前くらいに、友達にキリスト教の教会に一緒にいかないか、と誘われました。
聖書を読んだだけで、教会にいっただけで、世の中そんなにうまくいくはずがない!
そんな風に頑なに拒否することもできたけれど、そのとき、私は、なんとなく、「いってもいいかな」と思ったのでした。
何気なく持ってきていた古本屋で購入した1950年代の古めかしい「聖書」。
モンゴルにきてから1度も開いたことがなかったその本を持って、教会にいきました。
カルト?と思うほどに熱狂的な信者であふれかえった、講堂。
日本で子供の頃連れて行かれていたカトリックの教会とも、アメリカ留学中に行っていたプロテスタント系とも違う不思議な空間。教会の建物ですらない、そこはコンサート用の公会堂でした。
そこで、子供の頃のように頭をたれて、「主よ、20年ぶりにあなたの家に戻ってきた私を受け入れてください」と心の中でつぶやいてみました。
その瞬間の衝撃は、私にとっては「奇跡」でした。
突然、電流が体内を走るように、自分の中が温かくなり、哀しくもないのに涙が泉のようにあとから後から湧き出てきました。なんじゃこりゃー!って驚いていたのですが、でも、これまで流したくても流すことができなかった分のわだかまりが涙になって、じゃーじゃーと排出されてるんだなぁ、って納得。
それまで、悔しいなぁ、とかやつらに一発食らわせてやりたい! ギャフンと言わせてやりたい!!と思っていたのに、私を裏切った彼らに憎しみを抱くことができなくなってしまいました。
にくくないのではなく、憎めない。
むしろ、そんな風に、正当でない手段で他人が一生懸命築き上げた財産を奪わなければならなくなった彼らを気の毒に思うようになったのです。
私にとって、ン千万円相当の財産って、決して小さなものではありません。
でも、私はまだ若いし、一生懸命、また知恵を絞り、力を出して、全身全霊で働けば、手に入れられない金額ではないって思えるようになったのです。
私はそんな風に、少しずつ、1年半かけて、自分をそぎおとしていきました。
彼らが私を恨む感情もいつかはなくなるだろうし、彼らが私をどう思っていようが、世間様が私をどう思っていようが、そんなことは関係なく、私は自分が生きる道が美しくあればよいな、と思っています。
自分の道を追求しようと思ったとき、ほんとに必要なことは、驚くほどシンプルです。
起業したとき、成功したいって、名誉や地位や財産を築けなければ意味がない、って思っていたけれど、今、自分にとっての成功とは財産でも名誉でも地位でもなく、自分が出会う全てに感謝し、その美しさを感じられる自分を築き上げることになっています。
健康状態が万全になったのかどうか、不定期にくる、突然の、猛烈なめまいや吐き気と戦わなければいけない、治療法の見つからない病を抱えていたり、もはや慢性としかいいようのない肘の痛みやひきつり。
気圧が下がったり興奮したりすると、薬でも抑えきれないほどの頭痛。
もちろん、問題はいろいろあるけれど、それでも、私は健康で元気いっぱいな自分が本来の自分であると信じていますし、その状態になるって信じてます。
問題解決はできないんじゃないか、裏切ったひとたちは決して私と和解することなく、全てを失い、モンゴルで詐欺にあった愚か者、という辱めをうけて生きていくのか、と絶望的になったこともあります。
私にとっての奇跡は、「人は自分がどんな状態であっても、相手を許すことも感謝することもできる幸せな社会を持っている」ということです。
どのようなことが起ころうとも、それは自分自身にとってのギフトであり、人はそこから、かけがえのないものを学ぶことができる。
その学びは、お金をつんでも得られない。学校に通ってもおしえてもらえない。
だけど、奇跡は世界の全てに平等に起こるもので、自分の都合のよいように、心地よいように受け止めることで成就するものなのです。
奇跡とは、感謝する心を呼び起こすための心の井戸をくみ出すためのちょっとした呼び水だと思います。