12年前のこの日、阪神淡路大震災があった。
大学の卒業論文の執筆ですっかり生活サイクルが狂っていた私が偶然、早朝のニュースで見た光景は、アジアのどこかの国で内乱でも起こったのか、と思うほどのすさまじい火災の地獄絵図だった。

都市機能が麻痺し、家を失い、家族を失い、職を失い、どれほど多くの人たちが恐怖と絶望の淵立たされたことだろう。

ちょうどないない尽くしの国、モンゴルから戻ってきたばかりの私にとっては、日本を代表する大きな街の一つだった神戸の人たちが一瞬にして生活環境を失い、その大きな問題に、飲み水、トイレがあったことが驚愕だった。

私が留学していた当時のモンゴルは、ソ連崩壊と市場経済化への移行期の混乱のさなかで、食料品のほとんどを配給制度に頼っていた頃だった。
モンゴルの庶民生活に入り込むために、私はモンゴル人の友達とゲル街に暮らしたことがある。
水は給水所で購入し、40リットルの牛乳缶で1km近くを運ぶ毎日。
ガソリン不足で給水車がまわってこないときは、近くの川の伏流水が湧き出る泉の水を汲んでいた。
トイレはぼっとん便所を自分たちでほって作る。
空き地はいくらでもあったし、人通りが少ないから、わりと気軽にその辺の暗がりで用が足せちゃう環境。
まぁ、これは今でも変わらないみたいで、ウランバートルの町のど真ん中でも、あきらかに犬の糞ではない、人がもよおした後と思しきトイレットペーパー付きのなんちゃらが転がっているけど。

食料があまりに調達できないから、場合によっては、昼間まで寝てエネルギー消費を抑えたりする人もいたり、食料調達のために、授業を休んで(大学の先生も給料yがもらえずストライキしていたので授業がなかったこともある)市場や食料品店を回り、一日20kmくらいトボトボと30リットルの登山ザックを背負って歩く日々もあった。
食糧配給を待って、朝6時から行列に並び、ほっぺに凍傷を負いながら、結局、物不足で何もかえず、泣きっ面に蜂、空腹に凍傷、みたいなことも多々あった。
そんなこんなで私の面の皮は、まるで鉄面皮みたいに今でも分厚く丈夫だ。

12年前のウランバートルでは、断水は日常茶飯事だったけれど、川から水を汲めば、飲み水も生活用水も確保できた。
トイレなどの排泄行為は、人目をしのんで行える場所もいくらでもあった。
食料はほとんどなかったけれど、60kmくらい歩けば、遊牧民から羊を譲ってもらったり、乳製品やミルクを手に入れることができたから、飢えて死ぬってことはなかった。
電力供給の不足を補うために制限停電が行われていて、1日、2時間程度しか電気は使えなかったし、それさえも、学生寮で一斉に電気コンロを使えばヒューズがとんで停電してしまっていた。

集中暖房が弱かった上に、風でわれた窓ガラスを補修するためのガラスが見つからなかったから、平均最低気温が-25℃を下回る3ヶ月の厳寒期、私は学生寮の室内にテントを張り、シュラフにくるまって暮らしていた。


いってみれば、日常生活自体が、いわゆる被災者の方々と同じ苦労の連続だったけれど、モンゴルという自然の中で遊牧生活に頼ることでなんとかなっちゃっていたのだ。
苦労は苦労なんだけれど、サバイバルのための工夫をいつしか楽しむ、というか工夫することで日常として受け止めていけるようになっていた。
今の在留邦人の人たちには想像できないかもしれないけれど、それはそれで私達はほんとに楽しく暮らしていた。

モンゴルでの暮らしは、「これからよくなる」という希望と共に、もともとそんなに便利ではない暮らしの中で、その日、その日をなんとかしていく、といったものだったから、それなりに楽しめたけれど、震災被災者は状況がまるで違うのだ。

先進国・日本で、3分停電したら、おそらく電力会社の不祥事として大事件になり、水道が止まるなんてありえない!といった暮らしが当たり前だった人たちが、数分間の大地震によって、すべての暮らしを麻痺させられてしまうのだから、その絶望感たるや、はかりしれない。

何よりも、川の水が飲めない、暖をとるための焚き火をするにも燃料がない、といったことが先進国・日本での被災後の生活を困難に陥れたのだ、と私は思っていた。

私が調査していた遊牧民の暮らしは、実にシンプルで、日本人が日常当たり前に使っている道具も知識もほとんどないけれど、人の暮らしに必要なものは、なんでもその辺に転がっていた。しかもただで。

水は川や泉から汲めばタダ。燃料も家畜の糞を拾い集めたり、カラマツの落ちた枝を集めればタダ。
食料はその辺の草原で勝手にもぐもぐ草を食べ、肥え太っている。ミルクも肉も自分たちの暮らしに密接している。
民族服デールは布団代わりになる。
あかりは月明かりや星明りでも十分夜道でも歩けるくらい明るく、ローソクは羊の油脂やバターなどで灯明も作れる。

もしも、大きな地震があったとしても、ゲルは崩壊したところで、人を押しつぶして殺すほどには重くないし、1階建てのアーチ状の構造はちょっとやそっとのことでは倒壊しない。

つくづく、モンゴルは災害に強い生活スタイルなんだなぁ、と不便な日本の都市生活と比べて妙なところに感心していた。

大地震と大火災は、その災害が起こっているその瞬間よりも、その後が悲惨である、と数日後から目の当たりにして、驚愕した。届かない救援物資。自衛隊の救援要請に対する政府の対応の遅さが問題になり、ボランティアであふれかえるも、情報伝達手段がなく大混乱。

阿鼻叫喚に混乱する日本のために、と、被援助国・モンゴルから支援物資が空輸されてきたのは、被災日の翌々日くらいからだったろうか。

「支援国日本に恩返しができる!」とモンゴル政府・モンゴル国会は大地震があったその日のうちに臨時会議を開き、全会一致で、先進国日本への支援を決めたという。

西側諸国の中で一番、多額のODA支援金を投資し、インフラ整備やら基礎調査などに取り組んでいたのが日本政府だったから、モンゴル政府としては、ここぞとばかりの「恩返し」に張り切ったのだった。

1978年に日本のODAで作られたカシミア工場・ゴビカシミア社は、貴重な外貨収入源だったカシミア製品とキャメル製品の在庫をかき集め、モンゴルの国会議員たちは被災者が風雨をしのぐため、とゲルを調達し、コンテナにつめこむと、国に3機しかなかったジェット機のうちの1機をすぐさま関西国際空港に向けて派遣した。

1990年代初頭から、民主化と市場経済制へと移行し、混乱したモンゴルにいち早くODA事業を展開したのは日本政府、これぞまさに恩返し。

留学時代、配給物資だけではとても足りなかったといいつつ、かなり高価だったけれど、美味しくって品質もよかった日本政府支援物資(ほんとは無償援助でNot For Saleと書いてあったけれど、市場で堂々と売られていた粉ミルクとか白米などなど)を私達日本人留学生は愛用していた。

モンゴルのことわざには、「一椀のお礼は翌日に、馬のお礼は一生のうちに」といったものがある。
モンゴル政府にとって、大震災で家を失い、寒さに凍える人たちにとって、自分達にできる恩返しは何か、と考えたときに風雨をしのぐゲルを送ったのだけれど、日本の人たちはゲルを建てることはなく、プレハブの仮設住宅に移り住んだ、というのが実情だったらしいと後からきいたけど。

裕福な人が、「自分たちのできる範囲で」、と行う援助と、
その日暮らしが精一杯の人が「自分たちの財産をなげうって」行う援助では同じものであっても、その意気込みの点で後者は圧倒的に力強い。

たとえ、自分達の食料が明日の分で精一杯だったとしても、夜中に疲れて転がり込んできた見ず知らずの旅人に、その食料を使って料理をおしげもなく振舞う、それがモンゴルの遊牧民気質だ。

「助け合い」は日本で使うよりも、死活問題を分かちあうすさまじい相互扶助として行われる。
数時間の吹雪で全財産を失うという危機が誰にでも起こりうるモンゴルだからこそ、「困ったときはお互い様」という気持ちが強いのだ。

関西国際空港におりたったモンゴルからの援助物資空輸便は、
「混乱した有事に形式ばった外交儀礼をやるよりもとにかく被災者の人たちを助けてあげてください」との使者の言葉を残し、物資の積み下ろし作業が終わった途端にとっととモンゴルに向けて帰ったとのこと。

関西国際空港の駐機料が高いので、そんなに長居ができなかったからだ、なんて話もまことしやかにモンゴル関係者の間でささやかれたけれど、私はやっぱり、「本当に困っている人のために自分達ができること。本当に困っている人たちが欲していること」を真っ先に考えるという、遊牧民文化の相互扶助の精神からの行動だったと信じている。

最近、東京もけっこうグラグラ地震にゆれることがあり、地震なんてめったにないウランバートルに暮らす私にとっては、ドキドキものである。

耐震構造だなんだと、建設ラッシュ、バブル絶頂期のウランバートルの高級集合住宅の広告文句にも出ているけれど、建設途中の頼りない竹ひごみたいな鉄筋が数本入った、強度が出てるとは思えないコンクリートの柱で支えられている9階建てマンションとか、いくらみかけが立派でもやっぱり怖くて住めないなー、と思っちゃう。

神戸淡路大震災は、社会科の教科書に載っている大正時代の関東大震災よりもリアルな記憶鮮明な大災害として、私の記憶に焼きついている。

被災された方々の心の傷や亡くなられた方々の命、おそらくいろいろな人間関係の崩壊や損なわれた生活など、言葉では言い尽くせない、私には想像もできないくらいの悲哀や絶望などがあると思う。

でも、日本人はすごいな、神戸の人たちはすごいな、と思うのは、12年たった今、いや、それよりももっと早いうちに、神戸は都市機能を回復し、美しい街として復興を遂げている。

オリックスブルーウェイブの「がんばろや神戸」のキャッチフレーズは今でも力強い言葉として覚えている。

この日を向かえ、神戸の人たちが、そしてそこにかけつけたボランティアの人たちが、数多くの人たちが街を支え、復興のためにがむしゃらに努力を続けてきたのだと思う。

もうだめか、と思うほどの瓦礫の山を、言い尽くせない悲しみをも乗り越えて、技術と努力とで復興させた日本人は本当にすごいと思う。

モンゴルと神戸の交流は、12年前の今日という哀しみと絶望の中で強い絆として生まれ、モンゴル人留学生や、研修生の受け入れなどを神戸の街の人たちは積極的に行い、奨学金制度なども実施してくれているという。

12年前の1月17日の早朝、テレビでみた焼け野原だった長田区がまだ全部が元通りってわけじゃないにせよ、見事に再建していることに対する日本人の不屈の努力と共に、ようやく配給制度からの脱却をしたばかりのモンゴルが、「自分達にできるせめてものことを」と迅速にかきあつめたカシミア製品とキャメル製品の空輸劇を思い出すと、私は今でも、勝手に涙腺をゆるませて、モンゴル人も捨てたモンじゃない、日本人も捨てたモンじゃない、なんて感動に打ち震えるのである。

この日、命を落とされた方々のご冥福を祈ると共に、見事、復興をとげた方々へのエールを送りたいと思います。

この1月17日は私の生涯忘れられない一日であります。