慌てたって、焦ったって、自分ではどうにもならないんだったら、もっとのんびりユルリと今を楽しもうって思えるようになったのは、盛岡に行ったから。
岩手山がでっかくて、新幹線の窓枠に、その大きな姿が入ってから、行けども行けども、いつまでたっても、そのままでっかくて。
子供の頃から、選ぶのはいつも、上り坂で、遠回りの道で、先が見えない方がより一層、よい、なんて。
むしろ、なんの道がついていないところを、ただ、てっぺんを目指して、ガシガシ進んでいくってことが好きで。
てっぺんを目指すんだったら、できるだけ遠くから、大きなものを目指すほうがいい。
そして、目指すって決めたら、一直線。
たどりつくも、たどりつかないも、私の気持ちが決めること。
どうしたいかってことは、ほんとの答えは私の中にしかなくって、自分でしか決められなかった。
不安になっても、くじけそうになっても、一度決めたことは、どうしてもあきらめることができなくて。
その結果が望ましかろうが、残念だろうが、どうしても答えを見極めずにはいられなくて。
ダメだって、自分の心が決めちゃってたら、どんなにあがいても、答えは「No」しかなくって。
玉砕!
落ち込んで、泣いて、自己嫌悪でふさぎこんで。
そうなっちゃったら、周囲がどんなに心配してくれても、ひっぱりあげようと慰めてくれても、どうしようもない意地っ張りになっちゃって。
喧嘩して、泣きながら雨の中をひとりで夜通し歩いて家まで帰ったり。
もうだめだって思わない限り、どんなひどい喧嘩をした後でも、ケロリンパって仲直り。
若かりし頃はそんなことがありました。
笑ってても、プンスカむくれてても、泣いてても、おおはしゃぎでも、気持ちは変わらず揺るがず。
相手の気持ちなんかおかまいなしで、大好きでいられる、それが女の子。
好きな人が、元気で生きているっていうだけで、神様に感謝できる。
この人を好きでよかったって毎日、幸せをかみしめられる。
がんばったって、がんばらなくたって、愛の行く末は決まってる。
ならば、その結末が来る最後の最後の瞬間まで、私はやっぱり一直線にあきらめず、自分が信じる道を行こう。
そう思えるのは、岩手山が盛岡の人にとっての心の根っこであることを感じたから。
そして、私には安芸富士があるって思い出したから。
子供の頃からの思い出があり、心の根っこがあり、そして、人を愛した記憶がたっぷりあるから。
その結果がどうあれ、私はこれまで人を愛したことを後悔したことがなく。
どれほどダメンズだなぁ、って残念におもったところで、その人の愛を受け止めたことを失敗だったとは思わず。
何年か後、当初の予定とは違う形になったとしても、私たちの道は重なり、繋がり、前に、前に、上に上にと一直線に向かっていってること。
自分の道が幅広く、振り返れば、しっかりとした立派な道であること。
そんなことを確認しながら、自分が一直線ならば、くよくよしようが、泣こうがわめこうが、それはそれで最後の最後まで目指すところに向かって進んでみようって。
受け止めるってことは、文字通り、あるがままを受け入れること。
それ以上でもそれ以下でもなく、心の中でみょうちきりんなエコライザーでゆがめることは無意味で。
これだけピュアで一途な愛情を受け止められないアイツは馬鹿だ!なんてことは言わないよ。
でも、こんな風に自分が誰かから愛されている幸せを感じられないなんて、鈍感で損してるよねー、とは思うケド。
でも、それが相手の望むものでなければ、それはそれで仕方ないし。
成就されないことを哀しんだり、嘆いたりするよりは、壊れずに、まだ進んでいるっていうそのことを喜び、感謝するほうが、私はよっぽど幸せだって思ったり。
慌てて、結論を急いだところで、状況を見極めきれないまま、条件が整わないままに突っ込んだって、それはただの無鉄砲・・・なんてね。
剣道をやっててよかったなーって思うのは、この「待ち」の今日この頃。
相手までの距離、竹刀2本分+10cmほどの「一足一刀の間合い」。
かすかに触れ合う竹刀の先で、わずかな筋肉、皮膚の動きで、呼吸で、相手の心を感じ、作戦を感じる。
でも、最後に勝つのは「無心」。
集中して、相手の動作を大きく、全体を視野に入れながら、ほんの一瞬の機会を作るために、ひたすら自分の心を整える。
仕掛けるのは自分で、作るのも自分で、その一瞬を決断するのも自分。
余計な想像はいっさいしないで、ただ目標だけを見定めること。
想像は自分を崩す敵。
そう、そんなもんです。
相手の気持ちなんて、結局わからないわけだし。
自分と会ってない時間をその人がどう過ごしていたかを全部知らなければ、愛が貫けないってわけでもない。
相手がよい時間を送っているならば、それに負けないくらい素敵な時間を自分も送り、いつか共有できるといいな、なんて思ったりはするけれど。
心が届かない不安を抱えて一緒にいるよりも、自分らしさ全開で天真爛漫に愛情を振りまける自分でいたい。
それが独りよがりなんて誰がいえようか?
自分の心はしょせんは自分のものなわけで、心を誰かに捧げるなんてことはできない。
目指すところは、相思相愛なんかじゃなくて、もっともっとその先にあるモノをともに見つめ、求め、歩み続けることなのだから、すぐに結果なんか出さなくてもいい。
ただ、あきらめるのが怖くて、かたくなに現実から目をそらしていては、「いざ!決戦!」というときに、心も体も動かずに負けちゃうから、常に臨戦態勢でいなくちゃね。
両想いになったらなったで、その先、別の悩みや葛藤が出てくるわけで。
幸せそうな二人にも、それなりに、なんやかやとあったりするらしい。
一人の気持ちでも持て余してるのに、こんがらがった二つや三つやたくさんの心をうまく通わすなんて高度な技は、もう少しあとまでとっておこうっと。
今はただ、あなたしかみえない。
だから、そんな気持ちをいだきながら、モンゴルに旅立つ私のことを、思い出してくれる時があったなら、その時のあなたの心がホッコリとあたたかくなっていたら、それだけで、私は幸せを感謝することができると思う。
岩手山がでっかくて、新幹線の窓枠に、その大きな姿が入ってから、行けども行けども、いつまでたっても、そのままでっかくて。
子供の頃から、選ぶのはいつも、上り坂で、遠回りの道で、先が見えない方がより一層、よい、なんて。
むしろ、なんの道がついていないところを、ただ、てっぺんを目指して、ガシガシ進んでいくってことが好きで。
てっぺんを目指すんだったら、できるだけ遠くから、大きなものを目指すほうがいい。
そして、目指すって決めたら、一直線。
たどりつくも、たどりつかないも、私の気持ちが決めること。
どうしたいかってことは、ほんとの答えは私の中にしかなくって、自分でしか決められなかった。
不安になっても、くじけそうになっても、一度決めたことは、どうしてもあきらめることができなくて。
その結果が望ましかろうが、残念だろうが、どうしても答えを見極めずにはいられなくて。
ダメだって、自分の心が決めちゃってたら、どんなにあがいても、答えは「No」しかなくって。
玉砕!
落ち込んで、泣いて、自己嫌悪でふさぎこんで。
そうなっちゃったら、周囲がどんなに心配してくれても、ひっぱりあげようと慰めてくれても、どうしようもない意地っ張りになっちゃって。
喧嘩して、泣きながら雨の中をひとりで夜通し歩いて家まで帰ったり。
もうだめだって思わない限り、どんなひどい喧嘩をした後でも、ケロリンパって仲直り。
若かりし頃はそんなことがありました。
笑ってても、プンスカむくれてても、泣いてても、おおはしゃぎでも、気持ちは変わらず揺るがず。
相手の気持ちなんかおかまいなしで、大好きでいられる、それが女の子。
好きな人が、元気で生きているっていうだけで、神様に感謝できる。
この人を好きでよかったって毎日、幸せをかみしめられる。
がんばったって、がんばらなくたって、愛の行く末は決まってる。
ならば、その結末が来る最後の最後の瞬間まで、私はやっぱり一直線にあきらめず、自分が信じる道を行こう。
そう思えるのは、岩手山が盛岡の人にとっての心の根っこであることを感じたから。
そして、私には安芸富士があるって思い出したから。
子供の頃からの思い出があり、心の根っこがあり、そして、人を愛した記憶がたっぷりあるから。
その結果がどうあれ、私はこれまで人を愛したことを後悔したことがなく。
どれほどダメンズだなぁ、って残念におもったところで、その人の愛を受け止めたことを失敗だったとは思わず。
何年か後、当初の予定とは違う形になったとしても、私たちの道は重なり、繋がり、前に、前に、上に上にと一直線に向かっていってること。
自分の道が幅広く、振り返れば、しっかりとした立派な道であること。
そんなことを確認しながら、自分が一直線ならば、くよくよしようが、泣こうがわめこうが、それはそれで最後の最後まで目指すところに向かって進んでみようって。
受け止めるってことは、文字通り、あるがままを受け入れること。
それ以上でもそれ以下でもなく、心の中でみょうちきりんなエコライザーでゆがめることは無意味で。
これだけピュアで一途な愛情を受け止められないアイツは馬鹿だ!なんてことは言わないよ。
でも、こんな風に自分が誰かから愛されている幸せを感じられないなんて、鈍感で損してるよねー、とは思うケド。
でも、それが相手の望むものでなければ、それはそれで仕方ないし。
成就されないことを哀しんだり、嘆いたりするよりは、壊れずに、まだ進んでいるっていうそのことを喜び、感謝するほうが、私はよっぽど幸せだって思ったり。
慌てて、結論を急いだところで、状況を見極めきれないまま、条件が整わないままに突っ込んだって、それはただの無鉄砲・・・なんてね。
剣道をやっててよかったなーって思うのは、この「待ち」の今日この頃。
相手までの距離、竹刀2本分+10cmほどの「一足一刀の間合い」。
かすかに触れ合う竹刀の先で、わずかな筋肉、皮膚の動きで、呼吸で、相手の心を感じ、作戦を感じる。
でも、最後に勝つのは「無心」。
集中して、相手の動作を大きく、全体を視野に入れながら、ほんの一瞬の機会を作るために、ひたすら自分の心を整える。
仕掛けるのは自分で、作るのも自分で、その一瞬を決断するのも自分。
余計な想像はいっさいしないで、ただ目標だけを見定めること。
想像は自分を崩す敵。
そう、そんなもんです。
相手の気持ちなんて、結局わからないわけだし。
自分と会ってない時間をその人がどう過ごしていたかを全部知らなければ、愛が貫けないってわけでもない。
相手がよい時間を送っているならば、それに負けないくらい素敵な時間を自分も送り、いつか共有できるといいな、なんて思ったりはするけれど。
心が届かない不安を抱えて一緒にいるよりも、自分らしさ全開で天真爛漫に愛情を振りまける自分でいたい。
それが独りよがりなんて誰がいえようか?
自分の心はしょせんは自分のものなわけで、心を誰かに捧げるなんてことはできない。
目指すところは、相思相愛なんかじゃなくて、もっともっとその先にあるモノをともに見つめ、求め、歩み続けることなのだから、すぐに結果なんか出さなくてもいい。
ただ、あきらめるのが怖くて、かたくなに現実から目をそらしていては、「いざ!決戦!」というときに、心も体も動かずに負けちゃうから、常に臨戦態勢でいなくちゃね。
両想いになったらなったで、その先、別の悩みや葛藤が出てくるわけで。
幸せそうな二人にも、それなりに、なんやかやとあったりするらしい。
一人の気持ちでも持て余してるのに、こんがらがった二つや三つやたくさんの心をうまく通わすなんて高度な技は、もう少しあとまでとっておこうっと。
今はただ、あなたしかみえない。
だから、そんな気持ちをいだきながら、モンゴルに旅立つ私のことを、思い出してくれる時があったなら、その時のあなたの心がホッコリとあたたかくなっていたら、それだけで、私は幸せを感謝することができると思う。