昨日のじめじめとした寒さが一掃されて、
今日はなぁんて爽やかな快晴なんざんしょ。
 町内会のゴミ当番で身動きが取れない母子をおいて、
 父は独り、のぞみで広島に帰郷・・・

 広島がわれらの本来の本拠地、、、なんだけれど、
父の仕事の関係で、私は人生のほとんどをこの花の都・東京ですごした。
 東京で育ちながら、言語形成期に広島で祖父母と共に暮らした私は、今でも広島弁の方が馴染み深い。
 東京下町情緒も好きだし、今のご近所づきあいも、「たとえ変わり者の娘さん」といわれていようとも決して苦手ではない。


 だけど、やっぱり自分の原風景は、広島にある。
 それに世界に名だたる都市だしね。人類史上初の原子爆弾・通称ピカドンで何もかもを焼き払われ、その経験を持って、人類に先駆けた平和都市を目指す広島。
 祖父が語った原爆体験。戦争に負けるということの馬鹿馬鹿しさ。
 人類が殺しあうことのオロカさ。そして政治の駆け引きによって、広島が火の海になり、狂気の地獄と化したこと。
 3歳にもならない時から聞かされてきた、戦争と平和の話。

 戦後の日本人に生まれた私は、やはり世界人類の平和を望んで戦争放棄する、という人類初の平和憲法を誇りに思っている。
 今、とても微妙な情勢にある、としても、それでも人類の平和を祈り、戦争放棄、専守防衛に努めなければいけない、といわなければいけない。
 戦争に負ける、というのがどういうことなのか、我ら日本人は今、様々な国際情勢において、ひしひしと唇をかみ締めながら苦汁を飲まされている。
 それでも、政治の駆け引きに人類の血が必要だという、20世紀となんら変わらぬこの愚かな状況にイライラしつつ、それでも、自分を育てた広島の自然の強さに救われている。自然に親しむ幼少期、それは父が子育てでかなりこだわっていた部分だと思う。

 幼き頃は、近所の棚田で蓮華草を集めて花冠を作り、大田川の土手でつくしをとった。水泳を覚えたのも大田川。2歳になるかならないかくらいの時のこと。
 山の中に住んでいたので裏山、という表現もヘンなんだけど、とにかく裏山でわらび採りにでかけたまま、母と祖母、そして弟と私の4人はなぜか道に迷い、桃源郷のようなモモの花まっさかりの場所に出くわしたこともあった。
 その後、いっくらその裏山を歩いても、二度と桃源郷を再来することはない。いったい、なんだったんだろう・・・

 モンゴルの留学から帰国したのは、1994年10月。帰国便は広島アジア大会の選手をピックアップするためのチャーター便で、片道が$300ちょっとだった。
 乗客5人でボーイング737に乗り込んた3時間後に広島新空港に降りた。
 早朝3時出発。ウランバートルは10月でも-15度の寒さだった。
 それが広島についた途端に、むっとした空気。気温27度。
 空気が粘りついてきたのには驚いた。さらに広島市の激変した様子にたまげた。
 
 アジア大会の余韻を残す町並み。キレイになったものである。
 でも、何よりも驚いたのは、我が家の目の前にそびえたっていた山が一つ、まるまる消えていたことだった。竹林がさやさやと風になびき、800m先の我が家にも冷涼感を運んでいた竹林は、ペタンコの更地に影も形もない。
 「あの向こうが宮島だよ」といわれていた、世界遺産・厳島神社を要する宮島は快晴の空の下、くっきり、はっきりと見えていた。
 
 宅地造成で棚田がなくなり、桃の畑が消滅し、そして、10年前に竹林が消えた。私が広島に帰ることもめっきり減った。育ててくれた祖父母が他界してますます広島から足が遠のいた。
 自分にとっての「故郷・広島」はなくなってしまった気もする。

 だけど、父はいつの日か広島に帰ることを考えている。
 地震や台風であちこち壊れた庭や家を直すために独りで帰ったのもそのためだ。事務手続きそのほかに疎い父が独りで帰って何ができるのか、はなはだ疑問なんだけど、それでも、父にとって広島はかけがえのない故郷なのだ。

 戦争疎開のおかげで、原爆症とは無縁の父。
 高校時代から大阪まで音楽修行に毎週通っていたお坊ちゃまの父。
 広島弁が話せない父。
 広島の実家のご近所さんとのつきあいは、東京育ちの母の方がよっぽど長く濃い。人見知りの父。

 それでも、やっぱり広島人として生きてきたんだなぁ。。。

 風がぴゅーぴゅーと吹きすさぶ、快晴だった冬の日。
 
 父は2歳の私と二人で広島を訪れたことがあった。
 弟がへその緒を首にまきつけ仮死状態で生まれてきて、ちょろちょろしている私の面倒まで若い両親の手が回らなかったため、広島の父の実家に預けられることになったのだった。

 ぴゅーぴゅーとした風をうまく使って、父は手作りのやっこだこをひょーいひょーいと空高く、豆粒よりちっこくなるまで高くあげて見せてくれた。
 凧揚げが得意な父はちっとも私にたこ糸を渡してくれなかったけれど、真っ赤なほっぺたでキャッキャとはしゃぎまくっていたのを覚えている。

 父がおいていってくれた凧を父のように空高くあげることができなかったけれど、私にとって、やっこだこは父との絆のようなものだった。

 父は40年以上も、人生の半分以上を東京で暮らしながら、やっぱりヤッコ凧をあげたあの空と故郷を思い続けていたのだろうか?

 地元の言葉も話さないくせに、郷土愛が妙に強い、というのは、
 鯉のぼりの季節を過ぎても広島カープをヒソカに応援していることでも証明されている。

 もうそろそろ、父は広島の駅についたはず。
 父さん、そちらも青空ですか?