しずくさんからメッセージが来たようです。
匿名でしたが、その匿名は誰だかがわかるようにしてくれていました。
その方の誠実さと潔さに畏敬を覚えました。

他人に直接言うことも書くことも、私だったらできない、厳しい批判を突きつけられたお言葉ではありましたが、陰でこそこそ言われるより、ずっといい。

頭に血がのぼり、体は震え・・・やば、ヒステリーだ!
となっても、もう怖いとは思いません。

怖いのは人間社会の付き合いに不用意な発言をしてしまった自分です。
ありがとうございます。しずくさん。O.,C.さん。私はあなたにお会いした時の感動を今でも覚え、その後のご活躍にも敬意を抱いています。

ただ、やはり落ちこみました。
私を傷つけることが目的ではなく、警鐘を鳴らすことが目的である、とわかっていてもパニックになりました。
そんなときに、宮本常一先生の本がアマゾンドットコムから神の啓示のように送られてきました。

庶民の発見/宮本 常一

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読み始めて14ページ。
涙があふれました。

敗戦色濃い、大東亜戦争の末期、昭和19年のこと。
先生は奈良県の中学校で教鞭をとっておられました。

授業で先生が生徒達に言い続けたこと。

「l私達は敗けても決して卑下してはいけない。われわれがこの戦争に直面して自らの誠実をつくしたというほこりをもってほしい。それは勝敗をこえたものである。そしてまだ私たちはこの厳しい現実を回避することなく、真正面から見つめ、われわれにあたえられた問題をとくために力いっぱいであってほしい。そういう者のみが敗けた日にも失望することなく、新しい明日へ向かってあるいてゆけるであろう。」
この言葉はあやまっているかもわからない。しかし私はそんなふうに説かざるをえなかった。

「心のはやるとき、おちつきをなくしたとき、いつも私の言葉を思いだしてほしい。いのちをおしめ
。」


まさに神の啓示です。

あともう少しでモンゴルに戻る。
仕事もある。
もうすぐ今年の仕事シーズンが始まる。
がんばらなくちゃいけない。

でも、モンゴル社会の中で私を疎む人も数少なくないらしい。
自分のふるまいに反省をしなければいけないのだが、どこをどうすればいいのか・・・
熟考し、自粛し、ひいては会社自体をやめなければいけないのか・・・

メッセージをいただいてから5分くらい、頭がくらくらした。
一昨日から、こんな風に頭に血がのぼり、体が震える軽いヒステリーがおきていた。

自分らしく生きることが、誰かにとって迷惑になっているらしい。。。

空気が読めない自分をどうすればいいのか。。。
これは前にもそういって叱られ続けたことがある。
そう、それは私の髪の毛が半分抜け落ちた会社員時代のことだ。
恐怖がよみがえり、しばしパニックにおちいった。

人間社会というのはなんと恐ろしいものか。

イジメで自殺する子供達のことを思った。
死んじゃいけない。耐えて生きれば、いつかその環境から抜け出せるよ。
そんな声を届けたかった。

だけど、私は心温かい叱責に、恐怖のイジメを思い出し、パニックを起こした。
涙がこぼれて、体が震えた。
哀しくて、怖くて泣いたのは、何年ぶりだろう?

空気が読めない人、

この一言で、どれだけの人が命を絶ったんだろう?
なんだそれくらいで!

言うことは簡単だ。

だけど、ただひたすらに前向きに一生懸命生きようとして、
がむしゃらに、とんがってしまったり未熟な者にとって、これほど恐ろしく奈落の底に突き落とされるほど怖い言葉はあるのだろうか?

社会からの拒絶。

泣きながら、ふと宮本先生の本をめくった。
偶然にひらかれた14ページ目。
その言葉が目に飛び込んだ。

いのちをおしめ

決して死んではいけない。たとえ自分ののっている船が撃沈せられた場合も木のきれ一つあってもつかんで生きることを考えよ。いかなる日にもいのちをおしめ。いのちの尊さを知れ。君たちがそのようにして苦難に満ちた現実の中をあるき、その現実をみつめたいのちこそ戦後に本当に役に立てるべきであり必要ないのちなのだ。苦難にたえうるものこそ、明日をひらく力になるのだから。そしてそのためのいのちなのだから

戦場に向かう生徒たちに宮本先生がかけた言葉だった。

私は30年前のイジメという戦場の生き残りだ。

大人になった今、人間の悪意や憎しみをある程度は吸収する術を覚えたつもりだった。
あるいは避ける術を。

でも、イジメの引き金は、自分の中の不注意さにある、ということもよくある。
それが本人は気づかないほんの些細なことであっても、人間社会のある人々にとっては、許せない、排除すべきミスとして、攻撃の対象となるのだ。

直接的ではない陰口、ネットによる中傷誹謗、あざけり、皮肉・・・
大人の攻撃はじわじわくるボディブローだ。

直接的でないから本人は、致命傷になるまで気づくことすらできないことだってある。

実際、心当たりのある言動で人を傷つけてしまったこともある、そう気づいたのはしずくさんのコメントと、O.C.さんからのメッセージのおかげだ。

自分の失態による結果は甘んじて受けなければいけない。

だけど、自分からしかけたわけでもない戦に、実際の闘いもないのに、自分から敗北をみとめる必要もない。
リングを降りる必要もない。
相手が望んでいるのはそんなことではないだろう。


モンゴルで仕事をして、他人に迷惑をかけた分だけ、誰かの手助けとならねばならない。
それすらも、はらだたしいことなのかもしれないけれど。

自分のために、忙しい時間を割いてあってくださる心優しい人たちが応援してくれている。

いつも私を励ましてくださる人たちがいる。
未熟な私が不義理をしても、あたたかく応援してくださる人たちがいる。
私を愛してくれる人たちがいる。

こんなにも優しい気持ちで自分は誰かとコミュニケーションが取れている。

ならば、自分はどんなときでも謙虚に、心穏やかに、優しい気持ちで人と接することを心がけていこう。

私を支えてくれる人たちがそうであるように。

私を憎み、さげすみ、陰口を叩いている人たちだって、愛する家族を持ち、きっと優しく一生懸命な人たちなのだ。
自分だけがモンゴルでがんばっているわけではない。
自分の信念に基づいてがんばっている人たちがたくさんいるのだ。


だから皆、
いのちをおしめ。

自分に悪意を向ける人の存在を知ったからといって、自分の心を殺してはいけない。
たとえ、誰かの言葉に傷ついたとしても、自分で自分を傷つけてはいけない。

宮本先生が教え子達にといた言葉は、戦後60年以上たった今でも人間全てに対してのメッセージだ。

自分を卑下することはやめよう。人間が誠実をつくしてきたものは、よしまちがいがあっても、にくしみをもって葬り去ってはならない。あたたかい否定、すなわち信頼を持ってあやまれるものを克服してゆくべきではなかろうか。
 私は人間を信じたい。まして野の人々を信じたい。日本人を信じたい。日常の個々の生活の中にあるあやまりやおろかさをもって、人々のすべてを憎悪してはならないように思う。たしかに私たちは、その根底においてお互いを信じていきてきていたのである
。」


大東亜戦争と、私が犯した過ちは次元が違うかもしれないけれど、誰かを傷つけ不快にし、他人に悪意や憎悪を生じさせてしまった、という点で私も罪びとだ。

自己否定も自己弁護もしない。
自己憐憫もしない。

ただ、私は私の暮らしを惜しむ。
これからの未来を惜しむ。

誰に否定されようと、憎まれようと、私は私の信念を貫き、失敗や失態をバネにモンゴルで生きるのだ。

自分の平常心が崩れるのは、精神の鍛錬が足りないから。
だけど、厳しい言葉に動揺し、涙するのは、そこから這い上がり、自己改善に努めようとあがいているからだ。

宮本常一先生の言葉がこんなにもしみてくるのは、今日、O.C.さんからいただいたメッセージのおかげだ。

今日は、天の啓示が多いようだ。
罪深き人間への神様の愛情があまりにもたくさん注がれたから、東京では桜が咲いたとのニュース。

モンゴル社会で自分が嫌われていたとしても、私はモンゴル社会が結構好きだと思う。
誰にどんな風に思われちゃっているのかわからないけれど、ごめんなさい。

ただ、私は自分の信念のままに天然ボケで突き進んじゃっているから、あんまり私に対してストレスを感じない方がいいですよ。

私もちょっとつらいなって一瞬思いましたが、O.C.さんもしずくさんも、コメントの承認する前に記事自体を削除しちゃって反映できなかったしゅりけんさんも、皆大好きになりました。

ほんと、ありがとうございます。

ヒステリーを起こしつつも、ちょっと冷静になってみれば、こんなにもありがたい意見を言ってくださる方々。
皆、ありがとー!


イジメの問題、ほんと、辛い社会問題です。
日本でもモンゴルでも、アメリカだってどこだってあります。
格差社会もどこだって、今の時代がんがん広がっています。

だけど、そんな社会現象に文句いってもしょうがない。
私達はこの世に生を受けた限り、最後の最後まで命を大切に、なりふりかまわず生きていくしかないんです。

自分の悪いところがわからない、なんて嘘だ。
自分でも薄々感じているんだけど、認めるのがいやで、自分を変えることに躊躇しているだけ。

自分が変わろうとしても認めてもらえなくたっていいじゃないか。
全世界の万人が認めてくれなくたっていい。

でも、自分が心穏やかに人を愛し、人を許し、他人を受け入れる体制をとれるように、自分なりに毎日ちょっとずつ努力したっていいんじゃないかな。

元気よくしようと思うほど、イジメのパワーも巨大化する。
それは30年前だって同じだった。

でも、ちょっとずつ努力していけば、自分はちょっとずつ強くなってくるんだ。

残念ながら空気が読めず、人を不愉快にさせてしまうっていう点は、まだまだ残っているみたいだけど。

まぁ、人生100年生きるつもりで、一世紀かけて、取り組むライフワークってことなのかも。

それでだめなら、自分を傷つけようとする社会なんか、自分からけっとばしちまえ!

私はどんな社会でも人間同士のコミュニケーションの力を信じて、くっついていこうと思うけどね。