ほんと、すっかり忘れかけていた人から、突然、脅しの携帯メッセージ。
「お前を警察に突き出してやる」

なんのことかよくわからなくって、返信。
「どうしたんですか?よくわからないのですが?」

ついでに弁護士にも電話。
一応、相手に電話してみる。

相手、完璧によっぱらい。
とても不幸そうな声で、
「俺を警察に何度も何度も訴えたな。何度も取り調べ受けて嫌な思いをした。
 お前を俺と同じ目に合わせてやる。俺は無罪放免だったが、お前も会社もめちゃくちゃにしてやる」
といっている。

私はつい昨日、弁護士さんに「もう彼らの希望通りに全て渡すし、筋を通したい。そしてすっきり、きれいさっぱり別々の道を行きたいから、和解契約には、お金のことは書かなくていい。警察だ裁判だも、もう必要ない。彼らを許すから、そう連絡してほしい」と伝えたばかり。

言っている意味がわからない。
そして、警察が書類送検したものを検察がいったん突っ返した後は、一応、事件そのものを凍結して和解の道を探ろうとしているところなのに、いったい、なんで今頃、警察に呼ばれたりしたんだろう?なぞ。

どうやら弁護士の先走りというか、あるいは私自身の警察、司法ルートの人が選挙とか組閣後の役所の人事が落ち着いたからか、張り切りだしちゃったのかもしれません。

でも、取り下げしたはずなのに、なんでやねん?

明日会おう、と言われても、私は別の用事で調整つかず。

困ったなぁ、と思ってたらまたメッセ。
「もう時間切れだ。月曜日に税務署と警察にお前を訴えてやる。俺は証拠を握っている」

よくわからないのですが、警察、司法で闘う、と一旦はことを構えた私なので、一方的に和解もできないのかもしれないなぁ。
ちょっと血圧上がったけれど、相手が嫌な思いをしたのだったら、私も警察に呼ばれたり、いろいろしないといけなくなっちゃうわね、、、。

濡れ衣を着せられて、外国人が警察で犯罪者的に取り調べを受けるとどうなるのか、体験してみなさいってことなのかな?

でも、困った・・・。

時期的に困った。。。ちへいせんあしびなーの時期が迫っていて、私はとっくの昔にチケットを購入しちゃっているのです。そして、30周年という地平線会議の記念すべきイベントを外すことはできない。

ただ、不思議なことに、もしかしたら捏造された証拠で私はとても辛い目にあうのかもしれない、と思いつつも、自分が辛い目にあうことよりも、彼自身のことがとても気の毒になってしまった。

彼は、警察の取調べや私を最初に裏切り、脅し、私をずたずたにしてからの1年3ヶ月でちっとも変わらず、あの2007年6月の暑い日とまったく同じことを同じテイストで主張している。

私が彼を裏切ったのかどうか、私にはよくわからない。
彼が私に裏切られた、と思わなければいけない立場にいたと主張すること自体が、実はあんまり理解できない。

ただ、彼は私に多くのことを教えてくれた。
よいことも、悪いことも。

そういう意味でとても貴重な人であり、どれほど地獄のどん底、と思っても、私は孤独じゃなかったということ、どん底から這い上がる力を持っていること、神様がいること、友達がいること、家族がいること、愛するというのがどういうことなのか、ということを学び、感じるチャンスを与えられたことを感謝しているのです。

最後の最後まで闘う、と挑んでくるならば、それは受け止めてあげるべきでしょう。

私は私が守るべきものを守らなければいけないのだから。

それでも、私はとても大きく成長した自分を感じます。

1年3ヶ月前と同じ脅迫の言葉を、私は恐怖を覚えることなしに聴くことができました。
彼を許してあげたい、どうしたら、彼のこの心の苦しみから解放してあげられるのか。
私が警察で取調べを受け、税務署から大きな罰金を科せられ、破産し、カフェもモンゴルでの活動の全ての可能性を奪われて落ち込めば、彼は幸せになれるのだろうか?

全てを明け渡してしまえば、彼は幸せになれるのか?

一男一女と聡明な大学の先生の奥さんを持ち、新築アパートに引越し、ランドクルーザーも購入し、私は彼が幸せに暮しているんだと思っていました。
私を苦しめるだけ苦しめて、発狂せんばかりにモンゴルに対して恨み節を撒き散らし、恋人とも一切合財、大切なものを持っていかれて別離し、仕事もなく、なのにいろんな支払いはしなきゃいけない、病気にかかり、とてんこ盛りの地獄めぐりをさせてても、彼はそんなこととは関係なしに、幸せに暮せるタフな人なんだと思ってました。

モンゴルの警察も検察も、全部、まるめこんで、結局、私は無力なんだ、なんて忸怩たる思いだったこともあったけれど。。。

こんな風に書いてみて思うのは、私は結構大変な目にあったけれど、そのことで得られたものの大きさはプライスレスで、とても貴重なものであったこと。
実は、私は彼の裏切りが発覚するまで、ずっと腹の中に矛盾を抱え、お金のことや仕事のやり方などで悩んでいました。ストレスもたまり、モンゴルのことを素直に好き、とはいえなくなっていました。
それらの矛盾が一切、自分の道から取り払われた爽快感は、彼の裏切りなしには得られなかったのです。

今では、モンゴルの凄さというのを、素直に賞賛できます。

彼らが、私に裏切られたって憤っていたり、私の個人的な財産にも彼らの所有権があると主張していたことも、またモンゴル人だからであり、お金が必要だっていう、今のウランバートルにおける市場経済やビジネス哲学からだったら、当然なんだろうな、って彼らの目線にたって見つめることができます。

その上で、私は彼らが欲しいものを、つまりは奪っていったものを彼らが持つべきものを得ることになったのだと受け止めているのです。私が得るべきものは私の手元に残っています。

法律ではなく、私はそれがどれほど大きかろうとも、物理的なものをどれだけ奪われようとも、私は彼を許すことができる。
ただ、私はそのことによって、傷つかないし、腹も立たないけれど、そういう私に彼は相変わらずハラをたて、不幸なままでいるかもしれない。

彼の論理からすると、私はホントに酷い人。酷い欲張りだったんだろうな。
でも、それを全部手放してしまった今、そして、私が手放したものを手中に収めているのが彼らでも、今でも私が裏切った、と主張していること、そのこと自体が「裏切り」に対するモンゴル人の考え方が現れている。

裏切り者は許さない。


そういうことなのでしょう。

私は彼らを裏切っていないし、裏切ったと考えた彼らが私を裏切ったことを、地団太踏んで悔しがり、司法手続きで挑戦してみたりと奮闘してみた結果、司法による解決で私が勝利したとしても、それはとてもむなしいことであるし、会社のお金については、もう一人の私をサポートしてくださった日本人の方にご迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思い、それは自分でがんばって償いをしようと思うけれど、モンゴル人が行きがけの駄賃とばかりに私の預金を彼の保有株とこれまでの利益の配当分だと主張しいて持っていったとしても、そのことについて、とやかく言おうとは思わなくなりました。

私は日本人でよかった。
日本人は、なんだかんだいって、許す、という行為を美徳と受け止められる道徳心を子供の頃から植えつけられています。
そして、また、自省する、という思考回路を持ち合わせている国民性であることが、私を安らかにしてくれました。

正直が一番。

彼は自分が私に対していっぱい嘘をついていたことを私が気づいていないと思っているのか、私に対しては何してもいい、と思っていたのか、よくわからないけれど、ともかく、今日、彼の声をきいて、彼がどれだけ深いストレスを抱えているか感じました。

神様、私が彼を許すことで安らぎを得られたように、彼もまた私を許すことで、あるいは忘れることで幸せになれるようにお導きください。

ただ、彼の言いなりになることはできません。

私は警察も、多分、拷問も、罰金も、自由を奪われる拘束が続いたとしても、きっと心は自由でいられます。
神様と共に歩むこと、それはどのような環境に自分がいたとしても同じこと。
そして、自分が厳しい環境であればあるほど、神様が自分と共にいることを、私を支える杖となり、私を守る盾となってくれていることをひしひしと感じるのです。

そうはいっても、私は司法的制裁をうけなければいけないことをした覚えがないのです。
忘れちゃっているのかもしれないけれど、散々、罰金払うことになってもいいから、税務処理に必要な書類を返してくれ、と言い続けたのに、それを隠匿していたのは彼なのです。
この事実を彼はどう考えるんだろう?

会社のことは会社内で片付けてしまいたいし、できることなら、彼の経歴に前科をつけたくない、というのが本音です。
警察の取調べで嫌な思いをした、といいますが、どんな取調べだったのだろう?
彼が悪いことをひとつもしていないのならば、正々堂々としていればよかったのに。
ただ、真実を述べることができなかったことが辛かったんだろうなぁ。
そして、彼が捻じ曲げた、彼の真実を警察にぶちまけると言っていること。
そのことで、また彼は不幸になっていく。

ホントの幸せは、愛と許しの中にしかない、ということを経験的に学ぶことができる、というのは、万人に与えられた唯一平等な機会だと思っていたのに、彼には1年3ヶ月の私との闘争の中で、何も学べなかったのかと思うと気の毒で仕方がない。

私が彼を許していることを、彼が私を許さないという気持ちを抱き続けることで背負った不幸から早く解放してもらいたい、と思っていることを、伝えるにはどんな方法があるのかなぁ。

スッキリした部屋がまたちょっぴりゴチャゴチャになっているけれど、、、。

神様、正義が勝たなくてもいいです。私が勝たなくてもいいけれど、ただ、最後に愛を勝たせてください。

汝の敵を愛せよ。

この言葉に幸せの鍵が隠されているなんてね。
誰もが言葉では知っているけれども、その意味をホントに感じることができるわけじゃないかもしれない。
このキリストの言葉の本質が、実に神様の言葉であることを実感できたこと、それが私にとっての幸福です。

そして、この幸福感や平和な気持ちを、彼にもわけてあげたい、と心から望んでいます。
いつか、きっとこの思いが遂げられる日がくると信じているのです。

それにしても、やっぱり「脅迫」ってテンションあがりますね。
最近、とってもノンキに平和だったから、「そうそう、この感じ!」みたいな血圧上昇。
体は恐怖を忘れられないでいるのだなぁ。体はおばかちゃんです。
もうそんな言葉で私を傷つけることも怒らせることもできなくなっちゃってるのにね。

明日は日曜日。彼の分まで祈ってきます。