具体的なことを対して書かずに、支離滅裂な文章を推敲もせずに更新しちゃうと、心配して下さる方もいて、私は幸せ者だなぁ…。

時々、こんな風に、誰かに慰められたり、心配されたりしたくなる。
それも秋だから、なのでしょうか?

親からはぐれた渡り鳥はどこに下りればいいのでしょうか?

そんな心境になるのが、実は、裏磐梯で、たった一羽で夕暮れの空を羽ばたく若い白鳥を見かけたから、だったりする。

モンゴルから帰って来てから昨日でちょうど1か月。
意識して、モンゴル語はプライベートではいっさい使わない、ということをなんとモンゴル語を勉強してから、つまりは過去20年間で初めてやってみました。
やればできるじゃん、という自分の生活と、こんなにもモンゴル語から離れた1か月は初めてだったので、自分の中のアイデンティティの構成要素をこれからどう構築していくべきか、みたいに考える時期に来ています。

世界恐慌っていうか、経済的に世界各国が荒れに荒れ、自然環境に対する人間の過剰なちょっかいのツケがそろそろ回ってくる、そんな時代が到来。
懸念していたよりももっと早い、のかなぁ。

それは東海大地震や、首都圏直下型が来るぞ、来るぞ、来るぞ、といわれながら、小康状態であるのが、いつ、来るんだ、、、という日常では忘れかけている危機感に似ていて。

自分が感じているこの危機感にどう立ち向かうのか、危機管理をどうしていくのか、危機回避はできるのか?

そういった戦略的な思考回路を動かすためには、さびついた感情、感応センサーのバルブを一気に全開してさび落としをし、すべて、「All clear]であることをチェックする必要がある。

これからの世界的な激動に、モンゴル国が振り回されるのは仕方ないけれど、そこで生きる人間の軸がぶれないようにするためには、あるいは自分の軸をぶれないようにするためには、今、ここで最大限に自分にゆさぶりをかけておく必要があります。

なぜならば、異国で異邦人として生きているときに、今のような状態になると、それこそ軌道修正は不可能で、精神的に「病んだ状態」として、周囲の人たちとほんとに隔絶されて、生きていけなくなってしまうからです。

日本で、しかも、自分の実家という、文字通りの「ホーム」にいて、好きな人たちが近くにいるっていう状態ならば、多少のブレやゆさぶりによって、何かが「崩壊」あるいは、「決壊」しても、支えてくれる人たちがいるのです。

この守られている、という状態、ぬるま湯状態からの脱却を自らするって、結構、大変なのですね。

それに、自分にとっては、とても居心地がよかったはずの集まりが、沖縄にいたことで、いろいろなことを抱えていて、それが本質的に「違うんじゃないの?」っていうことを、多くの人たちが見て見ぬふりをしていたり、離れて行ってしまってたりで、結局、個人の集合体でいろんな電子のぶつかりあいで何かが「創造されていた」時代とは違って、誰か一人の意思決定に、「はいはい」って従う、仲良しクラブ的になり下がってしまっていることに対して、自分が耐えられなくなってしまったということ。

仲良しクラブを批判するのではなく、ならば、その仲良し枠からはみ出た自分は、どうしていくの?
ほんとに自分は行動者なの?
と突き詰めなきゃいけない時期なのです。

行動するってことが、他人と違う突飛なことをしたりするってことではなく、自分の行動を冷静に評価する部分と、行動によって生まれた感動を最大限自分の中に吸収し、発散していくためには、どのような表現手段を持つべきか、伝達能力を向上させるべきか。

さびついて、鈍く、固まった自分自身を動かそうとして、思うように動かせない、もどかしさ。
本来、自分には基本スペックとして搭載されていない能力を、これから、なんとか自己流でも身につけていかなきゃいけないってこと。

一晩寝て、考えた。

今のジェットコースター的な感情の起伏もまた、自分自身であり、こんな風に心配して下さる方が、即行コメント下さるってこと。私もまだまだ捨てたもんじゃないな、なんてねw

と、安心してまだまだ深みにズブズブとはまってみようと思います。